私には日記を書く習慣があります。と言っても、毎日欠かさず書くわけではありません。パソコンの日記ソフトを使って書いています。時々ソフトを変えたりしていますので、データファイルがいくつかあります。バックアップしたデータもあり、もれのないように、重複しないように、整理しています。楽しいのが、プログラムを作ることです。単純作業やチェックはコンピュータにさせます。
牧師の働きを隠退し、これまでの歩みを振り返りたいと思いました。日記を読むと、そこに書かれている多くのことは忘れていますし、思い出すこともできません。それでも、自分がどのような歩みをしてきたのかは分かります。
日記を読み返すのは、自分の人生における神さまの導きを確認したいとの思いがあるようです。そして自分はこうして生きてきたのだと実感したい思いもあるようです。それは死を受容する助けになると思います。最終的に私を信仰に導き、私を生かしてくださった神さまをたたえたいと思います。
日記は自由に書けばいいわけですが、読み返してみて、後悔することがありました。
- 一つには具体性を持たせること。「今日は楽しかった」「今日は辛い目に遭った」と書いてあると、何があったのか、分かりませんし、思い出せません。ひと言、こんなことがあったと書いておけば、よかったと反省します。子どもが学校で書く作文の書き方を学べばよかったです。
- 人の名前も、名字だけでなく氏名を書くとよいと思います。ついでにその人とどんな出会い、関わりがあったのかも書いておけば、思い出しやすくなります。名前がなくても顔を思い出すことができますが、やはり名前があるといいなと思いました。
これも一種の終活なのでしょうか。