私はヨハネ福音書を少しずつ読んでいます。聖書を思いめぐらします。私の読み方を私はディボーションと呼んでいます。ヨハネの14章を楽しみにしていました。そこには聖霊のことが書かれているからです。思いめぐらしたのは14章16~17節です。
わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
まず聖霊、つまり真理の霊は、信仰者と共におり、また信仰者の内にいるとイエス様は語られます。父なる神が、私たちイエス・キリストを信じる人に送ってくださったからです。真理の霊が私と共におられ、私の内におられることは、信ずべきことであって確かめることはできません。信ずべきことなのです。神の存在そのものも確かめることはできないのに私たちは信じています。それと同じです。
この真理の霊を「あなたがたは知っている」とイエス様は語られます。確かめることはできませんが、知っているというのです。そして注意すべきは「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない」とあります。「見ようとする、知ろうとする」ことが大切なのです。
私たちキリスト者も真理の霊を見ようとし、知ろうとする努力が大切です。この努力をしないと信仰者も聖霊を知ることはできません。努力をすれば知ることができるというのです。ではどのような努力をすればいいのでしょうか。
聖書を読む努力をすることと私は考えています。聖霊は真理の霊です。つまり聖書の言葉が真理であり、神の言葉であることを私たちに悟らせるのです。聖書が真理であり、神の言葉であると知るとき、それは真理の霊の働きであり、真理の霊は私たちと共におり、私たちの内におられるので、聖書を読むとき、働いてくださっているのです。
聖書の言葉が真理の言葉であると悟るとはどういうことでしょうか。聖書の言葉が神の言葉であると悟るとはどういうことでしょうか。悟れば分かります。真理の言葉、神の言葉によって生きるようになるからです。考え方、生き方が変わります。