クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.4.11)
聖書 マタイ 28:11〜20 復活は本当である

 信仰はどこから始まるかというと、聞くことから始まります。天気予報が雨だと言えば、傘をもって出かける。天気予報で聞いたことを私たちは信じたのです。人の噂を聞いて、あの人はああいう人だという先入観を持つ。それは噂を聞いて信じたからです。信仰は聞くことから始まります。何を信じるのか、それは何を聞くかによって決まります。キリスト教の始まりは、十字架で死んだイエスは復活したというメッセージを聞くことから始まります。

 週の初めの日、マグダラのマリアともうひとりのマリアが墓を見に行きました。墓につくと二人の女性は、この世の人とは思えない人と出会います。その姿は稲妻のように輝き、着ている衣は真っ白です。聖書はその人を天使と呼んでいます。その天使から二人の女性は、

「イエスはかねて言われた通り復活なさったのだ」

と告げられます。そしてイエスガリラヤに行かれるのでそこで会うことができる、と弟子たちへの伝言を受け取ります。弟子たちに知らせるべく墓を去り、走っていくと驚くことに復活したイエスに出会います。二人の女性は、イエスからも

「兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこで私に会うことになる」

との伝言を受けます。ここで注目すべきは、イエスが弟子たちのことを

「兄弟」

と呼んでいることです。イエスを見捨ててしまった弟子たちのことをイエスは親しみを込めて「兄弟」と呼んでいます。イエスは自分を見捨てたのに弟子たちを兄弟と呼びます。イエスの憐れみを感じます。そして弟子たちにガリラヤで会うと言われるのです。女たちは喜んで弟子たちのもとへ行きます。

「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(16節)。

 弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示した山に登ります。イエスには12人の弟子がいました。ここで11人とあるのは、イエスを裏切ったユダがいないからです。イエスが先に山に登っていました。山と言っても、それはなだらかな丘のてっぺんということです。イスラエルはなだらかな丘陵が多く、日本のようなとんがった山は少ないです。山に登った弟子たちは向こうにいるのがイエスであると気がつきます。


 するとすぐに弟子たちはイエスに対してひれ伏したとあります。十字架で死んだイエスが復活して、そこにいるのです。弟子たちは、イエスがメシアであることを確認し、さらにはイエスが神に他ならないことを感じてひれ伏したのです。ところが

「疑う者もいた」

と聖書は書いています。あなたがそこにいたらイエスの復活を信じたでしょうか。


 女たちが弟子たちのもとに行き、イエスの復活を伝えた時の弟子たちの反応はマタイ福音書には書かれていません。ルカ福音書には、弟子たちは

「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」

とあります。女たちの話を疑うどころか信じようとしなかったのです。その弟子たちのところにイエスが現れるのですが、弟子たちは亡霊を見ていると感じて恐れおののきました。イエスは亡霊ではないことを示すために、私に触ってみなさいと言い、そして弟子たちはイエスが復活したことを信じたとルカ福音書には書かれています。信仰は聞くことから始まるのですが、弟子たちは聞いても信じようとしませんでした。イエスが現れ、復活したイエスに出会って、ようやく弟子たちはイエスが復活したことを信じたのです。


 マタイ福音書では、弟子たちはガリラヤの山で復活したイエスに出会いました。しかし

「疑う者がいた」

のです。これは一人だけではなく、複数です。原文を訳すと、「イエスを見ると彼らはひれ伏した。しかし彼らは疑った」となります。多くの弟子が疑ったような印象さえ受けます。復活したイエスが目の前にいるのに、それでもなお疑ったというのです。なぜそこまで疑うのか、何を疑ったのかと考えます。

  • あまりにも信じがたいことなので、現実を認めることができないのかもしれません。
  • 死者の復活を理性が信じることを許さないのでしょうか。
  • それとも亡霊だと思っただけのことなのでしょうか。

 弟子たちの疑いの理由はわかりませんが、復活のイエスを前にしてなお疑う姿、それが私たちの姿でなければよいと考えますやがて弟子たちは、イエス・キリストは復活したと宣べ伝えます。弟子たちはイエス・キリストの復活の証人となるのです。証人とは自分が見たこと、聞いたことが本当であると証言をする人のことです。弟子たちはイエス・キリストが復活したと語り続ける人となりました。


 証人に向かって、あなたは嘘を言っているとは普通言いません。証言に対して人は、

  • 「あなたのいうことを私は信じます」とか、
  • 「あなたはそう言うけど私は信じません」とか、
  • 「私はよくわかりません」

などの反応を示します。

 キリストの復活の証言を続けることを通して、キリスト教の布教がなされ、キリスト教は世界中に広まりました。

 私たちは聖書や説教を通して、イエス・キリストが復活したと聞き、これを信じるようになります。信仰は聞くことから始まります。伝道者のパウロが、アテネの町で伝道した時、人々はパウロの語ることに耳を傾けていましたが、パウロがキリストの復活を語り出すや人々は耳を閉ざし、あなたの話は今度聞くことにすると言ってパウロのもとを去りました。復活なんて愚かな話に思えたのです。確かにキリストの復活は初めて聞く人には信じがたい話でしょう。本当かどうか疑う以前に、信じられないと言って耳を閉ざしてしまうようなことなのです。


 しかしやがて信じるように神に導かれます。またイエス・キリストを信じて洗礼を受ける人の中には、まだ信じられないという人もいます。私たちは洗礼を受けた時に、キリスト者として信ずべきことをすべて信じることができるわけではありません。時間がかかります。


