クリスチャンのアイデンティティー、それはクリスチャンがいかなる存在であるかを示しています。言い換えれば、このアイデンティティーは福音として受けとめることができます。クリスチャンは
- 神の子である
- 罪と死から解放されている
- 新しく生まれている
- 聖霊がうちに住んでおられる
- 義とされている
などなど
自分をどう見るか、それを「自己像」と呼ぶことにします。まず自分が自分をどう見るかという「自己像」(セルフイメージ)があります。自己肯定感の弱い人がいます。つまり自分を肯定的に見ることができないのです。自尊感情が弱いのです。私自身、牧師としての働きをする中で、自分の足りなさを覚えることが多く、自己肯定感がほとんどなかったことを思います。ありのままの自分を喜ぶことができないのです。どうしたら自己肯定感を持てるのか悩みました。私は、神さまは私がいかなる者かご存じの上で福音宣教者に召してくださったと信じることにより、あるいは、神さまは一人ひとりの人間を個性ある者として誕生させたと学び、ぎりぎり自分を受け入れることができました。でも自分の存在を喜ぶことはできませんでした。足りなさ、不十分さを覚えるからです。
次に他者が私を見る「自己像」があります。自分は他者にどう見えるのか。他者は自分をどう見ているのか。他者の目に映る「自己像」です。人の目を気にする人は多いと思います。そして人は自分をよく見せようとします。よく見せることができることに満足を覚える人がいるかもしれません。でもそれははかない満足です。自分は牧師としてよくやっていると周囲の人が認めたとしても、自分が自分を見る「自己像」が問題です。自己肯定感がなければ、人の目にどのように見えたとしても意味がありません。人からの誉れは一時の満足でしかありません。
自己肯定感を持つことのできる人は、それでよいのでしょうか。私は自分はこれでよいとの肯定感を持てなかったので何とも言えませんが、自分の力に基づく肯定感は、危ういのではないかと思います。聖書に登場する律法学者やファリサイ派の人々は自己肯定感をもった人の典型です。
神さまの目に映る自分、神がご覧になる私、「自己像」はどうなのでしょうか。
ガラテヤ3:26~27
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
神さまがご覧になる私たちは、キリストを着ている私たちです。そして福音は信じる者すべてに救いをもたらす力であり、クリスチャンをキリストが似合う信仰者になるように成長させます。