聖書 ルカ10:25〜37
説教 隣人愛の教え
→一年前の今日、東日本大震災が起きました。
- あれから一年がたちましたが、被災者の生活の再建はまだまだです。
- 一日も早く、安心して生活できる日の到来を祈るものです。
- 被災地の復興に欠かせないのが、ガレキの処理です。
- これが計画通りに進みません。
- 全国の自治体でガレキの処理を引き受けなければ、復興の妨げになります。
- ガレキ処理の受け入れの意向をどこかの自治体が発表すると、
- 必ずといってよいほど、反対運動が起きます。
- 放射能の被害が心配だというのです。
- 被災地の隣人になろうとして、
- ガレキ処理を引き受けた方が良いのか、
- 放射能の被害が起きないように反対した方がいいのか、
- 人の意見は賛否両論に分かれます。
- 今日は、聖書から隣人愛の教えを学びます。
- 隣人愛の教えは私たちがものを考える時に大切な考え方だと思います。
→善きサマリア人のたとえは、心に残るたとえです。
- イエス様がこのたとえを語ったのには理由がありました。
- 律法の専門家が、「私の隣人とは誰ですか」とイエス様に質問したからです。
- その質問に答える形でイエス様はたとえを語りました。
- ある人が、エルサレムからエリコに下っていく途中、追いはぎに襲われました。
- この人は半殺しの目に遭い、道端に倒れ動けなくなってしまいました。
- そこに、祭司が通りかかりました。
- 彼はこの人を見ましたが、道の反対側を通って行きました。
- 追いはぎに襲われた人を助けようとしませんでした。
- 次にそこを通ったレビ人も同じように助けませんでした。
- そしてサマリア人がそこを通りかかると、彼は、助けたのです。
- 手当をして、傷ついた人を宿に連れて行き休ませます。
- そして翌日、自分が宿を立つとき、宿屋の主人にお金を渡し、傷ついた人の世話をお願いしています。
- イエス様は律法の専門家に問います。
- 「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったのか」。
- 「その人を助けた人です」と律法の専門家は答えます。
→ここで疑問が湧きます。
- なぜ、祭司やレビ人は追いはぎに襲われた人を助けなかったのでしょうか。
- レビ人というのは、イスラエル人です。
- イスラエル民族は、創世記に出てくるヤコブの子孫です。
- ヤコブには男の子が12人いました。
- イスラエルは、ヤコブの子供たちの名で呼ばれる部族からなっていました。
- レビ人というのは、ヤコブの息子のレビの子孫なのです。
- レビ部族は、神殿で神に仕えることを仕事としました。
- 追いはぎに襲われた人を助けなかった祭司もレビ人も、
- 仕事として神に仕える人たちでした。
- 神に仕える人が人助けをしないなんてひどい、と思われるかも知れません。
- 彼らは、けっして自己中心的な人だったわけではありません。
- 彼らは神の掟を熱心に守っている人でした。
→神の掟、律法に次のような戒めがあります。
- レビ記21章1節。
- 主はモーセに言われた。アロンの子である祭司たちに告げてこう言いなさい。
- 親族の遺体に触れて身を汚してはならない。
- ただし、近親、すなわち、父母、息子、娘、兄弟、
- および同居している未婚の姉妹の場合は許される。
- 間違っても、親族の遺体に触れて、身を汚すことがあってはならない。
→親族の遺体にも触れてはいけないのです。
- まして赤の他人の死体に触れるなんてとんでもないことです。
- 彼らがエルサレムからエリコに向かって下っているとき、
- 道端に倒れている人を見ました。動きません。
- 死んでいるのではないか、そう思ったのです。
- もし近づいて、その体に触れて死んでいたら、汚れてしまいます。
- 「間違っても、親族の遺体に触れて、身を汚すことがあってはならない」。
- 遺体に触れて身を汚すようなことがあってはならない、との神の掟。
- この故に彼らは、倒れている人を見ながら、そこを通り過ぎたのです。
- 結果として、この人は死んでいませんでした。
- だからこの人を助けなかったことになります。
- 遺体に触れて身を汚すようなことがあってはならない、との神の掟。
- この神の掟の故に彼らは通り過ぎたのです。
- 彼らには、理由があったのです。
- そんな義務のないサマリア人は、半殺しの目にあった人を助けました。
→イエス様は、「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と律法の専門家に尋ねました。
- 律法の専門家は、「その人を助けた人です」と答えました。
- 「私の隣人とは誰ですか」という質問は、人間の間に境界線を引きます。
- 私の隣人である人とそうでない人とに人を分けるのです。
- これはよい考え方ではありません。
- 私の隣人ではない人は、私と関係のない人、無関係の人となります。
- そしてその人がどうなろうと私の知ったことではない、となります。
- 善きサマリア人のたとえは、あなたに助けを求める人はあなたの隣人だというのです。
- あなたに助けを求める人の隣人になるか否か、それはあなた次第だというのです。
- 世界中のあらゆる人は、あなたの隣人になる可能性があるというわけです。
- 東日本大震災が起きた後、私たちにできることを何かしなければ、と
- 多くの人たちは考えました。
- つまり被災した人たちの隣人になったのです。
→助けを求める人の隣人になる、それが隣人愛の教えです。
- 祭司やレビ人には神の掟がありました。
- 遺体に触れて身を汚すようなことがあってはならない。
- 強い口調の神の掟です。
- しかし隣人を愛しなさい、これも神の掟です。
- 祭司やレビ人は、二つの神の掟のうちどちらに従うべきか、選択に迫られたのです。
- 皆さんが祭司だったらどちらを選びますか。
→ここには選択の基準の問題があるのです。
- 自分の身が汚れないことを選ぶのか、倒れている人に関わることを選ぶのか。
