聖書 ルカ 8:1〜3
説教 仕える人
→教会というのは不思議なところかも知れません。
- 教会堂という建物があります。
- 人も定期的に集まってきます。
- 会議も行われているようです。
- 教会には組織もありそうです。
- この組織はどうやって運営されているのでしょうか。
- 運営のためのお金はどうなっているのでしょうか。
- 教会には牧師がいるし、役員や教師もいるみたいだ。
- それぞれ、どれぐらいの給料、報酬をもらっているのだろうか。
- 初めて教会に来た人には不思議に思えるかも知れません。
- 教会で報酬をもらって働いている人は牧師だけです。
- 役員(長老)や教師の働きをしている人は、無報酬です。
- 神に仕える働きを奉仕として行っているのです。
- 奉仕ですから、報酬はないのです。
- 教会の働きは、奉仕によって成り立っていると言うことができます。
- 今日読んだ聖書では、主イエスは旅をし、行く先々の町や村で神の国の福音を宣べ伝えています。
- 主イエスは12人の弟子と一緒に旅をしています。
- さらに多くの婦人たちが一緒に旅をしています。
- この女性たちは、自分の持ち物を出し合って奉仕をしていたと書かれています。
- なぜ、自分たちの持ち物を出し合って、食物を揃え、料理をし、主イエスや弟子たちの旅を支えたのか不思議に思いませんか。
→ ルカは女性の働きに目を留めています。
- この福音書を書いたのはルカと呼ばれる人です。
- 今日の短い聖書の箇所は、マタイ、マルコ、ヨハネ福音書には書かれていません。
- ルカだけが書いている物語です。
- ルカは女性の働きを温かいまなざしでもって記録しているのです。
- 主イエスは弟子を連れて旅をします。
- よく考えれば旅を続ける時、どこかに宿泊するでしょう。
- 一日の三度食事をするでしょう。
- 主イエスや弟子たちは、食事をどのようにして準備したのでしょうか。
- 宿泊する場所は誰がどのようにして手配したのでしょうか。
- 婦人たちが陰で働いていたのです。
- この婦人たちの働きがなければ、
- 主イエスと12人の弟子たちだけでは、福音を宣べ伝える働きはできなかったのです。
- 婦人たちの奉仕が、福音を宣べ伝える働きを支えたのです。
- ルカだけが、婦人たちの働きを記録しています。
- 婦人たちの働きに敬意を表しているのです。
→考えてみると色々な疑問が湧いてきます。
- この婦人たちには家族はいなかったのだろうか。
- 家族がいたのに家族の世話を放置し、主イエス一行に奉仕をしていたのでしょうか。
- それとも皆独り身の女性だったのでしょうか。
- ここには、ヨハナという婦人がいます。
- 彼女にはヘロデ王に仕える夫がいるようです。
- 多くの女性も一緒だったと書かれていますが、十分なお金があったのでしょうか。
- 主イエスと弟子で13人、ここに名の記されている婦人が3人。それだけで16人。
- その他多くの婦人たちも一緒だったとありますから、20人から30人近くの人がいたことになります。
- これは団体旅行です。
- 旅の間、こんなに沢山の人々の料理をつくるとすれば、かなりのお金が必要だったと思います。
- この婦人たちは主イエスや弟子たちと一緒に旅をし、やがてエルサレムに行きます。
- そして主イエスの十字架を目撃することになります。
- それだけではなく、墓地で復活した主イエスに出会うのです。
- 家を空けて大丈夫だったのか、大所帯の生活をまかなうお金を調達できたのか
- それは分かりません。
- なかには資産のある婦人が、いたのかもしれません。
→教会もまた、教会員の奉仕によって支えられています。
- ある人は長老として、教会の運営について責任を持ちます。
- ある人は教師として、教会に来る子供たちに福音を伝える働きをします。
- この教会では、いくつかの委員会を設け、教会の働きを支えます。
- 多くの人が何らかの形で教会の働きを支えています。
- そしてみな無報酬です。
- 教会の働き教会員の奉仕によって支えられています。
- 奉仕、それは神に仕える働きです。
- 奉仕、それは神のためになされる働きです。
