本日のメッセージ(2010.7.4)
聖書 ヨハネ一3:1〜3 祈りの中でいつも自分を見つめ、神の御旨を見つめている(2)
- 私たちの生活が順調であるなら、神様に感謝し、神様を賛美しましょう。
- 私たちの生活に問題があり、解決の道が見えず、さらに祈ってもなかなか解決の道が開かれないならば、神が何を求めておられるのか、そのことに心を向けましょう。
- 私たちが神に心を向けるのを神は待っておられるのです。
今日考える信仰の成長のポイントは
「祈りの中でいつも自分を見つめ、神の御旨を見つめている。神の御旨の実現と自分の霊的成長を何よりも大切に考えるようになった。御言葉によって生かされている意味を知った」。
今日読んでいただいた聖書の箇所は、とても大切です。
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています」。
キリストの再臨という聖書の教えがあります。世の終わりの時、キリストがもう一度この世界においでになるという教えです。そしてその時、「私たちは御子に似た者となる」とヨハネの手紙一は述べています。しかも、このことを「私たちは知っています」とあります。いつかわからないキリストの再臨の時に「私たちが御子に似た者となる」ことをどうして知ることができるのか、不思議に思われるでしょうね。私たちの救いが何であるかがわかれば、「知っている」ということができます。続いて、御子に似た者となるという望みを持っている人は皆、
「御子が清いように、自分を清めます」
と書いてあって、御子キリストに似た人になることを目指すとあります。
キリストに似た人になることを目指す、どう思いますか。
- イエス様のような人になる、そんなこととんでもない、無理だ、不可能だと思っていませんか。
- 自分のような人間がキリストみたいになるなんて、あり得ない。そう思っていませんか。
- 人はそう簡単には変わるものではない、と思っていませんか。
でも皆さん、自分は変わりたい、そう思うことありますよね。それは神から来る思いです。その時は、キリストのようになることを願うのが神のみ心にかないます。
聖書は、人間の救いをテーマとして、キリストが救い主であることを述べています。人は何から救われ、救われたらどうなるのでしょうか。人間は、神に似せて造られたと聖書の冒頭にある創世記は述べています。これは一言で言えば、愛し合う存在として人間は造られたということです。その人間に何が起きたのでしょうか。創世記の3章で、最初に造られた人間が神の戒めに背いたことが書かれています。
神から、取って食べてはいけない木の実をなぜ食べたのか、と神から問われたとき、アダムは、妻のエバのせいにしました。自分が神の教えに背いたことを正直に認めませんでした。人間は堕落し、自己中心的な存在になってしまいました。そして人間は、生まれつき、神と自分の隣人を憎む方へと心が傾いてしまいました。神に背を向ける、これが罪です。この罪は人間を悲惨な状態、みじめな状態に突き落としたのです。人が互いに傷つけ合い、争い対立し、また思い煩い、恐れ、不安、妬み、憎しみ、孤独、自分を責めたり、人を責めたり、様々な問題を抱えて生きることになりました。さらにどう解決していいかわからずにいます。でも人は自分がみじめで悲惨な状態にあるとは思っていません。じぶんはそれなりに頑張っていると考えます。また楽しい人生を送るように努力しています。パスカルというフランスの哲学者は、
「わたしたちの惨めさを慰めてくれる唯一のものは、気晴らしである」
と述べています。
人間の救い、それは罪からの救いであり、それはまず、罪の赦しです。罪とは、あれこれの悪い行いの一つ一つと言うより、神に背を向ける心の在り方そのものです。救いとは、神に背を向ける生き方から、神に向かう生き方へ転換することから始まります。
つまり、堕落する前の状態に回復されること、それが救われて生きるということです。堕落前の人間の姿をイエス・キリストに見ることができます。イエス・キリストこそ、真の人間、神がよしとされた人間です。ですから、イエス・キリストのような人間になること、それが救いです。このことがわかるとき、終わりの日に私たちが御子に似た者となることがわかるのです。イエス・キリストを目指す、それが信仰の歩みとなります。イエスのように考え、イエスのように行動するのです。
「キリストに似た者となる」。
無理だ、不可能だと思わないでください。ここに人間としての回復、私たちの救いが現実となっていくからです。この時、大事なことは自由ということです。イエス・キリストは、本当に自由な人でした。イエス様は十字架にかかる直前、「私の願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。神のみ心を行うためには、十字架の死をいとわないほど自由でした。
