クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.7.11) 聖書 マルコ 5:1〜20
私は神に遣わされた者だと感じるようになった(1)


 先週の祈祷会で教区の婦人研修会に参加された方が、「研修会で講師の方が『感情にとらわれないで、感謝しなさい』と熱く語られたのが心に残りました」と感想を話してくださいました。聖書に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことを感謝しなさい」とあります。「すべてのことを感謝する」それは無理だと私たちは考えますし、感謝できないことだってあります。


 でも、感情はどうであれ、感謝しなさい。感謝するとき、逆に感情が変えられるのです、と教えられたそうです。私たちの感情は、私たちの行動に影響します。人は誰しも正直に生きていきたいと思うので、感情が許さないことはしたくないし、しません。その典型は、「赦す」ということですね。聖書は人を赦すことを教えていますが、赦せないという感情がある限り、なかなか人を赦せません。


 私たちの行動は感情が支配しているという面があります。理性的な人の中には、感情に左右されないで、すべきことをする、という生き方を貫く人もいます。感情に支配されないで、感情に逆らってすべきことをしていくとき、感情が変えられるというのは一つの真理だと思います。感情は行動について来るんです。


 信仰の成長の最後のポイントに来ました。最後のポイントはこうです。

「私は神に遣わされた者だと感じるようになった。日々の生活が輝きに満ち、愛と奉仕に生きる喜びを感じている」。

 ここでは信仰者の実感が語られています。私は神に遣わされた者だと感じている。日々の生活が輝いていると感じている、愛と奉仕に生きる喜びを感じている。こんな実感を持つことができたら、うれしいなと思います。


 実感というのは、おのずと生まれてくるものであって、感じよう、感じようとして感じることができるものではありません。だから、こういう実感を得るようにしましょう、などとつまらないことは言うつもりはありません。でもこのような実感をもてたらいいなと思います。悩みや問題があったら、こういう実感を持てないのか、と言われるなら、そんなことはないと答えます。悩みや問題のない人なんていません。悩みや問題があるにもかかわらず、このような実感を持てるのです。この実感を持つための鍵は、チャレンジです。
神から遣わされた者として生きてみる、愛と奉仕に生きてみる、というチャレンジです。

「すべてのことに感謝しなさい」

と聖書は教えていますが、そんなの無理だと言って、この教えを無視すれば、それっきりです。何も生まれません。


 しかし、感謝できないという気持ちでも、感謝の言葉を出していく、そういうチャレンジをしていくのです。そして自分の気持ちが変えられて感謝できないと思えることに感謝できるようになるとしたら、それは素晴らしい経験です。神の素晴らしい恵みと言えるでしょう。チャレンジするとき、恵みが天から降ってくるのです。今日の聖書にもある意味チャレンジした人が登場します。


 イエスは舟に乗ってゲラサ地方に着いたとあります。ここはユダヤ人でない人々が住む地域です。異邦人が住む地域です。信仰熱心な律法学者、ファリサイ派の人々から見れば、汚れた地域ということもできます。イスラエルの民に与えられた神の教え、律法によれば汚れているとされる豚を飼っている人々が生活している地域です。


 汚れたとされるような場所にイエスは行ったのです。律法学者、ファリサイ派の人々だったら絶対に行かない場所へイエスは行きました。そこでイエスは人々と会うのです。今日の聖書では汚れた霊に取り憑かれた人と出会います。信仰熱心な律法学者、ファリサイ派の人々だったら絶対避けるような人とイエスは出会うのです。そしてイエスは、その人をも救うのです。異邦人の住む地、ゲラサ地方にイエスが行かれたことは、イエスは誰をも拒まないお方であることを意味します。イエスのいやし、イエスの救いを受けることのできない人は、一人としていないことを聖書は伝えています。


 私たちは時に、自分のような者は、神の憐れみを受ける資格がないとか、神の恵み、神の好意を受けることはできないと思うことがあります。自分は不信仰だから、罪深いから、と理由を挙げて神に顧みられるはずがないと考えることがあります。そういうことありませんか。でもそれは間違いです。神は救いを求める者を拒むことは決してありません。


