クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.3.21)
聖書 ガラテヤ 5:1〜2 自分の人生を人に支配されない自由(1)

 皆さんの心の中に、あの人のせいでわたしのじんせいはこうなってしまったと恨むような思いがありませんか。そしてその思いを捨てられず、その思いが心を支配しているということがないでしょうか。

 今説教では信仰の成長というテーマを掲げています。それは言い換えると、私たちが信仰者になったらどういう歩みをするのかというテーマです。信仰者になると神の子としての歩みが始まりますが、それはどういう歩みなのか、ということをお話ししています。


 今日司会者の方に読んでいただいた聖書の箇所は、ガラテヤの信徒への手紙5章1〜2節です。キリストは私たちを自由の身にしてくださったと述べられています。キリストによる救い、それは自由だというのです。私たちは多くの場合、これはすべきだからしなければならないという思いで生きています。お金を稼ぐためにはこれをしなければいけない、人から認められるためにはあれをしなければいけない、そうやって自分のすべきことをして生きています。すべきことをしなければいけないという思いで生きることは、自由ではありません。むしろ我慢、忍耐が必要とされることです。不自由です。


 イエスが与える自由は、しなければという義務的な思いから私たちを解放し、喜んで自由な気持ちで物事を行って生きる自由です。義務からの解放であり、喜んで生きる自由です。責任を喜んで果たす自由です。しなければならないからするのか、したいからするのか、これは大変な違いです。

「奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません」

とあります。奴隷は、しなければならないからするのです。自由人はしたくなければしないですみます。自由な人は、したいからするのです。今日もまた、信仰者に与えられている自由について聖書から学びます。

今日と来週で考える成長のポイントはこうです。

「私は自分の人生の主人になった。自分の人生を人のせいにすることがなくなった。神の前に立つ者として、周囲に振り回されない生き方を見いだした」。

 私たちは生まれてから今に至るまで、私たちが接してきた人たちの影響を受けてきました。よい影響を受けることもあります。ある人から感化を受け、それが自分の成長に役に立つわけです。
私も牧師としての歩みを考える時、何人かの先輩の牧師から教えられたことが今の自分を形づくっているという意味で、よい影響を受けてきました。しかし私たちは人から悪い影響を受けることがあります。親というのは、子供に対して大きな影響を与えます。

  • たとえば夫婦がいつもけんかをしているのを見ながら育つと、たとえばこの家から早く出て行きたいとか結婚なんかしたくないと考えるなど、考え方に影響を及ぼします。
  • 親がほめることが少なく叱ってばかりいたら、子供は、自分はだめな人間なんだと思うかもしれません。

 私たちは、色んな人の影響を受けて育ち、生きてきました。そして現在の自分がいるわけです。そして、自分の現状に行き詰まりを感じたり、幸福を感じられない場合、どうしてこうなんだ、という思いが湧いてきます。自分が幸福になれないのは、夫のせいだ、妻のせいだ、親のせいだ、子供のせいだなどと考える人もいるでしょう。あの上司のせいで、仕事が大変で面白くないし、会社に行くのがいやだと思っている人もいるでしょう。自分の人生が楽しくないのは、あの人のせいだ、自分の人生が行き詰まってしまったのは、この人のせいだ。そうやって自分の人生がうまくいかないのを人のせいにして生きることがあります。人のせいにしてうまくいっていない自分の人生を受け入れようとするわけですね。大変ですね。辛いですね。でも、いくら人のせいにしても、自分の人生が良くならないことは、これも事実です。あるいは環境のせいにすることもあります。

  • 家が貧しくて上の学校に行けなかったからとか、
  • 親が自分をもっと頭がよい人間に産んでくれたらとか、
  • もっと美人に生まれたらとか、
  • いい星の下で生まれたらよかったとか。

