クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.3.14)
聖書 ヨハネ 21:20〜23  人との比較から解放される(2)


 私たちが生きているこの社会は比較社会です。人との比較の中で、自分の位置を見定め、自分の価値を考える社会です。自分を人と比較して自分を見、他者を自分を比較して見ることを常としています。その結果、たとえば劣等感を持ち、自分よりすぐれた人に対して妬みを覚えたり自分を卑下したりします。あるいは、優越感を抱き、自分より劣っていると見る人をさげすみます。そこまでしなくても自分を誇ります。また他の人が比較の中で自分を見ていることを知り、人が自分をどのように見ているかを気にします。そして人の目に自分をどのように見せるかに気を遣います。多くの人は人との比較の中で傷ついてきました。そして自分をこれでいいのだ、と肯定することがなかなかできないのです。


イエス・キリストを信じる者たちを神は、神の子としてみてくださり、神の子として愛してくださいます。私たちが神の子とされていることを喜ぶなら、

  • もはや人との比較をする必要もないし、
  • 人の目を気にする必要もなく、
  • 人の目に自分をどのように見せるかの努力もいらなくなります。

神の子とされていることを喜び、神の子として生きていけばよいのです。そこに自由があります。

  • 劣等感もありません。
  • 自分を卑下する思いもありません。
  • 人を見下す嫌な自分もいなくなります。
  • 平安な気持ちで人に接することができます。

私が大切な存在であることを決めるのは、神様です。信仰の成長をテーマにして、今考えていることはこうです。

「人と人との比較の中で自分を見ることをやめ、自分との比較の中で人を見ることをやめた。私は自分の価値を確認するために他人を利用する必要がない」。

今日はその二回目です。


  • 私たちが自分を人と比較しなくなればなるほど、自由な気持ちになっていきます。
  • 私たちが、人が自分を比較の目で見ていることに気を遣わなくなると、やはり自由な気持ちになっていきます。
  • そして、私たちも比較をして人を見るのをやめ、人をありのままに受け入れることによって自由な気持ちで人と接することができるようになります。

 皆さんはどう思われるでしょうか?しかし、比較する思いというのは、心から湧いてきて、これが湧いてこないようにすることはむずかしいのです。

 イエスの時代、神の戒めを一生懸命守る努力をしていた律法学者とか、ファリサイ派の人々は、神の教えを守らない人々、守れない人々を見下し、罪人と呼びました。イエスは、律法学者たちから軽蔑されている人たち、罪人と非難されている人たちとつきあいました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」とイエスは語り、さらに「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とも話されました。弟子たちはイエスと一緒に行動していましたから、イエスの考えをそれなりに理解していたと私たちは思います。ところが弟子たちは、そうではないのです。マルコ福音書10章35節以下にこんな話があります。

ゼベダイの子ヤコブヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」。イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」。

 イエスは、弟子たちと一緒にエルサレムに行く途中でした。そしてイエスは弟子たちに、「私はエルサレムで苦しみを受け殺されることになっている」とすでに話していました。ところが弟子のヤコブヨハネ、彼らは兄弟ですが、イエスエルサレムで栄光を受けると考え、イエスの右と左に私たちを座らせてくださいと願うのです。イエスが王として王座に就く時、その左右に自分たちを座らせて欲しいと願うのです。弟子の中でも自分たちが偉いのではないか、という思いから出た言葉です。


 これに対して、イエスは、「あなたがたは自分が何を願っているのか、わかっていない」と言います。さらにこのやりとりを聞いた他の弟子たちは怒ります。自分たちだって、イエスに従ってきたのだから、イエスの右と左に座りたいと思っているのです。人よりも偉くなりたいという思いが弟子たちの心にもあるのです。これに対してイエスは、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と弟子たちに教えました。

 そして今日読んだ聖書です。この箇所の直前でイエスは、ご自分を裏切ったペトロを今一度ご自分の弟子とし、「私に従いなさい」と命じました。イエスを裏切り、イエスに顔向けのできないペトロでしたが、イエスから再び弟子として歩みなさいと言われ、安心と喜びが彼の心に満ちたはずです。そしてイエスは、ペトロの最後についても話されました。今日の聖書の直前の箇所です。

「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。

 そして「私に従いなさい」とイエスはペトロに言われたのです。ペトロは、イエスの弟子として、福音を宣べ伝える働きをするが殉教の死を遂げる、でもそれは神の栄光を表す死であると、イエスから言われたのです。使徒言行録を見ると、ペトロは、イエスのために迫害を受け、苦しむことを名誉に考えていることがわかります。

「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた」(20節)。

 食事が終わった後、イエスと弟子たちは歩き出したのです。ペトロはイエスと並んで歩いていました。その時、ふっとペトロは後ろを振り向いたのです。するとイエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えたのです。この弟子はペトロと同じ漁師をしていたヨハネで、ペトロとは親しい人でした。ペトロは何気なく口にするのです。

