クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.9.12)
聖書 ルカ福音書 1章5〜25節 神に立ち帰る


多くの人は、自分が、自分の人生の主役を演じたいと思っているのではないでしょうか。映画にしてもテレビのドラマにしても、主役がいて、主役を引き立てる脇役がいます。誰だって主役を演じたいと思いますが、名脇役などと呼ばれて主役を演じることの少ない俳優がいます。俳優になるなら、誰だって主役を演じたいでしょうが、脇役が似合う人がいます。


聖書に登場する人にも、脇役を演じる人がいます。主イエス以外はみな脇役と言ってしまえば、それまでですが、場面に応じて、主役的な働きをしたり、脇役の働きをしたりします。

今日の聖書は、ヨハネという人物の誕生が予告されます。まだ生まれてはいませんが、ヨハネが主役です。そして彼の両親が脇役ということができる、そんなことを考えながら今日の聖書を読み進めたいと思います。


ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいました。その妻はアロン家の娘とあります。アロンというのはずっと昔の人ですが、神から神殿に仕える者とされ、その子孫が、神殿に仕える務めを果たしてきました。アロンの子孫は、24の組に分けられ、交代で神殿に仕えていました。


ザカリア夫婦は、神の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかったとあります。敬虔な信仰者でした。彼らは子供がなく、すでに年をとっていたとあります。ザカリアが神殿の中で、香をたくという務めをしていたわけですが、その時天使は、

「あなたの願いは聞き入れられた」(13節)

と告げます。このことからザカリア夫婦は、子供が授かるように神に祈っていたことがわかります。でも今は、二人とも年老いたので、子が授かることはあきらめていたに違いありません。驚いたことに天使は、「願いが聞き入れられた」と告げます。子が授かるというのです。そんなことはあり得ないと思うザカリアは、

「何によって、私はそれを知ることができるのでしょうか」(18節)

と天使に尋ねています。


なぜザカリア夫婦に、天使は子が授かると告げたのでしょうか。他の人でもよかったのではないでしょうか。授かる子は、とても大切な働きをすることがわかります。神を畏れ敬って生きている祭司は、ザカリアだけではないと思います。


子が授かることはうれしいかもしれませんが、何を今更、という思いがザカリアにあったとしてもおかしくありません。子が与えられるなら、なぜもっと若い時に与えてくれなかったのか、そう思ったかもしれません。若い時に子を授けてくださいと願い、それがかなえられず、失望を抱いていたかもしれません。ですから、なぜ、この時に、ザカリア夫婦に子が授かるのか、です。


この時とは、神が救い主を送ろうとされた時です。言うなれば時が満ちたのです。 神は、救い主の先駆けとしての働きを行う人物を、この時に、誕生させるのです。 ですから、この時でないといけないのです。ではなぜ、ザカリア夫婦なのでしょうか。


聖書を読むと、神の働きを担う人は、年老いた夫婦から生まれた例がいくつかあります。その夫婦は、神に用いられる働きをする子を産むために、年老いて子を産むのです。アブラハム夫婦の場合は、アブラハムが100歳、妻のサラが90歳で子を産むのです。常識的には、子を産めるはずがないのです。つまり、年老いて子を産むとき、そこには、神の力が、神の全能の力が示されているのです。


この時から半年後、天使はマリアという若い女性に現れ、あなたは子を授かると告げます。マリアはまだ結婚していません。それなのに子を授かるというのです。天使は、神の力があなたを包み、あなたは子を身ごもるというのです。そしてあなたの親類のエリサベトも年をとっているのに身ごもった。神にできないことは何一つないと言います。天使が、マリアに

「神にできないことは何一つない」

と語るために、ザカリア夫婦が選ばれたと言ってもよいのです。


ザカリア夫婦のことを思うと、祈りについて思うことがあります。私たちは神に祈ります。神に願いを告げ、願いをかなえてほしいと思います。しかし、かなえられないことがあるのです。そして神に対して失望を感じることがあるのです。皆さんはどうでしょうか。


