聖書はイスラエルの王たちがいかなる王であったかを記します。
歴代誌上下28章1~2節
アハズは二十歳で王となり、十六年間エルサレムで王位にあった。彼は父祖ダビデと異なり、主の目にかなう正しいことを行わなかった。彼はイスラエルの王たちの道を歩み、その上バアルの神々のために像を鋳て造った。
アハズの孫がマナセです。
列王記下21章1~2節
マナセは十二歳で王となり、五十五年間エルサレムで王位にあった。その母は名をヘフツィ・バと言った。彼は主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣い、主の目に悪とされることを行った。
列王記下21章19~22節
アモンは二十二歳で王となり、二年間エルサレムで王位にあった。その母は名をメシュレメトといい、ヨトバ出身のハルツの娘であった。彼は父マナセが行ったように、主の目に悪とされることを行った。父の歩んだ道をそのまま歩み、父が仕えた偶像に彼も仕え、その前にひれ伏し、先祖の神、主を捨て、主の道を歩まなかった。
三人の王だけでなく、何人かの王が同じように語られています。つまり、偶像礼拝を行ったのです。主の目に悪を行うとは、偶像礼拝を行うことです。それは言い換えれば、主を捨てたということです。
つまり、罪とは神の掟を破るとか、不道徳なことを行うというようなことではなく、神の目に悪を行うこと、神を捨てることです。神に対する態度が問題なのです。神の御心を真剣に受けとめない、それが罪です。そこから神の掟を破るさまざまな行動が生まれてきます。
私たち異邦人は、罪というと悪いことを行うことと理解しがちです。悪いことを行うのは、神の御心を重んじない心があるからです。神の御心を重んじない心、その心は罪に汚染され、罪に支配されている心です。この心から悪しき行いが生まれてきます。
現代の日本人は、「あなたは罪人だ」と言われても受け入れないでしょう。だれもが認めるような悪しき行為を行っていないと反論するでしょう。でも罪とは、聖書が伝える神に対する態度なのです。神の御心を重んじない、それが罪です。
私自身、信仰者であり牧師でした。ある時、神の御心を重んじない心があることに気づかされ、自分は頭のてっぺんから足のつま先まで罪のかたまりであると知らされ自分は本当に罪人だと思わされましたし、今もそう思っています。
でも私のアイデンティティーは「罪人」ではありません。「罪人」ではなく、イエス・キリストにあって「神の子」であり、罪赦された「義人」です。神さまの目に映る私は罪人ではなく、神の子であり、正しい人であり、聖なる者です。