(内容)
イスラエルの王アハブは、アラムの王と協定を結びました。それは主なる神に逆らう行為でした。一人の預言者がアハブのもとに行き、彼を咎めます。アハブのもとに行く前に、その預言者は自分の隣人に「わたしを打て」を命じます。打つのをためらった隣人は、主のみ声に聞き従わなかったとの理由で裁きを受け、獅子に殺されてしまいます。もう一人別の隣人は、預言者を打ち、預言者に傷を負わせます。彼の身に変わりはありません。そして預言者はアハブ王のもとに行きます。
アハブ王は、神さまから滅ぼすように定められた人物、アラムの王の助命の願いを聞き入れました。神さまのみ心に反しました。預言者は、アハブの命は失われると告げました。その時アハブは悔い改めることなく、機嫌を損ね腹を立てたとあります。
(黙想)
- 預言者の隣人、特に打つのをためらった隣人は、獅子に殺されてしまいました。何と気の毒な、と思います。「わたしを打て」という言葉を、この隣人は主の言葉を受けとめることができたのでしょうか。主のみ声に逆らったと預言者が語る以上、主の言葉だと知ることができたことになります。預言者は、これは主なる神の言葉だと言って、「わたしを打て」と言ったのでしょうか。それとも、隣人ですから、彼が預言者であることを知っているので、彼の語る言葉は神の言葉だと受けとめることができるとされたのでしょうか。
- どちらかの理由でその隣人は、「わたしを打て」が神の言葉、神の命令と知り、それに従うことを求められたことになります。そしてその隣人は、ためらいを感じたのです。人を打ち傷つけるなんて、簡単にできることではありません。しかしそれが神さまの命令だとしたらどうすべきなのでしょうか。
- かつてエジプトを脱出したイスラエルの民は約束の地を目指し、やがて約束の地に入ります。モーセは神の命令をイスラエルの民に伝えます。「あなたの神、主があなたに渡される諸国の民をことごとく滅ぼし、彼らに憐れみをかけてはならない」(申命記17:6)。約束の地に入るとき、先に住んでいる人たちを滅ぼし、その土地を我が物としなさいとの神さまの命令です。この神さまの命令には納得できない、と語るクリスチャンは少なくないと思います。皆殺しにしなさいなんて、神さまのふさわしくないと考えるのです。これについては、神さまは理由を語っておられます。「彼らの神に仕えてはならない。それはあなたを捕らえる罠となる」。偶像礼拝の誘惑をもたらすので、滅ぼしなさいとの神さまの命令でした。神さまの言葉に従うということは真剣なことなのだと思わされます。
- そこで思うのです。この隣人は、<今すぐに><預言者を打ちなさい>との神の命令を受けたのです。この隣人はためらいましたが、別の隣人は預言者を打ち傷を負わせました。神さまの命令が具体的です。今、預言者を打つのです。何をいつするのか、はっきりしています。では私たちは、神さまの命令をどう聞いているのでしょうか。神さまは、いつ何をしなさいと具体的にはっきりと私たちに命じられるのでしょうか。
- 十戒をはじめ、聖書には神さまの命令が沢山あります。「してはいけない」という否定の命令なら、しなければ、守っていることになります。しかし「しなさい」という命令はどうでしょうか。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」との神さまの命令がありますが、いつ、誰に対して、何をしたらいいのか、具体性がありません。具体性がないからと言って何もしなければ、私たちは神さまの命令は知っていても、実行していないことになります。私たちの生活は忙しく、自分の生活に追われてしまうと、神さまの命令を実行しない生活を送ることになってしまいます。それでいいのか、と考えさせられます。
- イエス様は、山上の説教の最後で、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と教えられました。私たちはどのようにしたら賢い人になるのかと思わされます。
- 聖書には沢山神さまの命令が書かれています。神さまは、いつ何を誰に対してしなさいとはおっしゃいません。ではどうしたら私たちは神さまのみ心を実行するのか、考えるべき課題です。そうしないと私たちは神さまの御心を行っているとの自覚がないまま、信仰の生涯を送りかねません。
そこで道が二つに分かれます。
- 聖書の教えをわきまえて日々を送る。
- 聖書の教えを具体的に行う歩みを模索し、実行する。
(実践)
- 引退しても私には伝えたいことがあります。キリストを伝えるということですが、日々キリストの言葉に従う生活をどのように行うのか、伝えたいという思いがあります。その方法を、道を神さまが切り拓いてくださるように、今日は祈ります。