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隠退牧師 holala によるブログ

ゲッセマネの園のイエス

 今日はキリストの受難日。マルコ福音書のゲッセマネの場面を読み思いめぐらしました。

 イエスは「わたしは死ぬばかりに悲しい」と語られます。悲しみのあまり死んでしまいそうだとのお言葉。何を悲しまれたのか。そしてイエスは、ひどく恐れてもだえ始めたとあります。主イエスの身に何が起きているのでしょうか。そして「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られました。さらに「この杯をわたしから取りのけて下さい」と祈りました。

 杯は何を意味しているのでしょうか。旧約聖書が参考になります。エレミヤ書にこう書かれています。

エレミヤ49:10
主はこう言われる。「わたしの怒りの杯を、飲まなくてもよい者すら飲まされるのに、お前が罰を受けずに済むだろうか。そうはいかない。必ず罰せられ、必ず飲まねばならない。

イザヤ51:17
目覚めよ、目覚めよ/立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み/よろめかす大杯を飲み干した都よ。

 杯は神の怒りを意味しています。杯を飲むとは神の怒りを飲むこと、神の怒りを自分の身に受けることを意味します。イエス様は既に、この杯を自分が飲むべきことを知っていました。イエスは弟子たちにこう語りました。

マタイ20:22
「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。

 イエスは差し迫った自分の死が神の怒りを身に受けることを知っていました。人間の罪を償うために、イエス様は十字架上で神の怒りを身に負うのです。それがどのようなことなのか、それをイエス様がすべて知っているわけではありません。人類のすべての罪に対する神の怒りを身に受けることがどれほどのことか分かっていたわけではありません。それゆえ、恐れもだえたのだと思います。そして「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られました。十字架の上で亡くなれば、苦しみの時は終わります。十字架の上でイエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と祈られました。全人類の罪に対する神の裁きを受ける、それは神に見捨てられるという経験だったのです。これがどんなに恐ろしいことなのか、私には十分分かりません。神に見捨てられることがどのようなことなのか、イエスは味わわれたのです。

 今回私が注目したのは、「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」とのイエス様の祈りです。イエス様は既に弟子たちに3回、御自分が苦しみを受けて死ぬこと、その後復活することを語られました。十字架の上で亡くなれば、苦しみは終わります。そして復活の時が訪れるのです。復活の時が来るからと言って、十字架の上で何が起きても平気ということではありません。イエス様は神に見捨てられるというとてつもなく恐ろしい経験をなさったのです。イエス様は御自分のために「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られました。ご自分の死に直面してのイエス様の祈りです。

 それで思います。自分が死に直面するとき、いくら復活することを信じていたとしてもやはり不安になるのではないかと思います。それゆえ、私たちも「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈ることができるのではないかと思います。イエス様は「あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブル4:15)。

 ある本を読んでいたら、「病床にある信徒を見舞いに行ったら、その信徒は主の祈りを祈り、使徒信条を告白していた」という文章に出会いました。私自身も似た経験をしました。お年寄りの教会員を見舞ったとき「私は天地の創造主なる神を信じます。・・・」と祈られたのです。その方は残念ながら肺炎を起こし召されました。死を前にした不安に祈りや信仰によって向き合う、いいなと思いました。

 言うまでもありませんが、主イエスがこのような苦しみを味わわれたからには、救いの恵みが何であるのか、私たちは聖書からしっかりと知る必要があると思います。福音を罪の赦しに限定する理解は、福音に対する誤解と言ってもよいと思います。

 

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散歩道にて