本日のメッセージ(2009.6.7)
聖書 ヨハネ 19:38〜42 死んで葬られ
使徒信条は、イエスについて「死んで葬られ」と語ります。我々は様々な死に直面します。親の死、配偶者の死、兄弟の死、子供の死、友人の死、知人の死。人間の死、それは悲しい出来事です。
先日FEBCというキリスト教のラジオ放送を聞きました。その中で、あるカトリックの神父さんが、信仰の成長を10の項目で述べていました。
その中で、死の現実に直面してなお、命の素晴らしさを信じることができることは信仰が成長していることを示していると語っていました。
今日は、イエスが「死んで葬られ」たことについて聖書に聞きたいと思います。
1.復活の光のもとにおかれた死
イエスは十字架で亡くなりました。アリマタヤ出身のヨセフがイエスの遺体を引き取りました。彼は今まで、イエスの弟子であることを隠していましたが、勇気を出しました。ローマ総督に遺体の引き取りを願い出たのです。イエスの弟子たちは、逃げてしまいましたし、他に引き取る人はいません。自分しかいない、そう思って、思い切って行動を起こしたのです。
多分、ヨセフの友人であったニコデモ。ニコデモも没薬と沈香を混ぜたもの100リトラ持ってきたとあります。100リトラとはおよそ30キログラムです。かなりの量です。イエスの遺体に、防腐剤としての没薬、香料としての沈香を塗ったのです。そして亜麻布でもって遺体を包みました。これはユダヤ人の埋葬の習慣に従ったものでした。そしてイエスの遺体は新しい墓に葬られました。
この物語は何を意味しているかというと、
イエスは完全に死んで葬られたということです。
使徒信条を見てみると、「死んで葬られ」で終わっていません。続く言葉があります。「三日目に死人のうちよりよみがえり」。イエスは死にましたが、よみがえったのです。復活したのです。
イエスは十字架で仮死状態のまま墓に葬られ、息を吹き返したのではないのです。イエスは実際に死に、そして復活したのです。
聖書が、イエスは死んで葬られたと告げる時、私たちは、復活の光のもとでイエスの死を見るのです。私たちは死を「すべての終わり」と見るのではなく、復活の光のもとで見ることができます。死は終わりではありません。
死は、神の国への通過点です。人は必ず死にます。私たちは神の国の希望を持つことができます。信仰者の幸いがここにもあります。
2.神が用いられる死
現実に、私たちは様々な死に直面します。自分の家族が若くして死に、どうして、神様なぜ、と思うこともあります。以前、小学生の女の子が交通事故で亡くなり、葬儀を引き受けたことがあります。何をどう話してよいのか、戸惑いました。
受け入れやすい死と、受け入れがたい死があります。老いた人の死は、比較的受け入れやすいです。しかし、平均寿命まではまだまだ年数があるという場合、もっと生きることができるはずなのにと思う場合、その死を受け入れることが簡単ではないことがあります。
こういう死をどう受けとめたらよいのか、難しい問いです。そして人生には、なぜこういう事が起きるのか、と思うことが、時に、私たちの身に降りかかります。
イエスは十字架で処刑されて死にました。イエスは十字架につけられる前の晩、ゲッセマネの園という場所で祈りました。そこはイエスが弟子たちとよく祈った場所でした。イエスは三人の弟子をご自分の近くにおき、祈りました。
「この杯をわたしから取りのけてください」。
杯とは、神の裁きを象徴しています。神の裁きとしての死を、逃れることができるなら、逃れさせて下さいと祈ったのです。
十字架の死、それは人類を救うための死です。十字架の死を遂げ、イエスは救い主になります。イエスの死は自己犠牲の死です。だからといって、十字架の死は、イエスにとって、受け入れることが簡単な死ではありません。ゲッセマネの園でイエスは、血がしたたり落ちるような汗を流しながら祈られたのです。
そして最後に、
「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」
と祈られました。イエスは、受け入れることに困難を覚えた死を神のみ心と受け入れて死んだのです。
そして、私たちも時に受け入れがたい死に直面します。なぜ、と神に問いかけます。しかし答は返って来るとは限りません。
私たちは万事を益として下さる神を信じます。神がその死を益として下さることを信じることができます。その死を神が用いて益として下さることを信じることができます。そのように神に願うことができます。
この世においては無駄な死はあってはなりません。人の不注意で自分の子供を失った親が、わが子の死を無駄にしないで欲しいと悲痛な声を上げます。
神さまは、人の死を無駄になさいません。時に私たちは、人の死を無駄にしないように働くことが必要です。また受け入れがたい死に直面し、これを神が益として下さることを信じていくことも大切なことであると信じます。それは、神より慰めを受けることにつながり、さらには、同じ経験をする他の人を慰めることに続きます。
神は時に思いがけない重荷を与えられます。そして「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と声をかけて励まし、慰めて下さいます。
3.平安な死
イエスは、「成し遂げられた」と言って息を引き取りました。十字架の死は、受け入れがたいものでした。しかし、それは神のみ心を行う死でした。
イエスは、自分の食べ物とは神のみ心を行うことであるとも話されました。イエスは神のみ心を行う人生を歩みました。生きるとは、神のみ心を行うことでした。
十字架の死、それもまた神のみ心を行うことでした。それは使命を果たしての死。死そのものが使命である死でした。イエス様は生きるにも死ぬにも神様の御心を行ったのでした。
「成し遂げられた」と語る時、これでいいのだ、と平安が、満ち足りたものがあったと考えます。
皆さんはどんな思いをもって死にたいと願うのでしょうか。
- 家族に対する感謝の思いをもって死ぬ死、それは幸いな死です。
- やり残したことは一つもないと思って死ぬ死、それも幸いな死です。
- これから神の国に行くのだと希望を抱いて死ぬ死、それも幸いです。
- 神の御心に従ったと信じて生涯を閉じる死、それも幸いです。
私たちは神が天地の創造主であると信じます。神は人を創造されました。しかも、神は一人一人の人間を顧み、大切な存在としてこの世に誕生させたと信じます。私は決して偶然に生まれた存在ではなく、神のみ心によって、神に愛されて生まれた存在です。
それ故、私たちに対する神の願い、神から与えられた目的を生きるなら、私たちも「成し遂げられた」と言って死ぬことができます。その時、私たちは平安な死を迎えることができると信じます。
「成し遂げられた」
と言って生涯を閉じるとするなら、皆さんは、どういう人生を送られるのでしょうか。
何をすれば、成し遂げられたと言って、人生を閉じることができるのでしょうか。このことは考える価値があることであると思います。
私自身は、次の四つを行って生涯を終わりたいと考えています。
- 福音を伝えキリストの教会を形成するという働きを忠実に行うこと、
- 家族と教会員を愛すること、
- 神を深く知ること、
- 人生を楽しむこと、
この4つができれば、「成し遂げられた」と言って天に行くことができると信じています。
皆さん自身はどのような人生を送られるのでしょうか。祈ります。
天の父なる神様、イエス様は十字架の上で確かに亡くなりました。
その死に続いて復活が起きました。
イエス様は復活したと聖書は証言します。
私たちは復活の光の中で死を見ることができます。
私たちは自分の死を、親しい者の死を復活の光の中で経験することができることを感謝します。
私たちもまた必ず命の終わりを迎えます。
その時には、「成し遂げられた」と語り、あなたが命を与えて下さったことに感謝することができるようにして下さい。
たとい死の現実に直面しても命の素晴らしさ、生きることの素晴らしさを信じる者として下さい。
イエス・キリストのみ名により祈ります。