クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 人には信仰生活の転機というものがあるかもしれません。私にもあります。もうずっと前のことになりますが、教会で修養会を開催することになっていました。ところが一人の長老が、私は出席しませんと言い出しました。出席できないのには分けがあり、自分は行くところがあると言われたのです。次の日、ちょうど地域の牧師会があり、遠くの教会だったので車での往復時間、祈り続けました。さらに空いている時間があれば、祈りました。そして神さまが祈りを聞いてくださったことが分かりました。「切符を買おうとしたら、お土産を買おうとしたら、・・・・したら、これらがみなうまく行かず、結局行けなくなりました」と語られました。その時、神は生きて働かれる方であると知りました。その時から、聖書の言葉が神の言葉であるとの確信が与えられ、確信をもって説教をするようになりました。


 もう一つはデボーションを学んだことです。デボーションって何だと言う方もおられると思います。簡単に言えば、聖書を読み、思いめぐらし、聖書を通して神さまが語ってくださると信じ、神さまは、私の生活を導いてくださると信じ、どんな導きを与えようとしてくださるのかを黙想するのです。教会でデボーションの学びをするとき、最初にお話しすることがあります。デボーションの前提です。


<デボーションをする人の信仰告白

  • 天の父は、私のことをすべて知っておられます(詩篇33:13〜15)
  • 天の父は、私に最善の導きを与えようとしておられる愛の父です(ローマ8:28)
  • 天の父は、聖書を通して導きを与えようとしておられます(箴言3:5〜6)
  • それゆえ、私は天の父の愛を受け、その導きを受け、天の父の与える最善の導きの中に生きていきます。

詩編33:13〜15
主は天から見渡し/人の子らをひとりひとり御覧になり
御座を置かれた所から/地に住むすべての人に目を留められる。
人の心をすべて造られた主は/彼らの業をことごとく見分けられる。

ローマ8:28
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

箴言3:5〜6
心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。
そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。

その上で、次のようにして聖書を読みます。『信徒の友』などにある聖書日課とされる箇所を読みます。そして以下の視点に注目して聖書を読みます。

  • 神さまは、どのようなお方なのか
  • 神さまは、どのような生き方を私たちに望んでおられるのか。

その日に読む聖書の箇所から、以上の視点に立って読み取ります。するとどうなるのかというと、

  • 神さまは、「私は・・・のようなものだよ」と私に語りかけてくださったことになります。
  • 神さまは、「私はあなたが・・・・することを望むよ」と語りかけてくださったことになります。

語りかけてくださっていると考えるのです。信じられるようになれば幸いです。その上で、神さまは私をどのように導こうとされているのかを思いめぐらすのです。私には、現実があります。この現実に対して、神さまは導きを与えようとしておられると信じます。それを祈り求め、神さまの導きと思われることを実践するのです。以上がデボーションです。単純です。日毎の糧としてただ聖書を読むだけではなく、導きを得るほどに聖書を思いめぐらすのです。これは幸いな業です。このデボーションが私の信仰生活、牧師生活を導いてくれましたし、私の説教にも大きな影響を与えてくれたと信じ、感謝しています。