ザカリア夫婦のように子を授けてくださいと祈ってかなえられなかった夫婦もおられます。子供のことで悩み、解決を求めてもなかなか願いがかなわない、相変わらず悩み続けている人もおられます。ザカリア夫婦の場合、年とって思いがけない時、神に用いられる子が授かります。この時に子を授かるために、彼らには子が与えられなかったのです。私たちの願いがかなえられない時、そこには、私たちの知らない神の計画があるのです。神に祈りが拒まれたのではなく、神のご計画のために、私たちの願いが、かなえられない、そういうこともあるのです。


私たちは、人生の主役ではなく、神のご計画のために、脇役を果たすのです。ザカリア夫婦は、生まれてくる子の働きのために用いられます。彼らは脇役の人生を生きているのです。願いがかなわないとき、失望するのではなく、むしろ神の御心を神に求めていくことが大切であると教えられます。


ザカリア夫婦が授かる子、その子は、16節によれば、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせるとあります。彼のなすべき働きを天使は、父となるザカリアに告げます。「立ち帰る」とは「戻る」ことを意味します。つまり神から離れていった人々を神のもとに戻らせる働きをするのです。神を信じなくなった人々をもう一度神を信じるように導くのです。神、それはイスラエルの人々が信じていた神です。その神とは、そもそもどんな神なのでしょうか。


旧約聖書のはじめの方に、出エジプト記があります。紀元前13世紀頃、今から3000年以上も前の昔です。イスラエルの民は、エジプトで奴隷として苦しく辛い生活をしていました。何十年と苦しい生活をしていました。そのつらさ、苦しさの中からイスラエルの民は、助けを求めて神に叫んだのです。そして神は、その叫びに答えて、イスラエルの民を救い出すのです。聖書の神は、苦しむ人を救い出す憐れみ深い神です。


どんな風にして神がイスラエルの民を救ったのかは、出エジプト記を読むとわかります。興味深い物語となっています。神はイスラエルの民を、彼らが自由に生きることができる土地、しかも水と緑の豊かな土地へ導かれます。そこで彼らは家畜を飼い、また畑を耕し、果樹を育て、労働を喜びとし、家族が共に生きる、祝福に満ちた生活を送るのです。神は信じる者を祝福する神なのです。人間を造られた神は、人間を祝福する神です。


エジプトを出たイスラエルの民は、神が与える土地に入ります。その直前、神は言うのです。私の掟を守りなさい。そうすれば、あなた方は祝福を受ける。私の掟を守らなければ呪いがくる。神の戒めはよいものであり、それを守ることは、守る人に益をもたらすのです。


緑と水の豊かな土地に入ったイスラエルの民はどうしたかというと、神の掟を守らなくなるのです。彼らの周辺にいる異なる民族の神を信じるようになったりするのです。神から離れ、神を捨てるのです。神から離れるとき、神の掟から離れ、人間の生活はうまくいかなくなるのです。人間を創造されたのは神ですから、人間がどのように生きれば幸せになるのか、神はよくご存じです。だから神は掟を与えられるのです。神から離れ、神を捨て、神の掟を捨てると、人間の生活がうまくいかなくなるのです。


そこで神は、イスラエルの民に神に立ち帰るように、神のもとに戻るようにと語る預言者を送るのです。しかし民はなかなか神のもとに帰りません。挙げ句の果てにイスラエルの国は滅びてしまうのです。神はイスラエルの民が神の掟を守り、人間らしく生きて祝福に満ちた人生を送ってほしかったのです。しかし、イスラエルの民は、神から離れてしまったのです。そのことは神にとっては残念なこと、悲しいことであったと思います。自分の愛する者が、不幸になる道、破滅の道を歩んでいるのを見るしかないのは辛いことです。


そして神は、今、ザカリア夫婦に生まれる子に新たな働きをさせようとします。生まれてくる子はヨハネという名を持ちます。彼は

「父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(17節)

という働きをします。
一言で言えば、神から離れた生活を悔い改め、神を信じて生きていこうとする民を用意するというのです。イスラエルの民を神に立ち帰らせる働きをするのです。それは救い主のために備えとなるのです。


神に立ち帰るとは、神のもと戻ることです。神は、私たちに対しても

「私のもとに戻ってきなさい、立ち帰りなさい」

と呼びかけておられます。神に立ち帰ることを「悔い改め」と言います。


神に立ち帰るとは具体的にどういうことを意味するのでしょうか。聖書のたとえを用いると、神を信じるとは、神と結婚をすることです。人間同士の結婚において大切なことは、相手の気持ちを大切にすること、相手を愛することです。それと同じように、神を信じるとは、神を愛し、神の気持ちを大切にすることです。もちろん、神は私たちを愛し、私たちの気持ちを大切にしてくれます。互いの人格を大切にしあうのです。


