クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

孫たちとの食事で

 週に何回か、孫たちと夕食を共にしています。奈良の娘には4人子どもがいます。小学生が2人、双子の幼児。横浜にいる長男夫婦は公務員で出勤しているので長男の娘を奈良であずかっています。2人の小学生と長男の娘たちと共に夕食をわが家で週に2~3回共にしています。新型コロナの感染がなければ、孫たちとの食事はありませんでした。

 得がたい機会としての食事。普通なら聞くことのない、私たち夫婦のことを話しています。一回目は、私たちの結婚の経緯。二回目は、私が妻の長所を、妻が私の長所を孫たちに語りました。興味深そうに聞いてくれます。

 食事の前には祈りをしています。我々夫婦の信仰について何かを伝えたいと思っています。何を証ししたらよいかと考えています。身近な人の話は印象に残ると思います。
 先日ヨハネ福音書の21章を読みました。イエス様がペトロに私の小羊を飼いなさいと命じていました。それを読んだとき、孫たちに信仰の証しをしたいと思いました。そして食事をする機会が与えられました。

 私が子どもの頃周囲にクリスチャンはいませんでした。子どもの私は死の恐怖に悩みました。相談する大人が周りにいませんでした。生きる意味も分かりませんでした。色々悩みました。答えを探してもなかなか見つかりませんでした。孫たちがどんな道を歩むのかわかりませんが、神さまが共にいてくださるなら、どんな問題が起きても生きていけることを伝えたいと思います。信仰によって解決した悩みの話しは、参考になると思います。

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街路樹のハナミズキ

 

罪人の再生の始まり(13)アイデンティティーの確認(聖なる者)

 「聖なる者」が何を意味しているのかを知るためには、旧約聖書を見なければなりません。旧約聖書では「聖別」という言葉が、「聖なるものとする」という意味で使われています。創世記2章を見てみます。

創世記2:1~3
天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。 

  神さまは六日間で世界を造り、第七日には安息なさったこと、そしてこの日を聖別されたとあります。これに関連してモーセの十戒の中に安息日に関する戒めがあります。

出エジプト記20:8(新共同訳)
安息日を心に留め、これを聖別せよ。

出エジプト記20:8(新改訳聖書)
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

 七日目は、聖別されて特別の日になったのです。他の日とは区別された特別な日とされたのです。申命記5章にも十戒が書かれています。

申命記5:12~14
安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。 

  聖別された日、人はこの日には働くことをやめ休息します。仕事をやめて休息しなければならない日なのです。神は休息を命じられました。安息日は他の六日間とは区別された特別な日です。聖別されるとは、他のものとは区別されて「特別なもの」になるとの意味です。後に安息日は神を礼拝する日となりました。

 次に出エジプト記を見ます。イスラエルの人たちはエジプトで奴隷として苦しんでいました。神はイスラエルの民を解放し自由にするためにエジプトにおいて不思議な業、大いなる業を繰り返し行いました。そして最後の大いなる業に関連して、イスラエルの人たちにお命じになりました。

出エジプト記12:1~14
エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。
「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。
『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。・・・・これが主の過越である。
 その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。

 そして

出エジプト記13:2
すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。 

  イスラエルの民は、一歳の雄の小羊を殺し、その血を鴨居に塗りました。そのおかげでイスラエルの人たちの家の初子は神に撃たれるのをまぬがれました。そこで神は、イスラエルの人々の間で初めに胎を開くもの、それは人間であれ、家畜であれ、神のものだと主張されたのです。すべての初子は、他の生まれてくる子と区別されて神のものなのです。神に献げるのです。

 つまり聖別されるとは、他のものと区別され、神のものになるという意味になります。クリスチャンが聖なる者であるということは、クリスチャンはこの世にいる他の人々とは区別されて、神のものである、ということです。さらに言い換えるなら、クリスチャンは、神との交わりに生きる者であり、神との交わりに生きるように、そのために世の他の人々とは区別された特別な人であるということです。(つづく)

 

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ミヤマハコベ 春になると出会います。滝坂の道で

 

