クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 ガラテヤ 3:1〜14

(内容)
 救われるためには割礼を受けることが必要だと説く偽教師がガラテヤ教会にやってきて、教会を混乱に陥れています。アブアハムの子は「信仰によって生きる」こと、聖霊を受けたのは、福音を聞いて信じたからではないか、律法によって義とされることを願うなら、律法の全部を守らなければそれは無理だ、律法は信仰をよりどころとしていないなど、パウロは反論します。


(黙想)

  • 「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」(ガラテヤ2:15)。律法の実践に誰よりも熱心だったパウロに認識の転換が生じました。イエス・キリストを信じる人は、「信仰によって生きる」との新しい認識です。「信仰によって生きる」とは、神を信じて生きるというのではなく、神の約束を信じて生きるとの意味です。
  • これは新しい考えではありません。聖書が伝える信仰は、神の約束を信じて生きる信仰です。アブラハムモーセも、神の約束を信じ、その約束の実現に向かって生きたのでした。信仰とは神の約束を信じ、その実現を求めて生きることにあるとパウロは気づいたのだと思います。
  • そして律法の実行と神の約束を信じて生きることの間には、救いの根拠をめぐって大きな違いがあるので、パウロは割礼を主張する人々に対して大反対をしたと推測します。
  • 律法の実践、ガラテヤ教会では割礼の実践を説くことは、救いの根拠・救いの確証を自分の手につかむことを主張することになります。つまり「私は割礼を受けている、私は神の教えを守っているから、だから私は救われている」と言って、救いの根拠を自分のうちに持つのです。自分の救いの保証を自分の手に持ち、安心するのです。中世の教会が免罪符を販売し、これを買えば救いは確実、天国に行けると主張したことに対して宗教改革者ルターは大反対をしました。救いの保証を手にできるという考えにルターも反対したのです。
  • 「信仰によって生きる」とパウロは語ります。私たちが救われる根拠・理由は、神の約束にあります。つまり「十字架の上で贖いの死を遂げたイエス様を救い主と信じる人を救う」、これが神の約束です。人間が救われるのはイエス・キリストの十字架の死があるからです。私たちはこの神の約束を信じて救われます。私たちが救われる根拠は、神の約束にあります。私たちには救われる資格などありません。だから私たちは信じて、つまり、恵みによって救われるのです。
  • 自分の行いによって救われるのか、神の約束を信じて救われる(恵みによって救われる)のか、大きな違いがあります。信仰生活にも、大きな違いが現れます。自分は救われているとの確証を持つと、信仰の成長はそこで止まります。免罪符を手にした人が、なんで信仰に励む必要があるでしょうか。もう救われているのですから。しかし、信仰によって生きる人は違います。神の約束を信じて生きるので、神の約束に目を向けます。神の約束に目が留まります。神は何を約束しているのでしょうか。
  1. 信仰者は新しく生まれた存在、新しく造られた存在である。
  2. 信仰者は罪清められた人となる。
  3. 信仰者は聖霊を賜物として受ける。
  4. 聖霊の導きを受けて生きることができる。

 たとえわずかでも信仰者として成長していることを自覚するとき、自分が新しくされた喜び、罪から清められた感謝、聖霊の導きを受けて生きる喜びを味わいます。そして神への賛美が心にわいてきます。これらの喜び、感謝、賛美が、教会の中で、なかなか聞こえてこない現実があります。罪を赦された恵みを感謝する声しか聞こえてきません。そして自分については、「罪深い者」と語るのです。それは何故かと考えます。今考えられる理由を上げてみると。

  1. 神の約束を知らない。そのために神の約束の実現を求めることがない。それ故、罪の赦しだけを救いの恵みとして受け取ったままにとどまっている。
  2. 罪の赦しを得て自分は救われたと考え、安心し、そこで留まってしまう。救いとは、罪の赦しと永遠の命。聖書や説教から、クリスチャンは新しく生まれ(新生)、聖霊をいただき、その導きに生きる(聖化)ことなどを聞きますが、自分には関係のないこととして受けとめてしまう。
  3. 周囲に、新しく生まれ変わった信仰者、聖霊に導かれて歩んでいる信仰者がいないので、救いの恵みとは罪の赦しとしか考えない。


 「救われている」ことで満足してしまうと、信仰の前身・成長がストップします。信仰が未成熟のままに留まります。でも礼拝は忠実に守り、教会の働きに仕え、精一杯、信仰者として歩みます。このような信仰者が多い教会は、伝道する力が乏しいのです。これは霊的な病で、教会に蔓延しているように思います。だからパウロも戦ったのだと思います。


(実践)

 福音を伝える者にとって、克服するにはあまりにも大きな壁です。どうしたらいいのか、めまいがします。教会の働きから引退はしましたが、この状態を見過ごしにしていいのか、と考えさせられます。「あなたはここで何をしているのか」との神さまの声が聞こえるような気もします。こういう思いを持つ、与えられるということは、神さまが行動を促しているように思います。今考えていることを、神さまが導いてくださるように祈る。

↑何の花でしょうか?