 自分の人生がうまくいかないことを環境のせいにしても、人生が良くなるわけではありません。私は、時々、子供の頃に信仰を持っていたら、聖句を沢山暗唱できたと思うし、教理の勉強もしっかりできて、神学校に行って深い学びをすることができたのではないか、と思ったりします。実際には昼間は仕事をしながら、夜神学校に行って勉強しましたが、授業に出るだけで精一杯でした。在学中は実質的にたいした勉強はできませんでした。娘は昼間の神学校に行きましたが、沢山勉強していることをうらやましく思ったりします。誰を恨むというわけではありませんが、もっとこうだったらという思いが湧いてくることがあります。

 人から悪い影響を受け、人に振り回されるような人生を送ってきたことは辛いことだと思います。自分の不幸を人のせいにしたくなる気持ちもわかります。しかし残念ながら、いくら人のせいにしても、環境のせいにしても自分の人生が良くなるわけではありません。


 時に牧師がつぶやきます。前任の牧師が信徒を育てていないから、教会はこうなんだと嘆くのです。よく整えられた教会に赴任し、伝道、牧会が順調にいくのはうれしいものです。だから逆の場合、嘆きたくなる気持ちはわかりますが、嘆いたからと言って、教会の状況が良くなるわけではありません。そこで、まず考えたいのです。

  • 自分の人生はもう取り返しがつかないほど、ダメなのか、
  • 回復できないほどのものになってしまったのか。

 少なくとも私たちには神がおられるのです。他の人のせいで私の人生は悪い影響を受けてしまい、行き詰まったかもしれない。幸福からほど遠いものになったかもしれない。でも神がおられる、ここに希望を置くことができるのではないか、そう考えたいのです。私の人生は万事休す、の状態ではないと信じるのです。他人が私の人生を壊したかもしれない。しかしすべて壊されたわけではないし、回復が不可能なわけではないと信じたいのです。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリント一10:13)。

 自分が自分の人生の主人になるのです。

  • 他人が自分の人生を荒らしたかもしれないけど、現に荒らしているかもしれない。
  • でも他人を自分の人生の主人にはしないのです。
  • 人は自分の人生の主人になれるし、神はそれをお望みだと信じるのです。

 日常生活の些細な事柄でも、私たちは人生の主人になることが求められます。たとえば、人から言われたことで心が傷ついた、あの人を赦せない、という思いを持つことがあります。するとその思いが私たちの心を支配し、心の平安が失われていくのです。赦せない思いが、自分の主人になってしまうのです。思い煩い、恐れ、不安、色んな感情が私たちの心を支配し、私たちの主人になってしまうことがあります。


 イエス・キリストによって自由を与えられた私たちは、

「奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません」(2節)。

 感情の奴隷になってはいけないのです。感情に支配されてはいけないのです。赦せないなら、赦せばいいのです。思い煩うなら、神に信頼すればよいのです。み心に従うことを考えるなら、感情の奴隷から自由になれます。聖書の言葉に従う、そこに解決があります。

 私たちが覚えておきたいもう一つの聖書の言葉があります。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8:28)。

 神を愛する者には、万事が益となるように働くとあります。神を愛する者という言葉に注意したいと思います。神を愛する人に、万事が益となるように神はしてくださり、私たちの人生は回復できるというのです。信仰者にとって神を愛することは難しいことではありません。神様が私たちを愛してくださっているのですから、そのことを感謝して神を愛するのが信仰者です。


 聖書が告げる神は、愛の神であり、憐れみ深い神です。しかも私たちを造り、私たちを神の子として接してくださる神です。私たちが神を愛し、神に信頼し、神に従っていくなら、神は、私たちを憐れまずにはおれないのです。必ずや私たちの人生を回復してくださいます。どんな逆境にあっても、一人の信仰者として、自分の人生に責任を持って生きていくことができるのです。神様は、私たちを支えてくださいます。神様が私たちに与えられている自由、それは、このように

  • 逆境の中でも神に信頼して生きていく自由です。
  • 自分の人生の行き詰まり、不幸を人のせいにするのではなく、神に信頼して神に期待して生きる自由です。
  • 人に支配されない自由です。