- 何を基準にして行動すればよいのか、です。
- この基準は、イエス様と無関係ではありません。
- モーセの十戒に安息日を覚えてこれを聖とせよ、とあります。
- 安息日は特別な日、神を礼拝する日なので、
- この日は仕事はしてはいけないと神は命じたのです。
- そこで律法学者たちは、この日にしてもいいことと
- してはいけないことを考えたのです。
- そうすれば、仕事をしてはいけないという掟を守ることができます。
- そしてイエス様は、安息日に病人を癒やしたのです。
- 病人を癒やすことは安息日の戒めに違反することだとイエス様は非難されたのです。
- イエス様は、安息日の戒めに違反していると非難されても、病人を癒やしたのです。
→イエス様は、非難する人々に言います。
- 「あなたたちに尋ねたい。
- 安息日に律法で許されているのは、善を行うことか。悪を行うことか。
- 命を救うことか、滅ぼすことか」。
- こう言った後、イエス様は、右手の萎えている人に
- 「手を伸ばしなさい」とお命じなりました。
- すると律法学者たちは、怒り狂ったのです。
- 今日でなくて、明日にすればいいではないか、これが律法学者たちの理屈です。
- 今日は安息日なのでこの掟を守り、明日癒やせばいいではないか、
- と律法学者たちは言うのです。
→あるいはイエス様はこうも言います。
- 「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」。
- 律法を守ることに熱心なファリサイ派の人々は、黙っていました。
- 心の中では許されていない、と思っています。
- さらにイエス様は言います。
- 「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、
- 安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。
- 彼らはこれに対して答えることができなかったとあります。
- イエス様は何を大事にしているかが分かります。
- 人間を大事にしているのです。
- 自分が掟を守ることよりも、人を助けることを優先しているのです。
→この善きサマリア人のたとえには、一種のトゲがあります。
- あるいは皮肉といってよいかも知れません。
- サマリア人と呼ばれる人たちは、イスラエルの人からは軽蔑されていたのです。
- 昔イスラエルは北のイスラエル王国と南のユダ王国の二つの分かれていました。
- BC722年、北のイスラエルがアッシリア帝国の攻撃により滅亡しました。
- アッシリアは、その時、他の地域に住む人々を北のイスラエルに住まわせたのです。
- そこに住んでいたイスラエル人とよそから来た人々が共に住むようになりました。
- その結果、そこのイスラエル人は純粋なイスラエル人ではなくなり
- その信仰も純粋なものではなくなったと言われ、
- イスラエルの人々からは軽蔑され、汚れた人々と見なされたのです。
- 汚れたと見なされているサマリア人が半殺しに会った人を助け、
- 身の汚れを避けた人が、半殺しに会った人を助けなかったのです。
- イエス様は、「あなたも同じようにしなさい」と言いました。
- つまりサマリア人に見ならいなさいと言ったのです。
- 汚れたサマリア人に見ならう、そんなことできるわけがない、という思いが
- 律法の専門家には生じたでしょう。
- 祭司やレビ人たちになくて、サマリア人にあったもの、それは何でしょうか。
- 憐れみの心です。
- イエス様が安息日に病人を癒やしたのも、憐れみの心からです。
- どんなに神の教えを守っていたとしても、憐れみの心がないなら、
- 神を愛し、神の掟を守っていると言っても、それは空しいのです。
→私どもも隣人愛の教えを実行しようとするとき、
- 選択に迫られることがあるのではないでしょうか。
- 祭司たちのように、他の選択をする理由が色々とあるのです。
- そういう理由をあげて断ることがあるのです。
- しかし聖書は憐れみの心が大事だというのです。
- 憐れみの心があれば、迷わずに隣人愛を実行するでしょう。
- 憐れみの心を持てないから、選択に迷い、自分に都合の良い選択をしたくなるのです。
- イエス様は律法学者たちの心に潜んでいる、自分の都合は大切にする偽善を見ていたのです。
→うれしいことに神様は、私どもに憐れみの心を与えてくださいます。
- 私は愛の薄い者だ、と悲しむ必要はありません。
- 永遠の命がイエス様を信じる人に与えられているように
- 憐れみの心も与えられているのです。
- 信じますか。
- あなたにも憐れみの心が与えられている、信じますか。
- 信じてください。そして一歩踏み出してください。
- 一歩踏み出し続けてください。
- 隣人愛を実践し、自分の心の中に憐れみの心があったことに気づくとき、
- 何にも代え難い喜びが心の中にあることが分かります。
- この喜びがあなたを待っているのです。
- ガレキ処理についても、隣人愛の視点から考えることは大切なことだと思います。
祈り
独り子を十字架におつけになり、
私どもを救ってくださった憐れみ深い神様、
あなたは私どもをご自身に似せて造られました。
そしてあなたは私どもを救い、
あなたに似た者となるように救ってくださったことを感謝します。
あなたの救いにいただき、
私どもの心に憐れみの心が与えられていることを信じ感謝します。
私どもに助けを求めている人の隣人となることができるように導いてください。
隣人は近くにも遠くにもいます。
特に身近な人に対して憐れみの心をもって接し、
憐れみの心が与えられていることを知ることができますように。
隣人愛の教えを大切な考え方として身につけることができますように。
あなたにより憐れみの心が与えられていることを感謝し、
あなたをたたえる者とならせてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。