→この奉仕は、自分がしたいからするというのではありません。
- ボランティアは、自発的に奉仕をする人のことを言います。
- 東日本大震災の時には、沢山の人が被災地に出かけ、ボランティアとして奉仕をされました。
- 自分の意志で自発的に奉仕活動をしています。
- 教会における奉仕、あるいは神に仕える奉仕というのは自発的なものというより
- むしろ、神の呼びかけに応えて行われるといった方が正確だと思います。
- 神さまは、人々を用いて、働きをなさるのです。
- 主イエスご自身、私についてきなさいと呼びかけ、漁師たち、あるいは取税人を弟子にしました。
- 彼らは主イエスの呼びかけに応え弟子となり、神に仕える者となりました。
- 神の働きのための奉仕をする者となりました。
- 聖書の神は、人を呼び出し、ご自分の働きをさせるのです。
- モーセという人物がいました。
- 彼もまた神に召された人でした。
- エジプトで奴隷で苦しんでいたイスラエルの民を救い出すために
- 指導者として働くよう神に呼びかけられました。
- この呼びかけに応えることを神の召しに応えると言います。
- 神は私どもを奉仕の業に召す方でもあるのです。
→私どもは、神に召されている、そう信じて奉仕をするのです。
- そうはいっても、神の呼びかける声が直接聞こえるわけではありません。
- 心で神の促しを聞くのです。
- 神がわたしを召しておられると信じるのです。
- 神の呼びかけ、神の召しは、神から来たものとはっきり分かるわけではありません。
- そこで信仰をもって受けとめるのです。
- 私どもの教会では、選挙によって長老が選ばれます。
- 投票によって選ばれます。
- 選挙を通し、投票を通して神のご意志が現れていると信じるのです。
- 牧師の場合は、心の中に神の促しを感じ、神の召しと受けとめてから、
- 神学校で学び、最後には試験を受けて牧師になります。
- 教会におけるどのような働きも、神の召しとして受けとめることが信仰です。
- 神に召されているとの信仰によって受けとめることが奉仕をする時に大切となります。
→どうして人は神の召しに応えようとするのでしょうか。
- 今申し上げた通り、神に呼び出されていると受けとめることのできる根拠はないのです。
- だから、信仰を持って受けとめるわけですが、なぜ、信仰で受けとめ、
- その召しに応えようとするのでしょうか。
- 今日の聖書で、三人の女性の名前が書かれていました。
- この婦人たちは、主イエスによって悪霊を追い出してもらい、あるいは病気を癒やしてもらったのです。
- そのことの感謝の気持ちが婦人たちにはあり、その感謝の気持ちから、奉仕をする気持ちになったのです。
- 神さまから救いが与えられたので、神さまの召しに応えようとするのです。
- 主イエスによって病気を癒やされた人は沢山います。
- 主イエスによって悪霊を追い出してもらった人も沢山います。
- 今日の聖書に登場する女性たちは、心の内に促しを感じたのだと思います。
- 救いの恵みに感謝したい、感謝の思いを表したい、そう思った時、
- 主イエス一行に奉仕をするという思いが与えられたのです。
- テサロニケというギリシャの町があります。
- 昔、パウロという伝道者が、この町にイエス・キリストを宣べ伝えたことがあります。
- テサロニケの人々はパウロの話を聞き、喜んで主イエスを救い主と信じたのです。
- 信じただけではなく、神に仕えるようになりました。
- そのことについてはこう聖書に書かれています。
- 「あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか」、人々が言い広めているというのです。
- まことの神さまを信じる喜びが、神に仕える働きへテサロニケの信者を押し出しのです。
- 救われた喜びが、神の召しに応えて生きていくようにさせたのです。
→召しに応えるには犠牲が伴います
- 神の呼びかけ、召しに応えて生きていくためには、犠牲が伴います。
- 今日の聖書に登場する婦人たちは、自分たちの持っているものをさし出しました。
- ある人は家族を家に残してきたかも知れません。
