クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ


↑ パンダスミレ(俗称)四季咲き。春からずっと咲き続けている。



 夜の祈祷会が終わって、金沢に来ていた友人の牧師と会ってしばらくの時間、話しをした。年齢では彼が上である。「あと数年で自分は区切りと考えている。その間にすべきことはA、B、C」と話された。家に戻って考えた。僕もあと8年で70才になる。ある意味で区切り、つまり引退を迎えることを考えてもよいのである。世間では60才で定年を迎える。牧師には定年制はないので60才を過ぎても働けるし、牧師の人数も少ないのでまだまだ働くべき、と考えている。


 自分が牧会できる年数は指で数えることができるようになったと、時に口に出していたのであるが、妙に引退ということが実感をもって迫ってきた。そして引退したら何をするのか、と思わされた。少なくとも、第二の人生を考える気持ちはない。社会への貢献としての労働、生計を支えるための労働から解放されて、自分の人生を自分らしく生きるための第二の人生を生きるという考えは持っていない。牧師は神に福音を宣べ伝えるために召されており、この召しは生涯続くと考える。すると教会を辞め、牧師職を離れたらどんな働きができるのか、全く見えてこないのである。寂しさと絶望感を覚えて、くらくらっとめまいを感じた。


 自分では老いの年齢に達したとは思っていないが、肉体は年齢相応で、以前よりは敏感に疲労感を覚える。そして喪失感も徐々にではあるが、感じる。若い時にできたことができなくなるという喪失感である。若い時のように高い山を登ることはできないし、スミレを見に行くためにあそこへは行けないとか、とにかく、時間に限りがあるので、本を読むにしても、山に行くにしても、きちんと選択しないと、悔いが残ることになる。


 いずれにしても引退を意識しながら、今をどう生きるかが課題である。肉体は衰えを感じている。老いの中にあって信仰者としてどう生きるか、牧師としてどう生きるか、しかも老いの中にあって喜びをもって生きるにはどうしたらよいのか。老いるとは公の活動から身を退くことであり、肉体の衰えを受け入れることであり、死に近づくということである。このような現実の中で、老いの日々をいかに喜んで生きるかである。若い時と比べて執着心が薄れ、細かいことに気を取られずに、おおらかに生きることができるかもしれない。老いの日々に喜びをもたらす源泉は何であろうか。


 死ぬまで説教をしていきたい、これが僕の本音である。この世に生きる最後の日まで、福音の素晴らしさを探究していきたいし、それを伝えたい。