 ゲラサ地方にいて、汚れた霊に取り憑かれた男、昼も夜も墓場や山で叫ぶ男、石で自分を打ちたたいたりしている男。私たちからすれば、何か恐ろしく、気味が悪く、近づきたくないと思う人をイエスは拒むことなく受け入れていきます。


 ここに登場するのは、汚れた霊に取り憑かれた人です。彼は、人々からは見捨てられ、救いの望みを全く持てず、みじめで絶望していた人です。彼は汚れた霊に取り憑かれ、その結果として、人々は彼を鎖でつなぎ止め、足枷をはめようとしたのです。人々がそうする一つの理由は、彼が石で自分を打ちたたき、自分を傷つけているからです。でも汚れた霊の力が、鎖を引きちぎり、足枷を砕くのです。


 汚れた霊のせいで、自分でしたくなくても自分を傷つける、何と惨めなことでしょうか。自分の惨めさに打ちのめされ、悲しみと絶望のあまり彼は、山で墓場で、叫ぶのです。彼は汚れた霊の支配から自分を自由にすることはできません。彼は町あるいは村に住むことができず、墓場に住むしかなくなったのです。彼に救いの望みは全くありません。ところがイエスが来られるや彼はすぐにイエスの所に行くのです。2節

「イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」。

 この時。彼は、イエスのもとに行かせまいとする汚れた霊の力に対抗して、自分の力を振り絞ってイエスのもとに行ったのです。彼がイエスのもとに来たとき、汚れた霊が言います。

「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」。

汚れた霊はイエスのもとに行きたいなどとは全く考えません。苦しめられるからです。これまでこの男は、汚れた霊の力に支配されていました。誰が好んで自分を石で打ちたたき自分を傷つけるでしょうか。汚れた霊の力に彼は抵抗できなかったのです。しかし今、彼は、一抹の希望を抱いて、汚れた霊の力に抵抗して、力の限りを尽くしてイエスのもとに来たのです。

  • 私たちも自分の悩み、問題は解決しそうもない、解決は無理だとあきらめることがあるかもしれません。
  • 神に祈っても、いくら祈っても解決が見られないと、もうダメなんだとあきらめることがあるのではないでしょうか。
  • この問題は、私が背負うべき十字架で、生涯負わなければならないと覚悟すること、あきらめることがないでしょうか。

 しかし汚れた霊に取り憑かれた男は、イエスに望みを託したのです。7節と8節を読んで気がついたことがあります。普通だったら、イエスが汚れた霊に「この人から出て行け」と言ったので、汚れた霊は、「神の子イエス、かまわないでくれ」と大声で叫んだと出来事が起こる順番に物語ると思います。しかしこの福音書を書いたマルコは、「かまわないでくれ」という汚れた霊の言葉を最初に述べるのです。マルコはイエスの権威、イエスの力を強調しているのです。イエスに救うことのできない問題、苦しみはないと、マルコは主張しているのです。そしてイエスは汚れた霊を追い出し、この男は癒されました。


 私たちは解決の見込みがないと思える問題をイエスのもとに差し出し、解決を期待することができるのです。もし差し出してダメだった時、がっかりするから、といって問題を差し出すことをためらうこともあるし、いくらイエスでもダメだろうと疑うこともあります。しかし聖書は、イエスは助けることができる、と私たちを励ましてくれます。


 この後、物語はさらに続きます。汚れた霊は豚に乗り移り、その豚は崖から落ちておぼれて死にます。豚を飼っていた人たちは、町や村へ行ってこのことを知らせます。すると知らせを受けた人たちがやってきて、汚れた霊に取り憑かれた人が正気に戻ったのを見て恐ろしくなったとあります。これは、神がここにおられると肌で感じるときの恐ろしさです。


 そして町や村から来た人々はイエスにここから出て行ってもらいたいと言います。汚れた霊がイエスに「かまわないでくれ」と言って自分のもとから離れて欲しいと大声を上げたように、人々は、自分たちのもとから離れて欲しいとイエスに言い出したのです。


