クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.3.20)
聖書 ルカ4:38〜41 神の臨在に触れて


 私が、神様は本当におられるなと思うのは、聖書を読み、思い巡らす時です。なぜ、これはどういうこと、などの疑問を出しながら、聖書を読み、思い巡らし、私の生活に導きが与えられる時、「神様は本当にいるんだ」という実感はありませんが、神様はこうして私に語りかけてくださっているのだと思います。そして私は、神様は今も生きて働かれる、そう信じます。

 説教準備のために今日の聖書を何回も読んで抱いた最初の感想は、主イエスの憐れみです。主の憐れみが伝わってくるなと感じました。今日の聖書で、38節、主イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになりました。シモンって誰、と思われるかも知れません。いきなり名前が出てきます。これは主イエスの弟子ペトロのことです。その家で、ペトロのしゅうとめが、高い熱で苦しんでいたので、人々は主イエスに何とかしてほしいと頼みました。すると主イエスは、熱を叱ったとあります。すると熱は去り、彼女は元気になったというのです。


 40節で、日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちを主イエスのもとに連れてきました。なぜ日が暮れてから人々が病人を連れてきたのかというと、その日が安息日だったからです。イスラエルでは、一日は夕方から始まり次の日の夕方に終わります。安息日には何の仕事もしてはならないとの戒めがあります、夕方になり安息日が終わったので、人々は病人を連れてきたのです。


 すると主イエスは、その一人一人に手を置いていやされたと書かれています。この「主イエスは、その一人一人に手を置いていやされた」という文章を読んで、主イエスの憐れみを感じるのは、私だけでしょうか。皆さんも主の憐れみを感じられるのではないでしょうか。


 ここに書かれている出来事は、実は、マタイ、マルコ両福音書にも書かれております。マルコ福音書ではこうなっています。「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取り憑かれた者を皆、イエスのもとに連れてきた。イエスは、いろいろな病にかかっている大勢の人たちをいやし、また多くの悪霊を追い出して」。マルコは、出来事を淡々と語っているように思えます。マタイ福音書も同様です。


 それに対してルカ福音書では、「いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆」と書かれています。病気になり苦しんでいる人がいる。その病人を抱えてやはり苦しんでいる人がいる。苦しんでいる病人を抱えている家族が、その病人をイエスのもとに連れてくるのです。そしてイエスは、その一人一人の病人に手を置いていやされています。病気で苦しむ人、病人を抱えて苦しんでいる人への主の憐れみが一人一人に手を置くという表現の中に示されているのではないでしょうか。

この聖書の箇所は、主イエスの憐れみが苦しむ人に注がれていることを伝えています。

 主イエスは、ご自分の前に連れてこられた人すべての病人に手を置いていやされました。 ここから私どもは、神は「苦しむ人すべてに対して」憐れみ深いかたであることを読み取ってよいのではないでしょうか。さらに、神は、どのような苦しみに対しても、いやしを与えることのできるかたであることを読み取ってよいのではないでしょうか。神に解決できない苦しみはないし、神の憐れみから外れる人は一人もいない、と今日の聖書は語りかけていると私は信じます。


 皆さんの中には、「私のような者は、神の憐れみを受けることができないのではないか」と思われる方もいるかも知れません。

  • 自分は礼拝を休むことが多いからとか、
  • 自分は神の教えをきちんと守っていない
  • 自分には神の憐れみを受ける資格がないと思ってしまうのです。
  • あるいは、私は信仰者として頑張っているのに、どうして憐れみが少ないのだろう、神は私のことを顧みてくれているのだろうか、

と思うことがあるかもしれません。


 注意してください。私どもの信仰は神さまの恵みを信じる信仰です。私どもは恵み深い神さまを信じるのです。人間の行いに応じて報いてくれる神を信じるのではありません。ですから「私のような者をも、神さまは、憐れんでくださる」と信じてよいし、信じるのです。それが聖書の教える信仰です。


 皆さんの中には、「わたしが直面している苦しみは、いくら神さまでも解決できないのではないか」と思われるかも知れません。注意してください。私どもは神が全能の神であることを信じます。苦しみに対する神さまの解決は二つあります。一つは、苦しみを取り去るという解決です。もう一つは、苦しみがあるにもかかわらず、その苦しみを受け入れ、喜んで生きることができるという解決です。


 パウロという伝道者は、肉体に一つのとげがあり、神様に取り除いてくださいと祈りました。とげ、それは何らかの病気です。しかし神は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分発揮されるのだ」と言われました。神は、そのとげを取り除かれませんでした。その時パウロはこう言うのです。「自分の弱さを誇る。私は弱い時にこそ、強いから」。自分の苦しみを通して、神が働かれると思える時、希望を持ちつつ、苦しみを忍耐する、そのような形の苦しみの解決もあるのです。

