クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.3.28)
聖書 ルカ 23:32〜43 自分の人生を人に支配されない自由(2)


 宗教改革者のルターは『キリスト者の自由』という書物の中で、<キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない>と述べています。今日も先週に続いて、自分の人生を人に支配されない自由、キリスト者の自由について共に考えたいと思います。


 牧師として教会を見ていて、時に体験することは、人の言葉、行動に支配されている教会員の姿です。それは残念なことなのですが、私は見守るしかありません。皆さんの家庭では、

  • 家族同士、率直に何でも話されるでしょうか。
  • それとも家族同士でも、相手を傷つけてはいけないと考えて、率直に話すことを控えておられるのでしょうか。

 家族が本当に親しくなるためには、思ったことを率直に話すことは必要だと思います。なぜなら、そうしないとお互いに何を考えているのか、何を感じているのかがわからないからです。お互いに何を考えているのか、感じているのかわからないけれど、家庭の中に争いはなく、平和であるというのは、何か変です。本当の家族とは言えないと思います。私は妻からもっと話してよと時々言われます。自分でも話せたらいいなとは思っていますが、何を話したらいいのか、と惑う自分もおります。


 私たちは話す時、礼を失することのないように話をするのは言うまでもありません。その上で率直に語ることによって、時に争いが起きることもあります。相手に対して指図をするような発言の時です。親が子供を叱る時でも、子供が反発する時はあります。夫婦の間なら、相手に対する要求は、口論のもとになります。とにかく率直に互いに話さないと親しくなることはできません。

 教会は神の家族です。神の家族としての教会を私たちは目指しています。神の家族の場合も同じように率直に話すことがないと親しくなれないし、家族になれません。お互いに当たり障りのないことだけを話していたら、表面上は和やかでも、親しさのない交わり、あってもなくてもどうでもよい交わりしかそこにはありません。聖書は明確に、教会は神の家族だと述べていますから、率直に話をすることは必要なことです。


 しかし率直に発言することをためらうことがあります。相手がどう反応するか気になるからです。率直に話をする時に、相手の人が「傷ついた」とか言って怒ることがあるからです。ある時、教会員が

「先生、私に間違っていることがあったら言ってください。直しますから」

と言いました。それを覚えていましたから、ある時、これを直したらどうですか、と言ったら、その人はプイッと横を向いてしまいました。そしてそのことを根に持たれてしまいました。


 教会員同士の話においても、相手の言葉に傷ついたといって、怒りを感じたり、赦せない思いを抱くことがあります。そしてその気持ちが心を支配してしまうことがあります。あの人が私にこんなことを言って、と怒りや恨みが心に満ちて心を支配するのです。怒りや恨みが心から離れないのです。これは、あなたが相手に振り回されている状態です。相手に自分の心を支配させてしまう状態です。相手の人が意図してあなたの心を支配しようとしているわけではありません。あなたが勝手に相手に支配されてしまうのです。


 赦せない思いを抱く、それは相手にあなたの人生が支配されることなのです。聖書には、人を赦しなさいと書かれていますので、赦そうと思っても悔しい思いがありますから赦せるわけがなく、赦せない自分を見させられることも悔しくて、よけいに相手を責めたくなるわけです。そうやって人に振り回され、自分の心をコントロールできない人を見ることが時々あります。


 そういう時は、自分が人に支配されていることから抜け出ることを考えることが大切だと思います。人に振り回されていることから自由になることを考えることが必要です。赦すことと赦せない思いに振り回されることは別々に考えることができるからです。そうすれば冷静になって、自分を省みることもできます。


 感情に支配されることは、成熟した信仰者の態度ではありません。これを乗り越えて、大人の信仰者に私たちは成長していきます。成長へのチャンスを生かしたいものです。聖書にこんな言葉があります。

「神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい」。

 実は赦せない思いというのは、「苦い根」です。赦せない思いを持っていると知らないうちに周囲の人を汚すというのです。周囲の人にいやな思いを与えるということです。

 そこでイエスのことを思います。今日は、イエスが十字架につけられる場面を読みました。イエスは十字架につけられる前日の夜、ゲッセマネの園で祈りました。

「父よ、み心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のまま行ってください」(ルカ22:42)。

 イエスは十字架の死を願わなかったのです。避けられるものなら避けさせてくださいと神に祈ったのです。しかしイエスは神に、み心を行ってくださいと祈り、十字架の死が神のみ心なら受け入れますと祈りました。イエスにとって、神のみ心に従うことはとても大切なことでした。十字架につけられたイエスは、自分を十字架につける者たちに対して、

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(34節)

と祈られました。さらに人々から嘲りを受け続けられました。イエスは自分を十字架につけた人たち、自分をあざけった人たちの救い主なのです。しかし人々は、自分たちの救い主を十字架につけ、あざけるという罪深い行動に走ったのです。そしてイエスは、

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」

と神の赦しを祈りました。自分は救うために来たのに、この自分を十字架につけるなんて、なんてひどい奴らなんだ、自分をあざけるなんて、とんでもないことをする連中だ、などとイエスは怒ることをしませんでした。非難もしませんでした。


 イエスは、神のみ心にまっすぐに生きた人でした。自分を迫害し、あざける者たちの赦しを願う程にまっすぐでした。自分だけ正しく生きるのではありません。自分を苦しめ、あざける者たちの救いを求めるほどに、まっすぐに愛に生きたのです。もし、私たちが神の家族として愛に生きるなら、率直に語られる言葉に素直に耳を傾けることができると思います。