 汚れた霊を追い出してもらった人は、イエスについて行きたいと言いましたが、人々は、イエスに出て行って欲しいと言い、対照的な反応を示しています。不可能を可能にするイエスのことを人々は不気味に思い、恐れ、嫌ったのです。豚の損害もありました。イエスがいたらどんな被害を受けるかわからない、そんな思いも働いたと思います。イエスに関わることを避けた人々がいたのです。


 イエスに出会った人は皆病気が癒され、悪霊が追い出され、救われたことが福音書には書かれています。私たちは、イエスは誰をも拒まないし、イエスに解決できない問題はないと聖書から教えられました。
では私たちはどこでイエスと会い、問題を解決してもらえるのでしょうか。私たちの中には、さんざん助けを求めて、解決を求めて祈っているけど、未だに解決がない、助けが来ない、と言う人もおられると思います。私たちはどこへ行けばイエスと出会うのでしょうか。

(間をおく)

エスは言いました。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)。

 つまり教会です。さらに言えば信仰者の交わりの中に「私はいる」とイエスはおっしゃったのです。そして教会はキリストの体と言われます。教会つまり信仰者の交わりの中で私たちはイエスに会うことができるのです。汚れた霊を追い出してもらった男は、イエスから

「家に戻り、身内の人に、主が憐れんでくださったこと、主があなたを憐れんでくださったことを知らせなさい」

と命じられました。彼は、イエスから受けた救いの恵みを知らせるようにイエスに命じられたのです。つまり救いの恵みを分かち合う場にイエスはおいでになるのです。


 神の恵みが分かち合われ、悩みが分かち合われ、互いに祈り合う場にイエスはおられるのです。そして私たちは、励まされ、希望を持って問題に立ち向かうことができるのです。そして解決を待ち望むことができるのです。


 私たちが経験した苦しみ、それは人と分かち合い、他の人を励ますために用いられるのです。分かち合われた経験だけが人の役に立つのです。私は悩んでいる、と話すだけでも、そして同じ悩みを持つ人がいるんだとシラされるだけでも慰め、励ましを受けることがあるのです。


 私たちの社会では、この世の人も、特に苦しみを持つ人たちが分かち合いの場に参加しています。アルコール依存症の人たちの分かち合い、薬物依存症の人たちの分かち合い、伴侶を喪った人たちの分かち合いなど。分かち合いが生きる力を与えることを私たちも謙遜にこの世の人から学んでよいと思います。


 気をつけて聖書を読めば、特にパウロの書いた手紙を読めば、分かち合いなさいという教えが何回も繰り返して教えられていることに気づくでしょう。もし私たちが分かち合いはいやだというなら、私たちは、イエスに出て行ってくださいと言うことになるかもしれないのです。
信仰の成長の最後のポイントはこうです。

「私は神に遣わされた者だと感じるようになった。日々の生活が輝きに満ち、愛と奉仕に生きる喜びを感じている」。

 私たちは遣わされています。そんな実感がないかもしれません。しかし経験を分かち合うように遣わされていると信じて、分かち合ってみたらどうなるのでしょうか。経験を分かち合う、それが愛と奉仕に生きることだと信じて、実行したらどうなるのでしょうか。私たちは分かち合い、共に祈り合うことに喜びを見いだし、この最後のポイントを実感することになると私は信じます。そして私自身、分かち合いの場にイエスがおいでになることを信じています。


祈り


天の父、あなたを崇めます。あなたには不可能はありません。あなたのもとに救いのあることを信じます。私たちがいくら祈っても、どんなに祈っても問題の解決が与えられないという辛い現実の中にいる方がおられるかもしれません。
もしかして、あなたは分かち合いによる解決を指し示しているのかもしれません。私たちもまたイエスのもとに行きたいと願います。
エスは分かち合いの場におられると聖書で約束しておられます。分かち合いの場におられるイエスの働きを私たちが経験できますように。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。このイエスの約束を新たに信じ、分かち合いを行うことができるように導いてください。
 イエスに出て行ってくださいというのではなく、イエスのもとに行く者とならせてください。イエス・キリストの御名により祈ります。