パウロという人物が聖書に登場します。彼は最初、クリスチャンを迫害していました。クリスチャンを捕らえ、縛り上げてエルサレムに連れて行きました。しかしある日突然彼は、イエス・キリストを宣べ伝える人に変えられました。そのパウロがこういうのです。
「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(フィリピ3:8)。
イエス・キリストが私たちに与えてくださる恵みの一つ、それは「自由」です。この自由と比べると、一切のものは損失だと私は感じます。それほどキリストが与える自由は貴重だというのです。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31)。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」(ガラテヤ5:13)。
キリストが与えてくださる自由を味わうとき、私たちは賛美するのです。♪この世の宝も富みも、人のほめる言葉も、美しいものも、キリストには代えられません♪
キリストのようになる、それは、キリストのように自由な人になることであり、それが私たちの霊的な成長となります。その時、わたしたちは神を愛し、人を愛するように変えられていきます。私たちの歩みに神と人を愛するという軸ができるのです。
何か心配なことがあって、心配で心配で仕方のないとき、私たちは他のことを考えることができません。気を紛らそうとしても、心配してしまいます。他のことを考えることができない、そこに心の不自由さがあります。
私たちの心を不自由にするものがいろいろあります。怒り、恨み、憎しみ、妬み、不安、恐れ、孤独、罪責感。これらのものが私たちの心を占領してしまうと、私たちの心は、神に向かうことができず、他者に向かうことができず、私たちは自分の心しか見ないことになります。
神様に祈って一時の平安が与えられたとしても、心は不自由のままです。神に助けを求めても、答えがなく、不自由のまま、救いを求めて神を信じたのに、信仰も役に立たない。そんな思いになることもしばしばです。この問題は一生背負っていくかなければならない、そう思ったりします。しかし考えてみてください。神様に解決できない問題があるのでしょうか。神には不可能はないのです。問題は神ではなく、自分にあるのです。
神の導きとは、私たちの願う通りに、神が動いてくださることではありません。問題や悩みというのは、神のみ心に私たちが近づくとき、希望を持ってそれらに向き合い、解決に向けて努力できるのです。
自分の願い通りに神様を動かそうとするのは、御利益信仰です。神様が、導こうとされる動きに合わせることが神と共に生きることです。これを神にゆだねると言います。神にゆだねるところに自由があります。自由のあるところ、神にゆだねることができます。神にゆだねきれない心には、解決すべき罪があります。その心をはっきりとみつめる必要があります。その罪の解決を神にゆだねるとき、神は導いてくださいます。
私たちは祈りの中で、そして聖書を読みながら、
- 神のみ心を探り、自分の心を見つめます。
- 神のみ心に自分の心を合わせるようにし、神の導きの中に自分の身を置きます。
- 自分の思いが実現する人生ではなく、
- わたしたちの生活の中で、神のみ心が実現する人生を歩みたいのです。
その時、私たちは、喜びと自由の中を生きることができます。自由こそ霊的成長のしるしです。祈りの中でいつも自分を見つめ、神の御旨を見つめている。神の御旨の実現と自分の霊的成長を何よりも大切に考えるようになった。御言葉よって生かされている意味を知った。このことをもう一度味わいたいと願います。
天の父、救われて生きる、それはキリストに似た者となることだと教えられました。キリストのように自由に生きる者とならせてください。この世に生きるとき、様々な問題が私たちを捕らえます。私たちは途方に暮れます。あなたに何とかして欲しいと願います。
どうか、私たちが神様のみ心に思いを向けることができますように。あなたは私たちの生活をどこへ導こうとされるのか、そのことに思いを向けることができますように。そして自分の心を見つめることができますように。あなたによる解決を願っているのか、自分の欲する解決を願っているのか。自分は何を大事にしているのか。希望を持って歩むことを願っているのか。
天の父、私たちを憐れんでください。自分にしか心が向かない罪から私たちを清めてください。あなたに導かれる歩みを導いてください。イエス・キリストの御名により祈ります。