私たちは神を信じることにより、他の人の人格を大切にすることを学んでいくということもできます。人間同士の場合、こちらが相手の人格を重んじても、相手が応えてくれないということが生じます。自分が損をしているような気になります。しかし神は、私たちの人格を完全に大切にしてくださいます。ですから、神を信じるとき、私たちは、他の人の人格を、たとえば、夫や妻、子供、親、教会の友など、他の人の人格を重んじることができるようになります。言い換えると他の人たちと愛し合って生きていくことができ、その結果.祝福された人生を送ることができるのです。


神の人格を重んじるとは、神の気持ち、神の語ることを重んじるということです。そこで私たちは聖書を読みます。聖書には、神の気持ちが書かれており、聖書を通して、神は私たちに語りかけてくださいます。
私たちは、聖書に書いてあること、つまり神の言葉に基づいて物事を考え、判断するように努力をします。相手の気持ち、相手の言葉に注意を払わないで、相手を重んじることはできません。


私たちが聖書を読んで行くとき、私たちの心があらわになることがあります。神の言葉を受け入れたくない、神はいやなことを言うなあ、そんな思いを抱くことがあるのです。神の教えは、すべてが私たちにとって心地よいものとは限りません。「あなたが人からしてほしいことは、人にしてあげなさい」。「互いに赦し合いなさい」。「敵を愛しなさい」。「思い煩うのはやめなさい」。「いつも喜んでいなさい」「すべてのことに感謝しなさい」。無理無理、できこっこない、したくない!


私たちが神の教えに従って生きていこうとしても、私たちの周囲は、神を信じない人が沢山。私たちの行動は人から理解されないし、聖書の価値観は、この世の人たちの価値観とは異なるので、周囲の人たちと意見が対立し、時に争いになることや、私たちが拒絶され、排除されるようなことも起こりかねません。神の教えを貫こうとすると不利益を招き、傷つくこともあるのです。


だから、神の教えは守りたいと思えるものだけを守ればいいのだ、というような考えも生まれてきます。しかし、もしあなたの夫や妻から「あなたの言い分のうち、私がしたいと思うことだけ言うことを聞くわ」と言われたら、感じ悪いですよね。
神の教えに従いたくないという思いは、私たちの心の中に生じます。私たちの心の頑なさの故に、私たちの心の弱さの故に、私たちの心の高慢の故に。しかし神に感謝します。神は、私たちが神に従って生きることができる道を用意してくださっているからです。


ザカリアの子ヨハネは、母の胎にいるときから、聖霊に満たされているとあります(15節)。聖霊に満たされると、信仰者には、確信と、確信からくる大胆さが与えられます。


神に立ち帰り、神の言葉に従って生きていこうとする者に、イエスは、聖霊を満たしてくださいます。その結果、頑なな心、高慢な心が砕かれ、弱い心が強められ、確信をもって神の言葉に従って生きる心が与えられます。知恵も与えられ、この世の人々との関わりを愛をもって行うことができるようにされていきます。神が窮地を切り開かれることを信じます。


神の言葉に従って歩む、これほど幸いで、平安に満ちたことはないのです。神をあがめ、神に仕える歩みをします。神を主人公に、脇役として私たちは生きていくのです。同時に神に生かされている私たちが光の子として輝いていくのです。そして神は永遠の命を与え、死の恐れの代わりに神の国の希望をも与えてくれます。神に立ち帰る人は幸いな人なのです。


祈り

天の父、あなたに立ち帰る、それは一時のことではなく、わたしたちの生涯の事柄なのだと教えてください。イスラエルの民と同じように、私たちもつい、あなたから離れてしまうからです。心の頑なさ、心の弱さ、傲慢さのゆえに、私たちは自分の思いに従って歩みがちです。私たちを聖霊で見たし、御言葉に対する確信を与えてください。そして大胆にみ言葉に従って歩むことができますように。イエス・キリストの御名により祈ります。