クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書研究祈祷会での分かち合い

 水曜日の夜、私は奈良高畑教会の聖書研究祈祷会に出席しています。今詩編を順々に読んでいます。昨日は教会員が亡くなった関係で、いつも通りの祈祷会ではなく、その教会員の愛唱聖句が取り上げられました。その聖句はペトロの手紙一1章8節です。

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。

 私はこの会が聖書の言葉をめぐっての分かち合いが盛んになることを願っています。司会する牧師も「皆さんの感想や疑問など分かち合ってください」と促します。いつもは他の参加者が話し終えた後、話しをするようにしていますが、今回は聖句が聖句なので、私が最初に話をしました。

 「この聖句はすごい聖句だと思います。『言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちています』。私が課題としている聖句です。このように語ることができることを願っています。私も信仰者として喜びを与えられていますが、私は自分の喜びを言葉で言い表すことができます。言い尽くせてしまう喜びです(^_^;)。私はイエス・キリストによって救われ、神の子として神さまのご支配の中を生きることができるので、何があっても、何が起きても、心の底にはいつも喜びがあります。平安があります。海の表面が台風なので荒れ狂ったとしても、海の底は静かであるように、私の心の底にはいつも喜び・平安があります。これは静かな喜びです。でも心に満ちていると表現することはできませんし、言い尽くせないすばらしい喜びということもできません。この聖句は、私にとっては課題です」。

 と話ししました。

 それから「キリストを愛する」ことも話題となりました。それでこれについても話しました。

「昔、神を愛するってどういうことか分からず考えたことがあります。愛するといっても、神さまに対して恋愛感情を持つことはできませんし、悩んでいた時、聖書に答えを見つけました。ヨハネの手紙一にはこう書かれています。『神を愛するとは、神の掟を守ることです』(ヨハネ一5:3)。イエス様はこうおっしゃっています。『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る』(ヨハネ14:23)。問題は、愛するとなぜ守ることになるのか、です」。

 愛するとなぜ守るのか、私には答えがありますが、これは話しませんでした。一緒に考えることができたらいいなと思ったからです。

 

 

 

結婚式での思い

 昨日は名古屋まで出かけ、結婚式に参列してきました。キリスト教の結婚式です。新婦は、かつて私が牧会していた教会の教会員です。彼女は宣教に仕えたいとの思いで神学校に行きました。神学校で学び、卒業してその神学校でスタッフとして働きながら出会ったカナダ人の宣教師と結婚することになりました。

 彼女はかつて教会での学びで、宣教師になる可能性を内に秘めたそうです。そして「僕と結婚することは君も宣教師になるということだよ」と彼から言われ、この結婚に神の導きを感じたそうです。

 結婚式は神学校で行われました。広い部屋に会場を設営しての結婚式でした。その神学校はアメリカ人によって創設されていて、教える人にアメリカ人が少なくなく、学校は英語が普通に話されるような感じと受けとめました。結婚式には神学校の関係者が奉仕していたようです。結婚式やレセプションでは、日本語は英語に、英語は日本語に訳されました。

 人が集まるところ、そこには固有の雰囲気が醸し出されるように思います。クリスチャンの結婚式で、集まっていたほとんどがクリスチャンだったと思います。そこで私が感じた雰囲気は、信仰に生きる喜びが醸し出されている、でした。英語を話す人が多かったからかどうか分かりません。神学校関係者が多かったからかどうか分かりません。結婚式だから喜びが満ちていると言われればそれまでですが。

 私が身をおいている教会の雰囲気とは違います。人はそれぞれの場で生きるように使命を与えられていることを思いました。

 神さまが彼女をどのように導かれるのか、祈ってきた私には、娘を独立させた親のようなホットした気持ちを抱いた結婚式でした。

 

 

 

牧師を引退して2年が過ぎ

 牧師を引退して2年が過ぎました。娘に双子の赤ちゃんが生まれるというので奈良に転居しました。娘は夫と共に牧会しているので、育児の応援のために奈良に移り住みました。赤ちゃんの成長をじっくり見ることができたのは大きな恵みでした。

 またいくつかの教会の礼拝説教奉仕をしました。現役の時とちがって説教の準備に時間をとることができるのでありがたいです。昨年度に続き今年度も和歌山県のG教会に奉仕をします。教会員の高齢化と共に礼拝に出席する人が少なくなり、経済的にも教会が弱まっているのを見ると、伝道の急務を思わされます。

 昔のことですが、ある老信徒が「老いを生きるとは新しい経験をして生きることです」と語られたことが忘れられません。人は老いを初めて経験し、老いを経験しつつ生きることを実感します。

 老いの日々は聖書に親しみ、聖書の言葉を黙想するのにふさわしい時期です。老いの日々は「終わり」を意識する日々であり、黙想するのにふさわしい聖書の言葉がいくつもあります。コリントの信徒への手紙一13章12~13節をこれからしばらく黙想するつもりです。

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

 顔と顔を合わせるようにはっきりと神を、神の国を見る希望が語られています。

説教の裏事情

 朝、定期検診で病院に行く前、ピンポンとインターフォンが鳴りました。画面には孫の顔が見えました。娘が双子の赤ちゃんを自転車に乗せて届け物をしてくれました。二人ともヘルメットをかぶっています。先日東京の池袋での車の暴走によって自転車に乗っていた母子の命が奪われました。娘が自転車で帰った後、二人を失った遺族の男性の記者会見を思い出しました。神さまが彼に生きる力を与えてくださるようにと祈りました。

 病院に行くのは血圧の定期検診です。いつも通りで問題はありませんでした。医師から血管年齢を測ってみませんかと言われました。テレビの健康番組などでよく聞く言葉ですね。それで測りました。結果は年相応とのこと。安心をしました。

