クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.5.31)
聖書 ガラテヤ 6:11〜16 キリストの十字架を誇る

 キリスト教の中心はキリストを信じることにあります。キリストを信じて、新しく生まれ変わる、そこに救いの中心があります。この救いは神の恵みです。神の恵みに生かされるとは、人間の努力に価値をおく生き方から、神の恵みに価値をおく生き方への転換をする、それが信仰に生きるということです。


1.ガラテヤ教会について 


 このガラテヤの手紙の最初にパウロはこう書いています。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」。パウロが伝道し、出来上がったガラテヤ教会が、間違った方向に進んでしまったのです。


 パウロは、世界中を伝道するために、一つ所にとどまることはできません。パウロがいない間にガラテヤ教会は変わってしまったのです。何が起きたのでしょうか。キリスト教の教えで大切な教えは、信仰によって義とされるという教えです。義とされるとは、神様に喜ばれる存在となるということです。

 常識的には、神様に喜ばれるには、よい人にならなければならない、神様の教えを守らなければならないと考えます。

  • 親に喜ばれるにはよい子にならなければならない。
  • 先生に喜ばれるには勉強でできる生徒にならなければならない。
  • 上司に喜ばれるには、成果を上げる部下にならなければならない。
  • 人に喜ばれるためには、よいことをしなければならない、

 これがこの世の常識です。この世の人々の考えです。神に喜ばれるには、神の教えを守らなければならない、とつい私たちも考えてしまいます。しかし、私たちは神様に喜んでもらえるほど、立派なことはできていないのです。だって、

  • 私たちは神様の気持ちなんかほとんど考えないで生きているからです。
  • 自分の気持ちしか考えないで生きているからです。


 神様の教えを守るにしても、どんな動機から守っているのでしょうか。私はこれだけ神様の教えを守っているから、

  • 神様は私をどれほど祝福してくれるのか、と期待
  • あるいはこれだけのことができた、と自己満足


 神に喜ばれることは何もできない私たちがイエスを信じるだけで、神に喜ばれる者になるというのが、キリスト教の教えです。


 ところがパウロがガラテヤを去った後、おそらくユダヤキリスト者がやってきたのです。彼らは、救われるためには、イエスを信じるだけではなく、割礼を受ける必要があると説いたのです。


 昔神様は、イスラエルの男性に割礼を受けることを命じました。割礼とは、体にしるしつけることで、神の民のしるしでした。ユダヤ人にとっては、神の民のしるしですから大切なことです。イエスを信じた者もまた、神の民となりますが、イエスを救い主と信じればそれでよいのです。ところがユダヤキリスト者たちが、割礼も必要だと教え、異邦人キリスト者たちは迷いました。迷っただけではなく、割礼を受けるようになりました。

「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」(1:8)。

 パウロの激しい言葉です。救いは信じるだけ、つまり恵みによる救い、これが福音です。人間の働きも救いに必要というのは間違った教えなのです。


 ガラテヤの教会だけでなく、救いには人間の働きも必要という間違った教えに、私たちは簡単に感染しやすいのです。私たちはすでに感染しているといってもよいのです。この感染から癒されたという自覚がない限り感染しているといってもよいくらいです。


 信仰者としての自分の行いが不十分だから、神の恵みを十分に受けられないと考えてしまうのです。伝道が進展しない、それは自分の説教が貧しいからだ、勉強が足りないからだ、と牧師は簡単に自分を責めます。自分を責める、それは、自分がもっとよい働きをすれば、よい結果を得たに違いない、と考えるのです。つまり人間の努力に価値をおく生き方です。


 自分がこうだから今の自分はこういう現実なんだ、と考えるのです。すると、自分は今のままでよいからと考え、神様の恵みに期待しなくなります。あるいは、もっと頑張らなければと考え、頑張れない自分を責めたりします。


「人間の行いも救いに必要という間違った教え」はもっともらしく見えますが、危険な教えです。人間の努力に価値をおく生き方は信仰にとって危険なのです。だからパウロは、激しい言葉で、そういう教えをする者は、呪われよとさえいうのです。


2.手紙でのパウロの主張 


 今日の手紙でパウロは何と述べているでしょうか。まずパウロは、主イエス・キリストの十字架以外に誇りがあってはならないと述べます。他に誇りを持たないほどに、イエス・キリストの十字架は大切なものだ、貴いものだというのです。なぜだと思いますか。


 キリストの十字架の大切な意義は、キリストと共に私たちも十字架につけられて死んだという事実なのです。キリストの十字架は罪を赦すだけのものではありません。キリスト共に私たちが死ぬのです。キリストと共に十字架で私は死んだと認める時、何が起きるのでしょうか。