罪人の再生の始まり(12)アイデンティティーの確認(聖なる者)

エフェソ1:4~5
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです

 ここにはクリスチャンのアイデンティティーとして、「聖なる者」「神の子」が示されています。今回は「聖なる者」について考えます。

 「聖なる者」と聞くと私たちの心にある何らかのイメージがわいてきます。ですから「あなたは聖なる者ですよ」と言われると、「とんでもない」との答えが返ってきます。「聖人」「聖者」という言葉があり、これらは特別な人を指しています。広辞苑によると「聖者」は、「修行を積んだ信仰者、特にキリスト教で偉大な殉教者や信徒の尊称とあり、聖徒」と記されています。同じく「聖人」は「ローマカトリックで、信仰と徳の点で特に秀でた人に対し、教会が与える称号。聖徒」とあります。

 口語訳の新約聖書では、手紙の宛先人が「聖徒」と呼ばれています。

エフェソ1:1
神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。

新共同訳聖書では

神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。

 エフェソ教会の信仰者は私たちと同じような普通の平凡な信仰者です。その信仰者が「聖なる者」と呼ばれているのです。エフェソ教会は「聖者」や「聖人」からなる教会ではありません。私たちには「聖人」「聖者」のイメージがあり。これに引きずられて、私たち信仰者が「聖なる者」「聖徒」と言われると戸惑い、これを受け入れるのに困難を覚えます。「いやあ、私が聖なる者なんで恐れ多い、私は俗っぽい人間なんで」という言葉が出てきそうです。しかも聖書を読むとクリスチャンの生き方に関する教えが書かれています。たとえば

エフェソ 4:30~31
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

 こういう教えを聖書で読んだりすると、これらの教えを守るのはむずかしいなあと思ってしまいます。こういう点からも、自分が聖なる者だなんてとんでもないと思ってしまいます。そして「私なんか聖なる者になれないし、なれるわけがない」と考えがちです。しかし私たちは聖書によって生きる信仰者、クリスチャンです。聖書は何と言っているのでしょうか。

エフェソ1:4~5
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

コロサイ1:21~22
あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

ヘブル10:10
この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。 

  聖書は明らかにクリスチャンは「聖なる者で」であると教えています。聖書が告げる「聖なる者」とはどういう意味なのでしょうか。(つづく)。

 

 

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タチツボスミレ 滝坂の道にて

 

罪人の再生に始まり(11)アイデンティティーに向き合うとき

 クリスチャンのアイデンティティーに向き合うことができるのは、それなりの期間信仰生活を送ってきた人ではないかと思います。信仰生活に入って間もない人は「クリスチャンとはこういう人のことをいうんです」と言われてもピンとこないと思います。

 日本の国ではクリスチャンは少数派です。家族全員クリスチャンという人は少ないと思います。自分一人だけクリスチャンという場合、家族から冷たい言葉を浴びせられることもあるかもしれません。「それでもクリスチャン」。そして信仰者の口から「私がこんなクリスチャンだから家族に伝道できません」という言葉を聞くこともあります。

 この国ではクリスチャンは少ないとはいえ、人々はクリスチャンに対する何らかのイメージを持っていて、クリスチャンを見ます。クリスチャン自身も、クリスチャンとはどういう人なのかイメージを持っており、そのイメージに照らし合わせて自分を見たりします。

 クリスチャンの「自己像」(セルフイメージ)が低いと、その人の周囲の人たちはクリスチャンになりたいとは思わないと思います。クリスチャンになりたいと思わせるものがないからです。逆にセルフイメージが高いと、何となく高ぶっている、偉そうにしているように見えたりして、やはり人々を信仰に引きつけることが難しかったりします。

 信仰に入って礼拝生活をし、説教を聞く、聖書を読む生活をして行く中で、私たちはセルフイメージをつくっていきます。それが健全であればいいのですが、そうでないとクリスチャンであることを喜べない、そんなことが起きてきます。

 そんな時、そんな人に、クリスチャンのアイデンティティーを考えて欲しいと思います。向き合って欲しいと思います。きっとクリスチャンのアイデンティティーを福音として受けとめることができるのではないかと思います。

