今祈祷会で、テモテの手紙一を読んでいます。次のような聖句があります。
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。
王たちや高官のために祈ることが勧められています。私たちの場合は、一つには為政者のために祈ることが意味されていると思います。その為政者がその地位、働きにふさわしい資質を持っているとは思えない場合、どのように祈ったらよいのかと思案しています。
安倍総理大臣は年末に靖国神社に参拝を行い、近隣の国から反発を招きました。アメリカからも失望したと批判されました。アメリカの反応は予想外だったと思います。中国、韓国の反発は承知の上での参拝です。安倍首相は積極的平和主義を打ち出しています。積極的に平和を求めるなら、なぜ近隣諸国の反発をもたらすような行動をし、緊張関係を高めるような行動をするのでしょうか。私には理解できません。アメリカ政府の高官たちも理解できないからこそ、失望を表明したのだと思います。<自分は間違ったことをしていないから、批判は当たらない。誤解だ>、と言い切るのは、人の気持ちを理解せず、話し合いによって平和を築こうとする態度とは思えません。国家の指導者としての資質に疑問を感じます。
一国の指導者としての資質に欠けると思える為政者のためにどう祈ったらよいのでしょうか。
- ふさわしい資質を持てるように神の導きを祈るべきなのでしょうか。それとも、
- ふさわしい資質を持つ人が指導者になるように祈ったら良いのでしょうか。
- 指導者の周囲にいる人たちが、適切に諌言できるように祈ることでしょうか。
イエスマンに囲まれて喜んでいる指導者は賢い指導者ではありません。自分に対する諌言を受け入れる指導者こそ、謙遜で信頼に足る人です。
旧約聖書の列王記下21章1〜2節にこう書かれています。
マナセは十二歳で王となり、五十五年間エルサレムで王位にあった。その母は名をヘフツィ・バと言った。彼は主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣い、主の目に悪とされることを行った。
列王記は、歴代の王が神の目に正しいことを行ったのか、悪とされることを行ったのかを明らかにしています。マナセ王は、神の目に悪とされることを行いながら、55年も王位にあったというのです。神は彼を王位から退けなかったのです。神の御心が行われるように願った人たちは、長い忍耐の時期を過ごしました。
神さまは、ふさわしいとは思えない指導者の存在を許すことがあります。それは私たちがどのような対応をするのか、私たちに問いかける場合です。