クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 天にのぼり

本日のメッセージ(2009.6.21)
聖書 マルコ 16:19〜20 天にのぼり

説教を準備する中で、聖書のある箇所が心にとまりました。

「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(ペトロ一1:8〜9)。

 ここにはクリスチャン特有の喜びが語られています。しかもそれは、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びとあります。キリストを見なくても愛し、キリストを信じる人、その人が信仰の実りとして魂の救いを受け、喜びに満たされているというのです。天に上られたイエス・キリストを信じる人は、この喜びに満たされるのではないか、そう思いました。このことを具体的に教えられ、この喜びを受け取りたいと願います。


1.教会を通して天のキリストにつながる

「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」(マルコ16:19)。

 主イエスは、天に上げられ、神の右に座られたと聖書は告げます。主イエスは、どこにおられるのかといえば、天に上げられ、天に帰られたのです。では、天に戻り、主イエスは何をなさるのでしょうか。主イエスはどうなったのでしょうか。

「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェソ1:22〜23)。

 神は、キリストをすべてのものの上にあるかしらとして、教会に与えたとあります。さらに教会はキリストの体であり、キリストは教会の頭となられたと聖書は告げます。教会はキリストの体であり、キリストは教会の頭というのです。何か不思議なことを聞いているような感じがします。教会はキリストの体だというのです。キリストは天にあげられているのに、教会はキリストの体? どういうこと?


 教会は、信仰者の集いという点では、目に見えます。でも何が教会なの、っていわれると返事に困ります。家に、両親がおり、子供がいます。そこには家庭があるわけです。家庭って何? と言われたらこれも返事にちょっと困ります。


 家庭というのは、人間関係です、ということができますね。そこにどういう人間関係があるのか、それが、どういう家庭がそこにあるかを示しています。仲のいい家庭もあれば、争いの絶えない家庭もあるし、家族がばらばらな家庭もあるし、互いに支え合う家庭もあります。色んな家庭があります。学校には、クラスがあります。一つのクラスには生徒がいます。そのクラスの人間関係、それがそのクラスがどんなクラスかを表しています。教会も、そこに集っている人の人間関係と言えます。そこにどんな人間関係が見られるのか、です。


 教会がキリストの体という時、教会に集う人々の人間関係、キリストとのつながり方が、キリストを映し出すものになるということです。人が集まっていれば、必ずそこに雰囲気というものが生まれます。キリストを感じさせる雰囲気がある時、そこにはキリストの体ができあがります。キリストを感じさせると言いましたが、私たちの普通の感覚では、キリストを感じるというより、明るい、暖かい、居心地がいい、励まされる、などという感覚になると思います。


 キリストの体そのものは見えませんが、私たちは頭であるキリストにつながっています。洗礼を受けるとは、キリストにつながることを意味しています。主イエスは、ぶどうの木のたとえを話されました。私はぶどうの木、あなた方その枝である。ぶどうの木全体、これが主イエスです。私たちは、ぶどうの木の中の一本の枝です。私たちは枝として、ぶどうの木につながっています。主イエスが天におられるなら、私たちは天におられる主イエスにつながっているのです。


 私たちの存在、私たちの体はこの地上にあるのですが、私たちはすでに天におられるキリストに結びつき、つながっているのです。私たちは、すでに天につながっているのです。私たちはすでに天国にいるといってもよいのです。天におられる主イエスにつながっているからです。


エフェソの信徒への手紙に不思議な言葉があります。

「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(エフェソ2:5)。

 私たちは教会を通して、つまり頭であるキリストにつながり、天におられるキリストにつながっているのです。


2.天のキリストにつながって生きる


 そこで大切になることは、<キリストにつながって生きる>ということです。キリストの方からこの結びつきを切ることはありませんが、私たちの方で切ってしまうことがあってはなりません。イエスはこう教えました。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)。

 私たちがキリストにつながることが大事なのです。


 教会とは人間関係だとお話ししました。教会に集う信仰者が、どんな人間関係で結ばれているのか、信仰者がキリストにどうつながっているのか、それによってどんな教会になるのかが決まります。キリストを映し出す教会になることが大事です。キリストを映し出してこそ、キリストの体なる教会になり、キリストが頭としておられることがわかるからです。