 私自身長い信仰生活、牧師生活をして、クリスチャンのアイデンティティーにたどり着き、自分を受けとめることができて平安を与えられました。そして喜んで牧師の働きをすることができました。自分を誇ることなく、自分を卑しめることなく、生きることができるようになりました。

コロサイ1:21~23
あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。

 

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コミヤマスミレ 春日山遊歩道で

 

明日を導かれる神

 新型コロナ感染は教会にも大きな影響を与えています。インターネットを利用した礼拝中継を行い、人々が礼拝に集まることを抑制している教会も多くあるように感じます。そんな中で親しい牧師たちから、神さまの導きを見る思いがしたという話を聞き、うれしく思いました。神さまは私たちを導かれる神です。

 神さまの導き、ということで思い出すのはアブラハムです。彼はある日、神の呼びかけを聞くのです。

創世記12:1
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。

 アブラハムは、神が示す地に向かう旅を始め、彼の新たな歩みが始まりました。神の導きを受け入れ、それに従い、彼は新しい人生を歩みました。彼は神の民イスラエル民族の祖先となりました。神の導きを受けて歩んだ人物にモーセがいます。彼は羊を連れて荒野に行きましたが、そこで神の導きを受けます。

出エジプト3:7~10
主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。

 モーセは神に選ばれ、イスラエルの民をエジプトから連れ出す働きへと神から呼びかけられ、その呼びかけに応えて歩みました。彼もまた神の導きを受け、新たな人生を歩んだのです。イスラエルの王ダビデは、ペリシテ人との戦いをしました。彼は戦いのつど、どのように戦ったらよいのか神に導きを求め、勝利をしました。いつも神の導きに従って戦い勝利しました。連戦連勝の歩みをしたのです。

サムエル記下5章17~19節
ペリシテ人は、ダビデが油を注がれてイスラエルの王になったことを聞いた。すべてのペリシテ人が、ダビデの命をねらって攻め上って来た。ダビデはこれを聞いて要害に下った。やって来たペリシテ人はレファイムの谷に陣を広げた。ダビデは主に託宣を求めた。「ペリシテ人に向かって攻め上るべきでしょうか。彼らをこの手にお渡しくださるでしょうか」。主はダビデに答えられた。「攻め上れ。必ずペリシテ人をあなたの手に渡す」。

サムエル記下5章22~25節
ペリシテ人は再び攻め上り、レファイムの谷に陣を広げた。ダビデが主に託宣を求めると、次のように答えられた。「攻め上らず、背後に回れ。バルサムの茂みの反対側から敵に向かえ。茂み越しに行軍の音を聞いたら、攻めかかれ。主がペリシテの陣営を討つために、お前に先んじて出陣されるのだ」。ダビデは主の命じられたとおりに行動し、ゲバからゲゼルに至るまで、ペリシテ人を討ち滅ぼした。

 私もまた、神さまの導きをいただき、その導きに従って歩みたいと願っています。私は教会員の方が、過去を振り返ると神さまに導かれてきたことを思う、と語られるのを何度も聞きました。それは感謝なことです。でも私は、私の明日を導く神の導きを受け取って明日を歩みたいのです。

 私の信仰告白があります。

  • 神さまは私を愛しておられます。
  • 神さまは、私のことをよくご存じです。
  • 神さまは、私のために最善の人生を備えてくださっています。

 神さまは私を導き、最善の人生を歩ませてくださいます。私は神さまの導きを受け取ることができると信じています。聖書を読み思いめぐらす中で、導きを受け取ることができると信じて今日まで生きてきました。最善の人生を導いてくださっていると信じて今、老いを生きています。

『御言葉に生きるための提案』サイトでは、どのように導きを受けているのかを紹介しています。

 

 

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ニワゼキショウ 散歩道にて

 

罪人の再生に始まり(10)福音としてのアイデンティティー

 クリスチャンのアイデンティティー、それはクリスチャンがいかなる存在であるかを示しています。言い換えれば、このアイデンティティーは福音として受けとめることができます。クリスチャンは

