クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 先週、ある牧師のヨブ記の話を聞いた。それを聞き終わっての第一の感想は、洞察に満ちた話を聞くことができてよかったという思いと、自分には、あそこまでは話はできないという悲しみである。


 このような悲しみに対してどう反応するのか、それが問題だ。

  • 悲しむこと自体が問題だ。人にはそれぞれ与えられたタラント(能力、賜物)の違いがある。それに不平を感じることは神に不平を言うことだし、自分もああなれたらいいなというのは高慢だ。
  • 本来、自分は誇りうるものは何も持っていないのだから、悲しむのはおかしい。つまりは高慢なのだ。自分が聖書の話をするように召されている、そのことを感謝すべきだ。
  • 神は語ってくださる。「あなたは価高く貴い」。神はありのままの私を牧師として召してくださっているのだから、あの悲しみは捨てよう。人は人。自分は自分。「神はありのままを受け入れてくださる」というメッセージを聞くし、自分でも語るが、実はありのままの自分を認めたくないのが他ならない自分自身だ。そんな自分が内にいる。
  • 悲しいなんて思わないで、ヨブ記をもっと勉強すればいいではないか。悲しいなどと自己憐憫に陥るな。

以上のような思いが交錯した。


 日曜日、僕は夏休みで説教を休み、長老が説教してくださる。長老は「神は、『あなたは価高く貴い』と語り、私たちを受けとめてくださる」と話された。自分の頭でこのイザヤ書の言葉を思い巡らすのと、人が語るのを聞くのとでは、違いがあると感じた。神ご自身が「あなたは価高く貴い」と言ってくださるように感じられ、うれしかった。


 あらためて肉の思いが自分にこびりついていることを思う。中学、高校と成績がよく、まあいい大学にも入り、実は「できる」ことが自分の誇りとなった。その誇りは大学時代に徹底的に打ち砕かれ、以後ずっと劣等感に悩んできたが、「できる」ことに誇りを持ちたいという思いは心にこびりついていることを知った。神様がこれをはがしてくださることを願うが、当面は、こういう気持ちが現れた時の対処の仕方を確認しておかねばならない。


 謙遜に学ぶこと。山のふもとで「あの山は高いなあ。てっぺんには到底行けそうもないなあ」と言っている内は、頂上に行くことはできない。頂上に行けないことを悲しんでも、自己憐憫に陥るだけ。どんなに高い山でも、一歩一歩登り続ければ最後には頂上に到達する。時には、登山技術の関係で前進することができない限界があるかも知れない。謙遜に前進すること、それが大切。ヨブ記を学ぼう心に期す。


 人に教えないで自分にも教えなさい、とイエスが律法学者に語った言葉が身にしみる。