ローマ 1:16
わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
福音は信じる者すべてに救いをもたらす力です。救いとは何か、神学的に語ることができますが、私の経験に沿って話します。私が最初に求めた救いは、死の恐れと空しさからの救いでした。人から誘われ私は教会の礼拝に通うようになりました。3年ほど通った頃でしょうか、自分の罪を思い知らされ、神の裁きに直面した思いがしました。自分は裁かれても仕方がない、神の裁きとしての死を迎えたとしても仕方がないと思いました。その時、キリストによる罪の赦しへ導かれました。間もなく洗礼を受けクリスチャンになりました。30歳前後のことです。
罪が赦される、それは救いです。神のさばきからの救いです。さらに信仰者として歩み始めると、自分の問題がはっきりしてきます。思い煩い、恐れや不安、愛の薄さ、平安の欠如、自分の至らなさからくる劣等感、自己中心性など。自分自身をこれでよし、と受け入れることができません。生きる目的さえよく分からないでいました。
自分が本当に救われたと思ったのは、信仰者のアイデンティティーを知ってからでした。神の前に自分は何者なのかを知ったことです。そして信仰者ですから、神と共に歩むようにしました。その時、心の奥底に静かな平安が宿りました。海の表面がどんなに荒れていても海の底は静かなように、そのように不動で静かな平安が与えられました。そして生きる意味、目的も与えられ、私は救われました。
第一に現実のありのままの自分を受け入れることができるようになりました。第二に、信仰者のアイデンティティーに生きる幸いを知るようになりました。ここに救いがあります。生きることが喜びとなりました。幸福を手に入れました。
神の子、これはクリスチャンのアイデンティティーの一つです。自分が神の子とされていることを喜び、神の子として生きるのです。クリスチャンは、新しく生まれた者です。新しく生まれた者であることを喜び、新しく生まれた者として生きていきます。クリスチャンは神の前に義とされました。これを喜び義とされた者として生きていきます。私はこのクリスチャンのアイデンティティーを喜んでいます。
私には、クリスチャンだからこうしなければならないという発想はありません。そのような発想は捨てました。むしろクリスチャンだから、このように生きていきたいとの思いで生きるようになりました。そのように神さまはわたしを導いてくださいました。私の心に住んで下さっている聖霊によって、私の心は新たにされたのです。私は自由にされました。
罪に傾く心を神さまはひとつひとつ正してくださいました。神さまは私の物の見方を変え、心を変え、行動を変えて下さいました。その結果、私はキリスト者として成長する歩みを歩む者とされました。福音には信じる者を変え、成長させる力があります。この福音を喜びます。私は福音を恥としません。