 運動が大事と思わされ、午後はカメラを持って散歩。そして説教の準備。

 以前ドイツのトゥルナイゼン牧師の『御手に頼りて』という説教集を読みました。内容は葬儀説教集です。その説教で取り上げられている聖句を順次黙想したいと思っていて、テモテ二1章10節を取り上げました。

今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。

 この聖句を思いめぐらしてだいぶ日が過ぎました。でも黙想が広がらないのです。深まらないのです。「不滅の命」と言われても、手がかりがないのです。それでイースタの次の日曜日に説教奉仕があるので、思い切って説教テキストにしました。黙想が広がならないのに説教に取り上げて大丈夫なのという内心の声はありました。でもきっと導かれると信じました。そして今週説教の準備をしました。幸いに聖霊なる神さまの導きを受けることができました。明日説教原稿を書きます。感謝です。

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緑がきれい

 

終わりの時の祈り

 今日はルカ福音書23章44~49節を読みました。イエス様が十字架で亡くなる場面です。イエス様は亡くなる直前、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈られました。

 私は聖書を読む時、読んだ箇所の理解を心がけると同時に、その箇所で神はいかなる方として描かれているのか、神が私たちに願う生き方が書かれているかに留意します。神を信じる者として、神がいかなる方かを知ることは重要です。神がいかなる方かを知らずして神を信じるなんて、おかしな話しです。また信仰に生きる者として、神がどのような生き方を私たちに望んでおられるかを読み取ることも大切だと考えています。

 今日は、イエス様の亡くなる直前の言葉に注目しました。これを模範にしたいと思いました。私も亡くなる時、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈ることができたらいいなと思いました。それで<この祈りを祈ることができるように>との祈りを日々の祈りに追加することにしました。この祈りを心がける、それは私にとってはイエス様に従う歩みの一つと考えています。

 ずっと昔のことです。年配の教会員Yさんが入院しました。私が見舞いに行った時、彼はベッドに寝たまま手を合わせ、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信じます」と大きな声で信仰を告白しました。それを聞いた時は驚きましたが、Yさんなりの死を迎える準備だったのかも知れない、と今思い出します。

 今日は午後スパイスカレーを作りました。週末から息子家族が奈良にきます。娘の子どもたちも楽しみにしています。そこでカレーを12人分作りました。量が多いので下ごしらえに時間がかかりましたが、「おいしくできたね」と妻が言ってくれたので安心しました。土曜まで冷蔵庫で保存します。

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春日大社の境内で コミヤマスミレ

金沢にいた時は、東京の高尾山まで、このスミレの写真を撮りに行こうかと思ったのです。今は、歩いて15分のところで写真が撮れます。それなりに珍しいスミレです。

イースタの喜び

 一昨日はイースタ礼拝でした。この日の説教テキストをどこにしたらいいのかと悩みました。イースタですから福音書の復活記事を説教テキストにすればいいのですが、ためらいを感じました。安易な感じがしたからです。自分にとってイースタの喜びは何なのか、明確にしたい、それをわきまえないといけないと思ったのです。

 そしてしばらく思いめぐらしました。私にとってのイースタの喜び、それは勝利のひびきを聞くこと、だと思いました。イースタの喜びとは、勝利を告げるラッパのひびきを聞きながら生きることにあると思いました。実際、その思いで私は生きているなと思いました。

 次は聖書箇所です。このようなイースタの喜びを告げる聖書箇所があるのかどうか、祈って探しましたが、見つかりませんでした。しかしある晩、歯を磨いていたら、聖句が思い浮かびました。そうだ、ここだ。神さまがこの箇所を説教しなさいと言ってくださったように思いました。それはコリントの信徒への手紙15章50~56節です。死と罪に対する勝利を語る箇所です。この箇所こそ、私のイースタの喜びを適切に語っている箇所です。

「死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか」。
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。


 死と罪に対する勝利のラッパのひびきを聞きながら、勝利しながら生きる、それが信仰者の歩みであることを宣べ伝えたいと思いました。こちらのサイトで説教を聞くことができます。時間のある時、聞いてください。

隠退牧師holalaの説教

 

 

 

優秀な家計簿ソフト

 牧師を引退して2年が過ぎました。家事にも関わるようになり、生活しているという実感が湧いてきました。年金生活に入りましたので家計簿をつけることにしました。私はパソコン大好き人間ですから、家計簿ソフトを使います。とても優秀です。いつでも正確に集計してくれます。牧師になる前、私はコンピュータのプログラムを作る仕事をしていましたので、家計簿ソフトがうまく作られていると感心しました。

 家計簿ソフトを使う第一の目的は支出の管理です。何にお金を使ったかを記録します。財布にいくら残っているかは気にしません。何に使ったかを正確に記録するようにしています。4月になり、3月にネットで購入したものの銀行の引き落としも終わり、一年の決算をソフトが集計してくれました。

 家計簿をつけるには支出を項目に分類することが必要ですが、必ず支出するものと支出をコントロールできるものに分類しています。外食をしたり、書籍などは、教養娯楽費に分類します。これはある主婦の家計簿の付け方をテレビで見て参考にしました。昨年一年間は赤字となりましたので、教養娯楽費の支出を見て、どの出費を抑えるかを考えました。

 牧師として現役であった時、長老会のつど会計報告がありましたし、年度末には決算をし、また予算を立てましたが、会計担当の長老に任せっきりでした。でも今はしっかり管理して、生活できることをうれしく思っています。ささやかな達成感を感じています。本の買いすぎ、これが昨年の問題点でした。

 以下のパウロの言葉は、一つの目標です。

わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。(フィリピの信徒への手紙4章11~12節)。