- 家族を犠牲にしたと言うことができます。
- 神の召しに応えるには、時間を、労力を、持ち物を犠牲にするのです。
- しかし、召しに応える人にとって、それは犠牲ではなく、神への捧げ物となるのです。
- ですから、奉仕を神さまの召し、呼びかけに応えることと受けとめることができないと、奉仕は苦痛になります。
- もっと自分にはやりたいことがあるのに、時間が惜しい、お金が惜しい、と犠牲を払うことに困難を覚えるのです。
- 神の召しと受けとめる時、犠牲ではなく、神への捧げ物となるのです。
- 献げることを喜ぶようになるのです。
- 献げる、それは神を礼拝する心です。
- 信仰を持って神の召しを受けとめる時、奉仕は喜びとなるのです。
- 仕方なく奉仕をする時、義務として奉仕をする時、それはよろこびにつながるとは限りません。
- しかし神の召しと信じて受けとめる時、奉仕は喜びとなり、誇りにもなるのです。
→奉仕をする人、仕える人は、キリストに似ています。
- 主イエス自身、こう言われました。「わたしが来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの人のために自分の命を捧げるためである」。
- 仕える、それは主イエスの生き方でした。
- 神に仕える人、神に奉仕をする人は、主イエスに従う人、主イエスに似た人なのです。
- 主イエスに従うこと、主イエスに似たものとなる、それは信仰者の喜びであり、光栄です。
→神に仕えることは幸いなことです。
- そこには喜びがあります。しかも一時的な喜びではなく、心にずっと満ちる喜びです。
- テサロニケ教会の人たちも、神に救われ、神に仕えることに喜びを見いだしたのです。
- さらに神に仕えることは誇りでもあります。
- 伝道者パウロはこう語っています。
「私は、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています」(ローマ15:17)。
- これは人に対して自慢するような誇りではありません。
- 神さまを喜ぶことです。神さまを誇りとすることです。
→牧師になって間もない頃、地区の中高生のキャンプに行ったことがあります。
- 最後の日、昼食を食べ、食べ終わったら解散です。
- 生徒たちは皆食べ終わり、三々五々、帰って行きます。
- すると一人の年輩の牧師がテーブルを台布巾できれいに拭いている姿が目に映りました。
- 私は衝撃を受けました。謙遜な仕える姿を見たのです。
- 主イエスは、偉い人になりたいなら仕える人になりなさいと弟子たちに教えられました。
- 仕える人の姿を見て、自分がとても恥ずかしく思えました。
- 仕える姿にはかっこうよさはありません。
- しかし主イエスと一つであるという喜びと感謝があることを私も知るようになりました。
- 仕えることには喜びがあります。
- それは神さまにつながっているという喜びです。
- この喜びがあるから、教会の働きに仕え、神に仕える人たちが、黙々とその業に励んでいるのです。
→神は、あなたを召し、あなたを用いようとなさる方です。
- あなたは呼びかけを聞いた時、信仰を持って受けとめられたでしょうか。
- 神に仕える喜び、これは神さまから与えられる喜びです
- 静かにそして心にあふれる喜びです。
- あなたにもこの喜びが用意されているのです。
祈り
天の父、私どもには、自分の欲することをしたい、自分の欲するものを手に入れたいという強い思いがあります。その願いがかなえられる時、喜びが、満足があるからです。しかし天の父、教えてください。人のために生きる時、別な喜びと満足があることを。そして神さまに仕えることにまさる喜び、誇りがないことを。
天の父、教会は多くの信者の奉仕によって支えられています。多くの信者があなたに使えることによってその働きが維持されています。私どもに、あなたに仕える信仰と喜びをさらに豊かに与えてください。そしてイエス・キリストを宣べ伝える貴い働きへと私どもを召してください。この一週間、家族を始め、色々な人と出会います。それらの人々に仕えることができますように。イエス・キリストの御名により祈ります。