「主よ、この人はどうなるのでしょうか」。

 ペトロ自身は、年を取ると殉教の死を遂げるだろうとイエスから言われたばかりです。そこで弟子のヨハネはどうなるのですか、とイエスに聞きます。自分の将来の運命をイエスが告げたわけですから、ヨハネはどうなるのか、と好奇心から聞いたわけです。つい人のことが気になるのです。自分は殉教の死を遂げるらしいが、じゃあヨハネはどうなるのだろうか。ヨハネも殉教の死を遂げるのか、それともヨハネは伝道の生涯を全うするのか。その好奇心の中には、自分とヨハネを比較する気持ちが表れています。


エスは、「あなたに何の関係があるか」と突き放すような言い方をなさいます。「あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい」。ヨハネがどのような伝道の生涯をすごそうとそれはあなたには関係がない。あなたはあなたの道を歩みなさいと、厳しい言い方をされました。

人との比較をするな、あなたはあなただ、

とイエスははっきりと言われたのです。しかし無意識のうちに、人のことが気になり、人と自分とを比較する気持ちが湧いてくるのです。

よし、自分は人と自分を比較しないぞ、と思っても、つい比較する思いが湧いてくるのです。悲しく感じます。でも気にしないのです。この時、比較してしまう自分を見て、

  • 比較しないなんて無理だと思ってはいけません。
  • 比較してしまう自分を責めてもいけません。
  • 比較してしまう自分を罪深い人間だと思ってもいけません。

 思いが湧いてくるのは仕方のないことなのです。大事なのは、その思いにどう対処するか、です。神は人間に自由を与えられました。人間は自由な存在として神に造られました。しかし残念ながら人間の心は、罪に傾いています。人間の心は、放っておけば、安易な方向に、楽な方向に行こうとします。比較する思いが湧くのも、心が罪に傾いているからです。これは仕方のないことです。しかし、イエス・キリストを信じる私たちは生まれ変わりました。比較する思いが湧いてきても、これに囚われることなく、この思いを適切に処理できるのです。


 そもそも誘惑というのは、私たちの心に湧いてくる思いから始まります。この思いにどう対処するのか、それによって誘惑に勝つか、負けるかが決まります。誘惑に勝つには、湧いてくる思いを捨てることです。別なことに心の注意を向けるのです。心の注意を別な所に向ける、これが誘惑に対して適切な処理です。比較する思いもまた同じです。適切な処理とは、比較する思いを捨てることです。言い方を変えれば、別のことを考えるのです。聖書には、

「へりくだって互いに相手をじぶんよりすぐれたものとかんがえなさい」(フィリピ2:3)

という教えがありますから、相手が自分より優れている面を持っているのであれば、相手を敬えばいいわけです。劣等感を持つ代わりに相手を敬うのです。聖書には、

「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」(ローマ15:1)

とありますから、相手が自分より劣っている面を持っているのであれば、その人の弱さを担う思いを持つようにすればよいのです。相手を見下したり、優越感に浸って満足するのではなく、相手の弱さを思いやる心を持つのです。


 このようにして比較する思いを処理するのです。あるいは、全く別なことを考えてもいいです。とにかく比較する思いを心から追い出すのです。主イエスも悪魔の誘惑を受けた時、聖書にこう書いてあると語って、誘惑をはねのけました。これを繰り返していくうちに、比較する思いが湧いてきてもすぐに対処できるし、段々と比較する思いが湧いてくるのが少なくなっていきます。

 このようにして、私たちは他人との比較で自分を見ることをやめ、自分との比較で他人を見ることをやめることができるようになり、心が解放されていきます。神の目で自分を見る、そこに自由があるのです。

 救いとは罪の赦しだというのは正しい理解です。しかし救いはもっと広い内容を持っています。自由こそ、救いを一般的に表現する言葉だと思います。

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」(ガラテヤ5:1)。

「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)。

 自由にされることこそ、救いです。罪の支配からの自由も、また救いに他なりません。自由にされるに応じて、わたしたちは神を愛する人に、人を愛する人に変えられていく、成長していくのです。祈ります。

祈り

天の父、私たちはつい自分と人を比較してしまいます。それは空しいことだと教えてください。あなたが私たちのことを大切な存在だと言ってくださいます。あなたの目から見た大切な自分を受け取ることができるように導いてください。比較する思いが心に湧いた時、主イエスのように、聖書にこう書いてあると言って、その思いを振り払うことができるように導いてください。あなたによって大切な存在とされ、あなたの喜びの対象である自分自身を、自分でも喜び、誇りとすることができるように導いてください。イエス・キリストの御名により祈ります。