クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

分かち合いについて

 伝道が困難と言われる中、分かち合いこそ、伝道を活発にする鍵ではないかと私は考えています。

 私が金沢元町教会に赴任したとき、教会はアルコール依存症の人たちに場所を提供していました。アルコール依存症の自助グループの話し合い(分かち合い)のために場所を提供し、私も求められたので何年か参加しました。自助グループの話し合い(分かち合い)は、今広がりを見せています。

 たとえばガンで大切な人を喪った人たちのグループ、自死した家族をもつ人たちのグループ、薬物依存症の人たちのグループ、色々なグループがあります。これらのグループに参加した場合、自分と同じ経験をした人たちの話を聞くことができるし、また自分も話をすることもできます。自分の思いを話すことで気持ちが楽になり、苦しんでいるのは自分だけではないと知ることも気持ちを楽にさせますし、参加者が皆、生きていこうとするのを見るとき、励ましを得ることができます。

 このようなグループの場合、参加者は皆似た経験をしているので、自分のことが話しやすいです。また共感をもって他の人たちに聞いてもらえます。グループに属することは安心感を与えます。ただ誰もが参加できるわけではなく、当事者(共通の経験をもつ人)でなければ参加できないという制約はあります。このようなグループに参加し、互いの経験を分かち合うことを通して励まされ、生きる力、勇気を与えられるところにこのようなグループの意義があります。

 教会にもこのような分かち合いのグループがあってよいと私は考えています。聖書によれば人間は罪の奴隷、罪の支配下にあります。イエス・キリストは私たちの犯した罪を赦し、罪からの自由、解放を与える方です。罪依存症(罪を犯さざるを得ない)の私たちが罪から解放されて生きることができます。その経験を分かち合うことは信仰生活にとって大きな助けになります。

 教会での分かち合いは、いきなり自分の罪を話すのではなく、もっとゆるやかな話し合いでいいと思います。つまり聖書を読んでの感想などを分かち合いを行います。あるいは日曜の礼拝説教を聞いての分かち合いもよいと思います。聖書や説教を神さまの語りかけとして受けとめ、自分がどう受けとめたのかを分かち合います。週の半ばに聖書の学びをしている教会が多いと思うので、この分かち合いはすぐに始めることができます。

  聖書の言葉を自分の生活の中で受けとめ、聖書によって自分はどのように生きようとしたのか、どのように歩もうとしたのかが分かち合われるようになると分かち合いが深まります。自分の置かれた状況の中で、自分がどのように御言葉によって歩んだのかが分かち合われます。この分かち合いには参加資格はありません。人生を生きるという意味ではだれもが当事者となります。求道者が身を置けば、聖書によって生きようとしている信仰者の姿は参考になると私は信じています。悩みながら、問題に直面しながら、苦しみながら、それでもなお神に信頼して生きようとする姿は、信仰への導きとなります。

 正直な分かち合いが行われるとき、そこに祈りが生まれます。互いに執り成しの祈りをするようになり、互いに愛し合う信仰者の交わりが生まれます。

 信仰者も、世間の人と同じ状況の中で生きています。似た悩みを抱きます。違うのは御言葉によって生きようとするところです。分かち合いによって御言葉に生きる信仰者の姿は伝道する力があります。私はそう信じます。

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