 この自由に生きるのです。神が支えてくださるゆえに、逆境にある自分の人生に責任を持って生きていくのです。そうしなければならないからではなく、信仰者として喜んで責任をもって生きていくのです。

 ここで創世記に出てくるヨセフという人物に注目したいと思います。ヨセフの父はヤコブです。ヤコブは四人の女性から12人の息子を得ます。ヤコブは、自分の愛した妻が産んだヨセフを特別に愛します。そのためにヨセフは他の兄弟から妬まれます。ある時ヤコブはヨセフに羊の世話をしている兄たちのところに行くように命じます。チャンス到来とばかり、兄たちはヨセフを井戸に落とし、殺そうとします。しかし、殺しても何の得にもならないという理由で、ヨセフを売り飛ばそうとします。そして父親には、ヨセフは獣に襲われて死んだと告げます。


 ヨセフはエジプトに奴隷として売られます。そしてエジプトの宮廷の役人の家で仕えることになります。ところが主人の妻がヨセフを誘惑します。それを断ると妻は、ヨセフが自分にいたずらしようとしたと叫び、ヨセフを陥れます。ヨセフは濡れ衣を着せられ、獄に入れられます。ヨセフが獄にいる時、獄にいた二人の囚人が夢を見ます。二人とも王に仕える人でした。ヨセフはその夢の解き明かしをします。ひとりの囚人は釈放されるという夢、もう一人の囚人の夢は処刑されるという夢でした。釈放されるという夢を見た囚人にヨセフは、あなたが釈放されたなら、私が獄から出られるように取りはからってくださいと願います。ところがその囚人は、ヨセフのことを忘れてしまいます。


 兄弟のせいでエジプトに売られ、エジプトで仕えた主人の妻のせいで、濡れ衣を着せられて獄に入れられ、夢を解いてあげた囚人には忘れられ、獄から解放される望みが絶たれます。ヨセフは自分の不幸を人のせいにして嘆くことができましたが、嘆きません。ヨセフは、神に信頼し、神のために正しく生きていきます。神に望みを置くのです。やがてエジプト王が不吉な夢を見ます。その時になって夢を解いてもらったあの囚人がヨセフのことを思い出し、王に告げます。ヨセフは王の夢を解きます。そこからヨセフの人生は良い方向に向かいます。ヨセフはエジプトで王に次ぐ地位の大臣になります。後に兄たちがヨセフに赦しを請いますが、ヨセフは赦します。 どんなに不幸のどん底に落とされても、自分の不幸を人のせいにせず、神に忠実に歩み、自分の人生の主人となって、逆境をも引き受けてヨセフは生きていったのです。

 私たちは自分の人生の主人になる自由があります。でもそれは、自分の人生だから自分の好きに生きてよいという意味での主人になる自由ではありません。どんなに他人が自分の人生を振り回し、不幸に突き落としたとしても、なお神に信頼して、神に希望を置いて、信仰者として生きていく自由です。自分の人生に対して責任をもって生きる自由です。

「私は自分の人生の主人になった。自分の人生を人のせいにすることがなくなった。神の前に立つ者として、周囲に振り回されない生き方を見いだした」。

祈り

 天の父、あなたが私たちに与えてくださっている自由に感謝します。あなたによって支えられ、励まされ、私たちは、自分の人生の主人になれることのできる自由を感謝します。
 他の人が自分の人生を壊したとしても、壊そうとしていたとしても、私の人生はダメになったわけでもなく、回復の道があることを信じます。
 天の父、イエス・キリストが私たちに自由を与えてくださったことを覚えることができますように。その自由を受け取り、人生の主人として、あなたに感謝しつつ、あなたと共に歩ませてください。あなたと共に歩む時、私たちが真に私の人生の主人になることができることを教えてください。
 宗教改革者ルターが、キリスト教的人間は、すべての者の上に立つ自由な君主であって、誰にも服しないと語った言葉に私たちを立たせてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。