クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

新型コロナウィルスと神の御心

 イエス様はゲッセマネの園で祈られたとき、三人の弟子たちをそば近くにおらせ、「目を覚まして祈っていなさい」とお命じになりました。この箇所を読み、新型コロナウィルスによる感染の広がる中、イエス様から「目を覚ましていなさい」と言われたら、自分はどうするのかと思いました。パンデミックと呼ばれる事態は、私にとっては前代未聞のことです。神さまのご支配を信じる者として、この出来事をどう受けとめるのか、神さまの御心があるとしたらそれは何なのか、思いめぐらしてみました。

 この事態は神が人類に警告を与えるためにもたらしたものなのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答の問27の答えを昨日、ブログで紹介しました。そこには「木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです」。

 「父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです」とあるので父親が子を懲らしめるように、神が人類を懲らしめ警告を与えようとしていると考えることができます。しかし私は、神が新型ウィルスをこの世界に送ったとは考えません。この事態は、神がもたらしたものではなく、この事態が起きることを神は容認したと考えます。これまでに神が容認しなかったから起きなかったという事態があった思います。起きなかったものは私たちは知ることができません。神は今回の事態を起きるのを止めはしなかったということです。

 その上で、神がこの事態が起きるのを許可したのであれば、そこに意味を見いだし、神の御心を探り、受け取ることはできると思います。

 私が受けとめる第一のことは、このパンデミックの事態が終熄したのなら、このような事態を繰り返さないためにどうしたらよいのか反省し、次の感染に備えることです。そのためには謙遜に自分の振る舞いを顧みなければなりません。一人ひとりの人間が、企業が、事業者が、自治体の首長が、自治体の職員が、国会議員が、国家の指導者まで、すべての人が、様々な立場の人が謙遜に自分たちの足りなかったことを認め、次回に備えることが必要です。ひと言で言えば、自己批判をすべきです。言い訳をしたり、自己弁明をせず、人のせいにもせず、謙遜に反省することが神さまの御心だと私は考えます。

 第二に新型コロナウィルスの攻撃に、人類はもろかったことです。感染が拡大する中、医療崩壊という言葉で代表されるように社会の機能が麻痺していく事態を招きましたし、そうなるのを防ぐことができませんでした。私たちの社会のもつ脆弱性が明らかにされました。感染を防ぐために様々な処置がとられていますが、多くの人が苦しみの中に置かれています。会社、商店が破産し、生存が脅かされている事態も発生しています。

 私たちは技術を発展させ、利潤を追求し、便利さを追求し、効率を追求し、幸福を追求してきました。私たちの社会には様々な問題があります。これらの問題をある程度は解決しようとし、ある程度は見過ごしにしながら、私たちは利潤、便利さ、効率、幸福を追求してきました。そしてこの社会のもつ脆弱性が一挙に露呈しました。

 ある人は言うでしょう。ケセラセラ(なるようになる)。この事態がどのような結果をもたらすにしても、人類は生きていく。それでいいのではないか。これまでもそうだった。でもこれは歴史に学ぶことを放棄したことになります。

 私たちの社会は、利潤、便利さ、効率、幸福を追求したあげく、大切なものを見失ってきたと思います。大事なことを犠牲にしてきたと考えます。一人ひとりの命、生活を大切にすることを忘れてきたのではないかと思います。国家の指導者は、この国をどのような国家に築こうとしているのでしょうか。安倍首相は『美しい国へ』という本を出版しています。美しい国追求の結果がこの事態とすれば、彼の理想追求は何だったのでしょうか。新型コロナウィルスというたかだか数日の寿命しかもたないウィルスに私たちの社会は翻弄されました。

 私たちはどんな国を築こうとしてきたのか、これからどんな国を築こうとするのか、考え直す必要があると思います。神さまは、自分たちの歩みを振り返る機会を与えてくださったのではないでしょうか。経済的に繁栄し豊かさを享受できる社会でいいのでしょうか。新型ウィルスの攻撃で、破綻を来すような危うい社会でいいのでしょうか。考えよ、と神さまがおっしゃっているように思います。

 人間が自分の力で何でもできるという錯覚が今の社会の根底にあると思います。

詩編111:10
主を畏れることは知恵の初め。 

 

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菜の花畑 散歩道にて