そしてはっきりと皆さんにお知らせしなければならないことは、

私たちもまた、キリストの復活の証人であるということです。

祈祷会でよく歌われる賛美に

「主は今生きておられる」

があります。

♪主は今、生きておられる。わがうちにおられる。すべては主の御手にあり、明日も生きよう、主がおられる♪

 主がおられる、これが私たちの希望であり、主がおられるから、主が私の内におられるから主にすべてをゆだねて明日も勇気を与えられて生きていこうという賛美です。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)。

 主は私たちと共にいてくださる、これは約束であり、私たちが体験する事柄です。だから、喜びをもって♪主は今、生きておられる♪と賛美することができます。賛美を通して、主イエス・キリストは生きておられると証言することができます。

 弟子たちは、復活したイエスに出会い、イエスは復活したと証言しました。弟子たちは復活したイエスに出会ったのです。だから、イエスは復活したと証言しました。私たちは復活したイエスに直接会ったわけではありませんから、弟子たちのように、イエスは復活したと証言することはできません。イエスが復活したと私は信じるということはできますが、イエスは復活したと証言することはできません。私たちには私たちにできる証言があります。


 私たちは復活がいかなる意味を持つのかを聖書から知ることができ、復活を信じることから受ける恵みがあります。この恵みを受け取ることができると言うことは、復活が本当であると言うことです。キリストの復活が本当ではないなら、復活を信じることから得られる恵みは存在しません。私たちは、復活を信じることから得られる恵みを受け取った、だから復活は本当であると証言することができるわけです。どのような恵みがあるのでしょうか。


 第一に永遠の命の希望があります。永遠の命を信じる根拠は、イエスが死者の中から復活したことにあります。イエスは死に打ち勝ったのです。永遠の命の希望は、人間が作り出した願望ではなく、イエス・キリストの復活が根拠なのです。人々が自分は死んだあと天国に行くと考える時の根拠は何なのでしょうか。キリスト教にはキリストの復活という歴史的な根拠があるのです。


 第二に信仰者が生まれ変わることです。信仰によって自分が造り変えられルという出来事があります。クリスチャンは神様によって自分が変えられる経験をします。死ぬまで、変えられ続けると言ってよいです。どのように変えられるのか。イエス・キリストに似た者となるように変えられていきます。それは復活したキリストが私たちの内にあって生きておられるからです。多くの人は人間の性格は変わらないと言います。自分の力ではなく、キリストが変えてくださるのです。


 第三に教会に集う信仰者が互いに愛し合うようになることです。人が集まってみんなで何かをしようとしたら、普通は、他の人に対する不満や不平が生まれてきます。しかし、互いに愛し合う信仰者が一つとなって何かをしようとしたら、そこには喜びと一致が生まれてくるのです。キリストの体と呼ばれる教会が、キリストのように生きる人たちの群れになっていくのです。


 第四に神の導きを体験します。私たちの個人的な生活の中で困難に直面した時に、神が導き、助けてくださいます。共におられるイエス・キリストの助け、働きと受けとめることができます。

 私たちは4つの面から、キリストの復活の証人、キリストが今も生きておられることの証人になれるとお話をしました。アーメンですか。それとも、こういう証人になれることに疑いを持ちますか。もしあなたが疑いを持つとしたら、ガリラヤの山でイエスに出会ったのに疑った人に似ているかもしれません。クリスチャンとは、キリストの復活を信じることから生じる恵みを受け、キリストの復活は本当であると証言する人のことだからです。


 でも疑いを持つことは間違ったことでも悪いことでもありません。信仰者になったら疑いをもってはいけないというのは間違った教えです。大事なのは、疑う心が生じた時にどうするかです。そこに選択が生じます。疑いがあるが信じる立場を自覚的に選択するか、否か。疑いをうやむやにするのは、自覚的選択をしないことになります。


 信仰は選択なのです。自分がキリストの復活の証人になれるかどうかわからないと疑問を持つ方がおられるかもしれません。そしたら、復活の証人になりたいので、ならせてくださいと神に求め続けることです。神は必ず、応えてくださいます。なりたいと思わないなら祈り求める必要はありませんが、その時、クリスチャンであることを捨てることになりかねないことを知ってよいと思います。


 信仰者にとって大切なことは神に期待すること、神に求めることです。キリストが復活したことを信じたいと思っている人がいたら、信じることができるように神に祈ったらよいと思います。神は求める者に与えてくださる方だからです。キリストの証人になりたいなら求めればよいのです。


 聖霊は私たちに大胆さ、勇気を与えてくださるかたです。聖霊は父なる神、子なる神であるイエスと同様、人格を持つおかたです。エネルギーのような力ではありません。私たちが証しをしようとする時、励ましてくださるかたです。私たちがキリストの復活は本当ですとの証しを導くのは聖霊です。私たちが思い切って口を開くなら、聖霊が語らせてくださいます。

私は永遠の命の希望がうれしいです。私は変えられて以前の私ではありません。変えられたことがうれしいです。教会に集うことが楽しいです。それはイエス・キリストが今も生きておられるからです

聖霊に導かれて大胆に語りませんか。


祈り


 天の父なる神、キリストの復活を感謝します。キリストの復活を信じることから来る恵みに感謝します。多くの人を復活信仰へと招き、キリストの復活は本当であると証言する人にしてください。喜びをもって私たちが証言できるように導いてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。