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隠退牧師 holala によるブログ

列王記下 15章

(内容)
 ユダの王アザルヤとイスラエルの王について列挙されています。アザルヤは、主の目に正しいことを行う王であったが、主に打たれ、死ぬまで重い皮膚病に悩まされました。他方イスラエルでは、謀反によって王が次々に変わる不安定な状態でした。


(黙想)

  • ユダの王アザルヤは、聖書の別の箇所ではウジヤとして知られています。52年王位にありましたから、ある意味すぐれた王でした。彼は主の目に正しいことを行う王でしたが、主に打たれたとあります。主に打たれた理由は書かれていません。歴代誌下を読むと、興味深いことが書かれています。「彼が主を求めている間、神は彼を繁栄させられた」。「ウジヤの勢いは、この上もなく増大し、その名声はエジプトに近い地方まで届いた」。「ところが彼は勢力を増すと共に思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた」。そして彼は主に撃たれ、重い皮膚病になったと書かれています。高慢は神さまの忌み嫌われるところであり、アザルヤは、神の裁きを受けたと言うことができます。彼が悔い改めたのか否か、それは分かりません。
  • 歴代誌下26章にはウジヤ(アザルヤ)のことが詳細に書かれていますが、列王記は簡潔にしか書いていません。列王記下14章はアザルヤの父アマツヤのことを詳しく書いています。彼も神の前に思い上がり、家臣に殺されて生涯を閉じます。思い上がりがもたらした結果と言えます。自業自得です。自業自得、これも神の裁きと言えます。思い上がったアザルヤについて、列王記下は詳細に語ることなく、主の目に正しいことを行ったが主に撃たれたと簡潔に書きます。
  • 人の人生は、その人が神に対してどのように関わって生きたのかで表現できると聖書は告げているように思います。主の目に正しいことを行う人生であった。主の目に悪をされることを行う人生であった。人は人生で色々なことを行い、生きた証しを沢山残すかもしれませんが。神の目には、その人が神に従ったか否か、それだけが重要なのだと教えられます。
  • イスラエルでは、どの王もネバトの子ヤロブアムの道を離れなかったと記述され、ただ権力欲によって、生きていたことが分かります。彼らはもはや、神に見放されていました。自分の好きなように権力欲にとらわれて生きていました。そして謀反によって王の地位を得また失い殺されています。自分の好きなように生きる末路がどのようなものであるかを教えています。


(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か

  • 神さまは、傲慢な者を打ち、裁く方です。
  • 神さまは、神さまに従わない者を好きなように振る舞うに任せるお方です。

☆神が望まれる私たちの生き方

  • (教え)人生で大事なことは、いかなる人間的業績を積み上げるかではなく、神に従ったか否か、ただそれだけであると知ります。人間的業績、それは過ぎ去るのみです。
  • (警告、罪)思い上がってはいけません。自分の力で何事かを成し遂げたという思いは、「思い上がる」という誘惑の中にあります。


(神の導きを求めて)

祈り

  • 天の父なる神さま、今日の聖書を読んで心に残ったのは、人間の生涯の記録の簡潔さです。思い上がった王の悲しい末路は、アザルヤも、その父のアマツヤも同じです。歴代誌はアマツヤについては、その人生についてそれなりに詳細に語っています。列王記下ではアザルヤについては、王の在位が52年なのに、王として行ったことについての記録はありません。主に打たれたとしか書かれていません。それは思い上がりが招いたことでした。主なる神に従う人生であったのか、そうでないのか、それだけが重要なのだと教えられました。
  • 最近、一日を大切に生きるにはどうしたらいいのかを考えるようになりました。基本的には悔いのないようにと考えましたが、これは人間的な考えであることが分かりました。自分にとって悔いのない一日を過ごすのではなく、神さまの目によしとされる一日を送ることが大切であることを教えられました。
  • 今度の日曜日、その次の日曜日、説教の奉仕を与えられています。聖霊の導きを祈り求めて準備をします。感謝と喜びをもって、御言葉に仕えることにします。

☆受け取った導き

  • 今日、聖霊の導きを祈って説教の準備をする。喜びと感謝をもってする。