クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 今日から、妻の母は一週間の予定でショートステイで施設に行った。母は「行くも楽しみ、帰るも楽しみ」と言ってくれるので、妻はほっとしている。一ヶ月に一週間、施設で過ごしてもらっている。子どもたちは独立しているので、この期間は夫婦だけで過ごすことになる。一緒に生活してこなかった者が一緒に暮らすというのは親子でも気を遣う面があり、ほっとできる時間が必要だと考えている。


 日曜から月曜にかけて小松にいる娘夫婦が孫を連れてきた。今日は二人だけになり、ほっとした妻を連れて昼は外食。ハンバーグを食べに行く。ステーキ宮。駅西にある。結構繁盛している。行った時間が悪かったのだが、20分ほど待った。ハンバーグ定食は700円台で食べることができる。おいしかった。昼食としては手頃の値段なので、混んでいた。


 90歳まで生きている人は、こんな年になるまで生きるとは思わなかったと言う。作家の南木佳士さんのエッセイの中でも、書かれていたし、日曜の礼拝後、年配の教会員に聞いたら、そうだと答えられた。90才にもなれば、いつ死んでもおかしくないし、それなりの心を持っているようだ。神様に召されるのを待っているという感覚に生きている。60を過ぎた僕には、「待っている」という感覚はない。しかし、いつ死に直面しても不思議とは思わないという感覚はある。

近頃は、しばしば老人問題というのが話題になりまして、老いについて語られます。年を取った方が、自分の年老いていく心境を語り、あるいは書いたりする。そこではどちらかというと、年老いる喜びが語られることはほとんどありません。むしろ自分の衰えていく肉体を嘆く思いがあります。・・・・自分の肉体の衰えを何かにつけて感じ取るということ、そしてそのようにして肉体の力が失われ、やがて崩れていくということ、そのことをどういうふうに受けとめるかということにおいても、私どもの信仰が問われております

 印象に残る文章。『使徒信条』(加藤常昭説教全集27、身体のよみがえりの項)からの引用。年老いる喜び、大きな課題だ。牧師として働くことができる年数に限りがあることははっきりと感じている。だから、時間が大切となる。