クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

振り返って思う神の導き(6)聖書に聞いて

 人生を振り返って、あれは神の導きであったと思うことを書いてきました。多くの信仰者も自分の人生を振り返れば、神さまの導きを思い出すことができると思います。

 そこで思います。神さまが私たちを導かれるなら、いつも導かれて歩みたいと。その昔イスラエルの民はエジプトで苦しい奴隷生活を強いられていました。そこからの救いを求めて神に叫びました。すると神は彼らに、エジプトから救い出し、乳と蜜の流れる肥沃な土地へ連れて行くとの約束を与えました。神は彼らをエジプトから解放し、約束の地に導かれました。

 私たちは罪と死の支配から解放され、神の国の約束を与えられ、神の国を目指して人生を歩んでいます。この神の国に向かう人生という旅は順風満帆というわけにはいきません。問題が起きたり、試練に遭ったりします。また悩みます。その悩みの中には自分自身に関する悩みもあります。もちろん平穏な日々もあります。

 問題や試練が起きたら神さまの助け、導きを求めることは大切ですが、問題のない日々にあっても、神さまの導きを求めたいのです。なぜなら私たちがキリスト者として成熟していくことは神さまの御心だからです。聖書によれば、神の国に迎えられるとき、私たちはキリストに似た者とされるとあります。神の国に迎えられ、キリストに似た者とされたときに違和感のないように、喜びに満ちあふれるように、この世にあって、キリストに似た者となることを目指すことは大切だと考えています。そのために神さまの色々な戒め、教えもあります。これらに具体的に従い、神の国を目指して歩みます。神さまの教えを知っているだけでは、余り意味はありません。従ってこそ、意味があります。

 そこでどのようにしたらいいのか、それが問題です。そこで聖書を読みます。聖書を読み、思いめぐらし、自分がどのように歩むことが神の御心なのかを思いめぐらします。思いめぐらしている聖書から自分を導く神の声を聞くのです。心で聞きます。そしてこれが神の導きではないだろうか、と思われたことに従って歩む、これを私は続けてきましたし、今も続けています。

 自分が神の導きだと思ったことは本当に神の導きなのか、と言われたら、自分はそう信じていると答えるしかありません。それはあなたの思い込みではないかと言われたら、そうかもしれないと答えます。与えられたと思う導きが神の導きであると証明する証拠などはありません。自分として神の導きと信じます。私は「信仰者」として生きています。少なくともキリストに似た者となることを目指すのは、自分の采配だけではむずかしいと私は思っています。

 神さまは私のことを愛し、私のことをよくご存じです。神さまは私の人生を導き、私の人生の最善をご存じで、その最善を歩めるように導いてくださると私は信じています。この最善を歩むために、聖書を通して神さまの導きをいただくことができると信じています。

 このように聖書を読むことを教えられたことは、私の信仰者人生最大の神さまの導きかもしれません。

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ふきのとう 待ち遠しい春 2012.3.19