神さまに解決できない苦しみはなく、神さまの憐れみからもれる人はいないのです。


 今日の聖書を何回も読んで、さらに思い巡らして、ふっと与えられた思いは、この場におまえがいたら何を感じるかということでした。ここは、神がおられるという神の臨在があふれている場面ではないか、ということです。


 そこで一つ皆さんにも想像していただきたいのです。皆さんは、シモンの家にいて、主イエスが、連れてこられた病人の一人一人に手を置いていやされているのを目撃しているのです。主イエスが手を置くと病気が治るのを見ているのです。いろいろな病気で苦しんでいる人が皆、いやされていくのです。その場に自分がいるとしたら、皆さんは、何を感じますか。


 うそっ! まさか! すごい! 何これ! 信じられない! 夢じゃないの! 驚嘆の声を上げるかもしれません。その後、何を感じられるでしょうか。神がここにおられる。神は今ここで生きて働いておられる。そう感じられるのではないでしょうか。そしてその場にいることに喜びを覚えるのではないでしょうか。神の臨在に触れて、心が喜ぶのです。


 私どもは、このようになの臨在に触れる経験はできるのでしょうか。できないのでしょうか。「できます」。会堂で主イエスが教えたとき、その言葉に権威があり人々は驚きました。主イエスは神の言葉を語ったのです。だから人々は神の言葉を聞くために主イエスのもとに来ます(5:1)。


 神は「言葉」の中におられるのです。私どもが神と出会うのは、礼拝です。主イエスの言葉の権威に触れたとき、人々は神と出会ったように、私どもも礼拝において語られる神に出会うのです。勿論、神の姿は見えません。しかし私どもの心は神と出会うのです。それは神秘的な体がぞくぞくっとするような、そんな体験ではありません。驚嘆をあげるような体験ではないかもしれません。しかし、神は語りかけてくださったと心が確信する体験が起きるのです。


 今日の聖書を読んでいてわからないのが悪霊です。悪霊がいかなるものか経験したことがないので、どう理解したらいいのかわかりません。悪霊とは何なのか、正直言ってわかりません。わかりませんが、悪霊の性質はわかります。神に敵対するということです。


 悪霊は、主イエスが誰か知っていました。「おまえは神の子」とわめき立てました。悪霊は、主イエスがメシアだと知っています。病人のいやしという出来事を通して、主イエスが「神の子」だと知って、わめき立ててとりついていた人から出て行ったとあります。


 ヤコブの手紙の中で、行いのない信仰は役に立たないことを論じている部分で、こう書かれています。「あなたは神は唯一だと信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じておののいています」。神が唯一であることは、悪霊だって信じているというのです。でも悪霊は、神を礼拝しません。神を知りながら神を礼拝しません。神に敵対する存在だからです。だから私どもは、唯一の神を信じるなら、それにふさわしい行動をすべきでしょうとヤコブは述べているのです。


 私ども人間は普通、神に出会うと神を信じ、神を礼拝し、神によって生きるようになります。それが自然です。しかし悪霊は、神を知っていても、神を礼拝しません。つまり、神に出会ったとき、どう行動するのか、どう反応するのかが、それが大切なのです。悪霊は神を礼拝しないのです。


 主イエスは、悪霊を戒め、ものを言うことを許さなかったとあります。それは「おまえは神の子だ」という告白は真実な告白ではないからです。

 告白というものは、それに伴う行動、生き方を必要とするものです。今日は午後結婚式があります。結婚式の中で、結婚する男女は、誓約をします。その誓約に従って生きるとの気持ちがなければ、その誓約には何の意味もありません。意味もないどころか、偽りとなります。


 私どもは病気のいやしという神が生きて働かれる現実を目の当たりにするというようなことは少ないでしょう。しかし、礼拝において語られる神の言葉の中に、私どもを生かし、導こうとする神の憐れみを感じることができるのではないでしょうか。そして、

「あなたこそ神です。主イエスは私の主です」との告白に導かれるのではないでしょうか。

 私どもの耳が開かれて、神の声を聞き、神と出会うことができますように。私どもの目が開かれて、神の御手の業を見、神と出会うことができますように。神に対する私どもの告白が真実なものとなるように祈ります。


祈り
天の父、あなたを崇めます。病気のいやしの連続という、神様がここにおられるという現実に私たちは直面しないかもしれません。しかし、聖書を通して、あなたは私たちに語りかけ、またイエス・キリストを通して救いを与えてくださいます。
あなたこそ真の神、主イエスこそ私の主、との告白にふさわしい歩みができるよう導いてください。またこの幸いな告白ができるように、あなたご自身を私どもに現してください。私どもが、真心を持ってあなたを礼拝できるように導いてください。イエス・キリストの御名により祈ります。