  • 神の子である
  • 罪と死から解放されている
  • 新しく生まれている
  • 聖霊がうちに住んでおられる
  • 義とされている
    などなど

 自分をどう見るか、それを「自己像」と呼ぶことにします。まず自分が自分をどう見るかという「自己像」(セルフイメージ)があります。自己肯定感の弱い人がいます。つまり自分を肯定的に見ることができないのです。自尊感情が弱いのです。私自身、牧師としての働きをする中で、自分の足りなさを覚えることが多く、自己肯定感がほとんどなかったことを思います。ありのままの自分を喜ぶことができないのです。どうしたら自己肯定感を持てるのか悩みました。私は、神さまは私がいかなる者かご存じの上で福音宣教者に召してくださったと信じることにより、あるいは、神さまは一人ひとりの人間を個性ある者として誕生させたと学び、ぎりぎり自分を受け入れることができました。でも自分の存在を喜ぶことはできませんでした。足りなさ、不十分さを覚えるからです。

 次に他者が私を見る「自己像」があります。自分は他者にどう見えるのか。他者は自分をどう見ているのか。他者の目に映る「自己像」です。人の目を気にする人は多いと思います。そして人は自分をよく見せようとします。よく見せることができることに満足を覚える人がいるかもしれません。でもそれははかない満足です。自分は牧師としてよくやっていると周囲の人が認めたとしても、自分が自分を見る「自己像」が問題です。自己肯定感がなければ、人の目にどのように見えたとしても意味がありません。人からの誉れは一時の満足でしかありません。

 自己肯定感を持つことのできる人は、それでよいのでしょうか。私は自分はこれでよいとの肯定感を持てなかったので何とも言えませんが、自分の力に基づく肯定感は、危ういのではないかと思います。聖書に登場する律法学者やファリサイ派の人々は自己肯定感をもった人の典型です。

 神さまの目に映る自分、神がご覧になる私、「自己像」はどうなのでしょうか。

ガラテヤ3:26~27
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 

  神さまがご覧になる私たちは、キリストを着ている私たちです。そして福音は信じる者すべてに救いをもたらす力であり、クリスチャンをキリストが似合う信仰者になるように成長させます。

 

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ボタン? シャクヤク?

 

死に備える

 長女の夫が牧会している教会の教会報が送られてきました。なかなか充実した内容でうれしく感じました。その中に目に留まる文章がありました。それは宗教改革者のマルチン・ルターの文章です。

「人は生きているあいだに、死の想念についての訓練をなし、死がいまだ遠くにあり、さし迫ってこないうちにこれをわが前に呼び出して眺めるべきである」。

 これを読んで、私は訓練どころか、いつも死を考えて生きてきたな、と思いました。私のような人間がどれほどいるのか分かりませんが、少数派であると思っていました。でもルターの文章を読んで、私は人間として健康的な努力をしてきたんだと思いました。

 死と向き合う中でいかに生きるかを考え、さらに信仰に導かれました。自分の思いをこえて福音を宣べ伝える者にされました。神さまに生かされてきたことをあらためて思いました。そして老いを生きるとは、死に備えることでもあると自覚しながら今を生きています。
 出典について調べたら、これは彼の『死への準備についての説教』の中の言葉でした。以前読んだことがありましたが、先の引用文は読み過ごしていました。また読み返し始めました。最初の部分だけ紹介します。

 ルターは、死への準備としてまず3つのことを掲げています。

  • 私たちは世を去ることになるので財産の相続で遺族のあいだに争いが起こらないように処置をしておくべきだと教えています。
  • 次に自分を傷つけてきた人たちを赦し、自分が人を傷つけてきたことについては、赦しを求め、霊的な重荷を精算しておくように教えます。
  • そしてその後は、神のみを目あてとして生きるべきことを教えます。死に臨んだ時には、人が母の狭い胎内から産道を経て広いこの世に生まれ出るように、死後なお大きな世界と喜びがあることを知っていなければならないと書いています。

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ハナミズキの街路樹 散歩道にて