クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

自助グループに参加して

 私が金沢元町教会に赴任して間もなく、ある集会が再開しました。それはアルコール依存症の人たちのグループミーティングです。教会は会場を提供していたのです。私も参加を求められたので参加しました。元町教会の集会はクローズドの集会なので、本来は、当事者つまり依存症の方だけの集会で、そうでない人は参加できないことになっています。ある時から、クローズドなのでと言われ参加をやめました。

 その集会では、毎回テキストを読みます。読むテキストは『12のステップと12の伝統』という本で、依存症から回復するための道筋が書かれています。まずは一緒に定められた箇所を読み、参加者それぞれが自分の思いを語り合います。この集会では「教え」はありません。リーダーが教えることもありません。そもそもリーダもいません。依存症からの回復のために何かを学ぶというより、本を読み、そこに書かれていることを自分を照らし合わせ、感じたこと、思ったことを分かち合います。苦しんでいるのは自分だけではなく、ともに回復の道を歩もうとしている人たちがいることが励ましとなり支えとなります。毎週集会があり、飲酒しない生活を一週間送って集会に集うのです。

 私は求められたので参加しました。私も分かち合いに参加しました。私自身は、アルコール依存症ではありませんが、キリスト者です。キリスト者は、かつて罪に支配され、罪の奴隷であり、今は罪と戦って生きる存在です。戦っているという点で依存症の人と共通しています。あの12ステップという本の内容は、罪にいかに勝利するかという観点からも読むことができるのです。というか、罪からの解放を目指すキリスト教的な考え方に基づいています。私はその観点から、自分の思いを分かち合いました。

 世の中には様々な分かち合いのグループがあります。自助グループと呼ばれるものがあります。キリスト教でも小グループを中心にした活動をする教会が増えてきました。

 このブログの記事を書く前に思いめぐらしましたが、あらためてはっきりと分かったことがあります。信仰もまた同じです。信仰とは、教えを受けて学び、教えられたことに従って生きることというより、信仰の仲間と分かち合いながら生きるものであると。「教えと学び」は必要ですが、これだけをしていれば十分ということはありません。分かち合いをしてこそ、「学び」が生きてくることを思います。分かち合いがないと、知識だけの信仰、頭でっかちの信仰に陥ってしまいます。

 分かち合うところに、信徒の交わり、教会が存在するということができます。

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散歩道にて