「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(2:19〜20)。

 キリストが私の内に生きるのです。これが恵みです。私たちは恵みに価値をおく生き方をします。キリストが、私の内で生きる、これが恵みによる救いであり、私たちが信仰者として生まれ変わると言うことです。

「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(14節)。

 これは、私と世の関係は完全に切れたことを意味しています。この世の人の考え、この世的な考えは、私たちには関係がないのです。人はただイエスを信じるだけで救われ、神の恵みによって救われるのです。


 人はただイエスを信じるだけで、イエスが、信じる者の心に住んでくださり、その人を生まれ変わらせるのです。神は生まれ変わった人を喜ぶのです。自分の努力で少しはましな人間になったと誇る人間を神は喜びません。そこには高慢がにおっているからです。

「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」(13節)。

 割礼を受けている者、これはガラテヤ教会に間違った教えをもたらした人たちです。パウロは、彼らは律法を守っていませんと告げます。律法とは神の教えのことです。彼らが救いに割礼が必要だというのは、彼らが誇りたいからだというのです。人間は誇りなしには生きていけません。人間は誰でも人間としての尊厳を持っています。だから人格を傷つけられると、プライドを傷つけられたと感じて人は怒りを感じるのです。でも何を誇るかには注意しなければなりません。


 パウロは、誰にもまして律法を守ってきたと誇りうる人でした。彼はその誇りを捨てたのです。彼は、イエスを信じる時、神に喜ばれることを知って、イエスを信じたというのです。自分が神に喜ばれる存在であると知る、これは大切な経験です。これはイエスを信じる人しか味わえないことをパウロは知ったのです。


 パウロは、キリストを信じ、自分が新しく生まれ変わったことを信じました。その時彼は、自分は罪人の頭であると述べました。新しく生まれ変わった時、彼はわかったのだと思います。自分は神の気持ちを考えていなかった、と。神の教えを守って、自分を誇っていたに過ぎないと。そして、キリストを信じ、新しく造り変えられ、神の気持ちを大切にして生きる人間に変えられたのです。

「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(6:15)。

 大切なのは、イエス・キリストを信じ、新しく生まれ変わることなのです。神に喜ばれるためにあれこれの教えを守ろうというのはつまらない考えなのです。神は、私たちを救うために、私たちを生まれ変わらせようとするのです。


 その神のみ心を無視してどうして神に喜んでもらえることができるでしょうか。大切なのは、新しく創造されること、新しく造られることなのです。


 キリストと共に十字架につけられるから、新しく創造されるのです。だから、キリストの十字架は本当に大切なもの、私たちの誇りなのです。


3.我々へのメッセージ 

  • イエス・キリストを信じるあなたは新しく造られた者です。
  • あなたは神の気持ちを大切にする信仰者に造り変えられています。
  • 神を愛し、人を愛する人にされています。
  • 神に仕え、神の栄光を現すことのできる人にされています。


 物事がうまくいかなく見えても、それは、あなたに原因があるのではありません。神の恵みが欠けているからでもありません。私たちはなおも神の恵みの下に、神の導きの下に生きているのです。折りを得ても得なくても、ただ神を愛し、人を愛し、神と人に仕えて生きるのです。


 私たちに必要なことは、神を信じることです。神がいつも恵み深く憐れみ深い方であると信じ抜くことです。そして生きることです。

「 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように」(16節)。

このような原理とは、神が恵み深く私たちに行動して下さるということです。

  • エスを信じるだけで罪を赦し救って下さるのが神です。
  • エスを信じるだけで、私たちを新しく生まれ変わらせて下さるのが神です。
  • エスを信じるだけで、私たちを喜び、恵みと祝福をもって導いて下さるのです。

 人間の努力に価値をおく生き方から、神の恵みに価値をおく生き方への転換が大切なのです。


祈り


天の父、イエス・キリストの十字架は何と素晴らしいものでしょうか。
私たちは新しく生まれ変わり、神様に喜ばれる者となります。
私たちも神様の気持ちを大切に考え、神様を愛する者になります。
そして人を愛する者になります。
神を愛し、人を愛して生きる時、私たちは祝福された人生を恵みとして与えられます。
しかし危険な考えが私たちの心を侵略し、支配しようとします。
自分の努力が頑張らなければならない、と私たちの心にささやきます。
頑張らなければ、神様の祝福は得られないという考えはもっともそうです。
しかし、それはこの世の人々の考えです。
私たちの努力は、神様の恵みを受けて生きる努力です。
神様に喜ばれていると信じて生きることです。
天の父、信仰者の歩みの幸いであることを教えて下さい。
今幸いを知った人々が、その幸いを大胆に証しする者とならせて下さい。
この幸いを多くの人害することができるようにしてください。
天の父、私たちを憐れみ、真理に立ち帰らせて下さい。
イエス・キリストのみ名により祈ります。