「 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」(ヨハネ15:7)

 これは、主イエスにつながるとは、主イエスの言葉にとどまること、主イエスの言葉に生きることを意味します。その時私たちはキリストにつながって生きることになります。そして教会がキリストの体となっていきます。


 キリストは天におられるのですが、「私はあなた方と共にいる」ともおっしゃいました。つまり、キリストは教会におられ、私たちと共におられるのです。さらに、キリストは私と共におられ、わたしのうちにおられるのです。今年の教会の主題聖句は言います。

「信仰によって、キリストをあなた方の心の内に住まわせ、愛に根ざし、愛にしっかり立つ者として下さるように」(エフェソ3:17)。

 私たちのうちにキリストがおられ、私たちがキリストに励まされて愛に生きる時、教会はキリストの体になります。私たちの内にキリストが生きて働いておられることがわかるようになるのです。キリストの体の一員として、頭であるキリストにつながり、互いに愛し合い、キリストに仕えていく時、教会は、キリストの体とされていきます。


 最近、牧師として生きていてよかったと思うことがあります。


 教会に設けられている委員会、オルガン奏楽者の会、長老会などの働きが一つとなって、礼拝が整えられ、教会生活が守れることを感謝しています。パウロはキリストの体を人体にたとえ、それぞれの部分がそれぞれの働きをすることにより、体が機能することを語っています。教会員の皆さんの奉仕がキリストの体の形成に用いられているのを見ることはうれしいことです。


 また学びの中で経験することもあります。学ぶために共に集い、一人一人が信仰に生きている様を分かち合います。弟子コースではディボーションの分かち合いをします。五つの目的では、本に書かれている問いについて答を分かち合います。すると一人一人が信仰に生きている様子が伝わります。皆、課題を抱えて生きています。そしてキリストに導きを求め、解決を求めています。そして共に祈り合うわけです。


 このような分かち合いや、委員会などの活動を通して、一人一人が頭なるキリストにつながっていることを知ります。キリストの体である教会を見ることができます。


 最初に、クリスチャンの喜びについて語りました。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。


 私たちはキリストを見ていません。しかしキリストを愛します。それは言い換えると、キリストの体である教会を愛するということです。キリストは見えませんが、キリストが教会の頭として、教会に臨在しておられると信じます。

そして

  • キリストの体なる教会の形成に仕えていく時、
  • 私たちが頭なるキリストにつながり、キリストの体を築いていく時、

言葉では言い尽くせない喜びにあふれていく、そう私は信じます。そしてその喜びを私たちはすでに味わっていると思います。


また私たちが築くのは教会だけではありません。創世記の冒頭で神が創造されたアダムとエバが結婚し、夫婦は一体とされたとありますが、家庭を築くことも大切な働きです。一体となる夫婦が築かれていく時にも、言葉では言い尽くせない喜びが満ちあふれていきます。私たちはこの喜びを、私たちが取り巻く状況が悪くても、キリストにつながるなら、恵みとして神から豊かに与えられるのです。この喜びを与えられていることを自覚し、感謝したいと思います。


祈り


天の父、主イエスが地上におけるすべての働きを終えて天に変えられました。あなたが計画した救いのみ業がすべて行われたことを感謝します。
そしてイエスの弟子たちによって福音が宣べ伝えられ、教会が世界各地に築かれました。そしてキリストの体なる教会の形成が、いつの時代も、どの場所においても、なされてきました。
キリストを見ることはできませんが、教会がキリストの体であると信じ、教会を愛し、教会に仕え、代々の信仰者たちは、言葉では尽くせない喜びに満たされてきました。
私たちもまた、キリストの体である教会の形成に仕え、言葉で言い尽くせない喜びで満ちあふれますように導いて下さい。
また頭であるキリストは天におられ、私たちが、天におられるキリストにつながっていることを感謝します。地上の歩みを終えた時には、キリストが私たちを身元に引き寄せて下さることを信じて感謝します。
私たちを頭なるキリストにつながるものとして生かして下さい。イエス・キリストのみ名により祈ります。