  • 自分を戒める言葉を聞くことができる、それも成熟した信仰者のしるしです。
  • 成熟するためにも、自分を批判する言葉を受けとめることのできるたくましい信仰者になりたいものです。


 自分の人生を人に支配されないために、考えてよいことがあります。どんな人でも何かに動かされて生きているものだということです。あなたの人生の原動力になっているものはなんでしょうか。

  • ある人たちは罪責感に駆り立てられて生きています。無意識のうちに自分に罰を与えてしまう歩みをするのです。
  • ある人々は、怒りと憤りに駆り立てられて生きています。この人たちは黙り込んで怒りを心の中に蓄積させるか、爆発させることによって人にぶつけてしまいます。
  • ある人々は恐れに駆り立てられて生きています。この人たちは失敗することを恐れ、新しいことに挑戦することをせず、安全策を採り、現状維持に努めます。人生の喜びを失う可能性があります。
  • ある人々は、何かを獲得することにより幸せになり、偉くなろうとします。それがいつも成功するとは限りません。自己実現に走る人はこれに属します。
  • またある人々は、人に受け入れられたいという思いに駆り立てられて生きています。そしていつも人にどう思われるかを気にしています。


 イエス・キリストは、神を愛し、神のみ心に生きることを動機として生きていました。上に上げたような動機で生きるのは、どこかで心が傷つき、心が満たされていないので、それを補おうとする生き方なのです。これもまた不自由な生き方です。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16:25)。

 人は自分の命を救おうとして、自分の人生を豊かにしようとして、何かに駆り立てられて生きているのです。しかし、得られないのです。この聖句はこのことを教えています。

 私の場合、自己実現に動かされて生きてきました。牧師になっても、です。牧師として、これだけのことを自分はやったと誇りたいのです。今は、このような思いから解放されました。その私には不思議に思えることがありました。何でそれしきのことで満足して生きていくことができるの、と他の人を見て思うことがしばしばありました。それは私が空しさに捕らわれて生きていたからです。空しさを克服するには、もっと高尚なことをしないといけないのではないか、と思っていたので、他の人を見て、たとえば野球選手を見て、野球だけやっていて、よくそれで満足できるね、といった思いを持っていたのです。なぜ、このような思いを抱いたのか。その原因はなかなかわかりませんでしたが、ある時、気がつかされました。それは父親の存在です。


 松井秀喜選手、イチロー選手は子供の頃から父親と一緒に野球の練習に励み、野球選手を目指してきました。彼らには、自分を見守り励まし、自分の努力を認める父親がいたのです。自分が認められる時、自分のしていることに誇りを持てるし、それをやりがい、生き甲斐にできるのです。私の父は朝早く家を出て夜遅く家に帰りました。父親に励まされ、父親に認められるという経験はありませんでした。だから何をしても、それでいいんだよと思えることがなく、空しさを感じ、結局、自己実現が、私の生きる原動力になったのだと思います。ここまで自分はやったんだと自分に言って満足できることを求めたのです。でも現実は、自分の願った通りには進みません。果てしない自己実現の歩みが続きます。


 多くの人は、何かの原因で、何かの力によって動かされて生きているのです。それは自分の人生を豊かにしようとする願いから出たものですが、うまくいきません。聖書は、愛を動機として生きる生き方こそ、生きるに価する生き方であると教えています。

 あなたはどんな力に動かされて生きていますか。これは立ち止まって考えてよい問いだと思います。自分が、主体性をもって生きているつもりでも、実は別の力に縛られて生きているからです。あなたの人生が

  • うまくいかないなら、
  • 行き詰まりにあるなら、

 何かの力に動かされて生きているからかもしれません。愛以外の動機で生きている時、私たちは、その動機に支配されて生きているのです。自分がどんな力に動かされているのか、人はなかなか気づかないものです。罪責感、怒りと憤り、恐れ、自己実現、所有欲、名誉欲、受け入れられたいなどの力に人々は振り回されています。あなたはどうでしょうか。


 私たちが自分の人生がうまくいかないことを何かのせいにすることを神は喜ばれません。なぜなら、神は私たちを救われる方だからです。私たちは、誰にも、そして何ものにも支配されないで自由に生きる恵みが与えられているのです。信仰の成長の第五のポイントはこうでした。

「私は自分の人生の主人になった。自分の人生を人のせいにすることがなくなった。神の前に立つ者として、周囲に振り回されない生き方を見いだした」。


祈り
天の父、あなたを崇めます。宗教改革者のマルチン・ルターが、「キリスト教的人間は、すべての者の上に立つ自由な君主であって、誰にも服しない」と語った言葉を思い起こします。人の言葉、行動によって引き起こされた赦せない思い、怒りの気持ちに支配されず、振り回されない自由な人間にしてください。自分に対する批判、戒めの言葉を聞く自由な心を与えてください。
また私たちは、自分の命を救おうとします。そこにはしばしば傷ついた心が生み出す私たちの人生を駆り立てる力があります。私たちの人生を導く真の力は愛です。愛以外の力が私たちの人生を動かす力になっているなら、そのことに気づかせてください。イエスが教えたように、その力は、私たちを救わないからです。私たちを救おうとしてくださるあなたの愛に感謝します。イエス・キリストの御名により祈ります。