クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 先日三重県伊勢市で高校三年の女子生徒が殺害されたとの事件が報道されました。自分を殺してと男子学生に頼んでの死であったとの報道がなされています。新聞によれば、彼女は、自分は「生きている価値がない」と考えていたそうです。自尊感情も低かったとのことです。本当に残念なことです。もし教会に来てくれていたならと思いますが、教会がどれほど伝道しているのか、もっと伝道していればこんなことにならなかったのではないか、との批判が教会に向けられることも知っています。


 私も若い頃、生きることに悩んでいましたが、自分で解決が得ることができなければ、最後には教会に行こうと考えていました。最初は信仰によらずに何とか自分で解決したいと思ったのです。それがダメなら教会にと、と考えていました。その当時は、信仰のない私の心の片隅に教会の存在があったのです。しかし今、若い人の心の片隅に教会の存在はないのだと思います。教会の存在の影は薄れてしまいました。


 牧師になってから、思わされたことは、教会の礼拝で、福音として語られていたことは罪の赦しだけでした。罪からの解放、新生、聖霊の導き、などはほとんど語られていませんでした。ですから、礼拝の司式者の祈りが、何とも暗い祈りで、これでよいのかと考えさせられました。「私どもは罪深いものです。この一週間、罪を犯してきました。しかし、あなたの赦しの中でみ前に立つことを許され、感謝します」。この祈りが毎週です。自分の心が新しくされたとか、み言葉に励まされたとか、信仰者として生きることができてよかったとの喜びが伝わってこないのです。福音とは何か、考えざるを得ない日々を過ごしました。牧師の説教に大きな責任があることは言うまでもありません。そして福音派と呼ばれる人々の読む本を読み、新しく生まれて生きるとは、聖霊の導きを受けて生きるとはどういうことかを読みあさりました。そして聖書は福音として何を語っているのかに注目しました。説教をするときも、引用は聖書からするようにして、神学書であれ、文学書であれ、それらから引用することはしないように努めてきました。聖書が中心だからです。


 私は今、教会の成長を次のように考えています。

  • (1)信仰者が罪赦され、新しくされ、聖霊の助けによって、神さまに従う生活を喜んでするようになること。
  • (2)そのような信仰生活を分かち合い、信仰に生きる喜びを何倍にも受け取り、感謝と賛美に満ちた礼拝を献げる教会になること。
  • (3)信仰者が世の光、地の塩として、社会に感化する働きをするようになること。


(1)から(3)は、時間的な順序ではなく、(1)から(3)が混ざりながら、らせん状に教会は成長すると考えています。