クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 朝、ヨシュア記2章をディボーション。


 ヨシュアは二人を斥候に出し、エリコの町を探らせた。二人の斥候は遊女ラハブの家に入った。斥候が来たという知らせを受けたエリコの町の王は、使いをラハブの家に送り、斥候を引き出すように命じる。ラハブは、二人の斥候は町を出たと嘘をつき、彼らを匿う。ラハブは斥候に、エリコの町を攻略する時は自分たちを助けるように願う。斥候はそれを約束する。


 イスラエルの神の噂は広まっており、エリコの町の人々は怖じ気づいていた。ラハブは、

「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」

と信仰の告白をしている。つまりラハブはこの神を畏れ、敬い、救いを求めたのである。一方、町の王は、斥候を取り押さえようとした。エリコが攻略された時、王を含め町の人々は滅ぼされた。


 斥候が来たと知らせを聞いた時、王はどうするのがよかったのだろうか。彼は斥候を捕らえ、イスラエルに対抗しようとした。主に対抗しようとした。それは所詮、無理なことである。そして滅びた。確かに、噂だけ聞いて神を信じるということはなかなかできることではない。しかしラハブは、主を認め、主を敬い、救いを求めて救われることになる。


 いつの時代でも、主を認めるのか、つまりエリコの王のように、王であることをやめて主に前にひれ伏すのか、それとも自分を王として生きるのか、大切な問いである。神の主権を認めて従うか、自分を神として生きるか。そしてどちらが破綻するのか。主を畏れること、それが大切だ。そのために御言葉にとどまることは重要。


 ディボーション雑誌マナを使ってディボーションをしている。『幸いな人』はある理由から購読をやめた。『幸いな人』は丁寧に聖書を順々にディボーション箇所として取り上げるところに魅力があった。マナは、三年で通読できるように日々読む聖書箇所を決めている。その中からある箇所を取り上げてディボーションのテキストとしている。
 僕は聖書通読も前々からしたいと考えているので、マナにしたがってディボーションすることを確信を持って御心とした。