クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャンの成長(18)聖霊を内に宿して生きる-9

 ガラテヤ書には、霊の結ぶ実、言い換えると聖霊によって結ぶ実が紹介されています。

ガラテヤ5:22~23
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

 霊の結ぶ実は愛である、とあります。聖霊が私たちに働きかける結果として実が結びます。その実として愛があるというのです。言い換えると私たちが愛することのできる人とされ、実際に神を愛し、人を愛する人になっていく、それが聖霊の結ぶ実と言われていると考えます。実(み)は私たち自身なのです。

 愛することは人間の努力、神の助けのない人間の努力、生まれながらの人間の持つ力としての努力ではできません。自分を愛するように隣人を愛そうとするとき、自分の愛の薄さ、愛のなさに多くのクリスチャンは気づくと思います。他者よりも自分を愛する気持ちが人間には強いのです。

 しかし聖霊により私たちは愛する人へと変えられていき、愛する人として成長していきます。神さまは、私たちに愛する訓練を与えるために、家族を与えてくださいます。共に生きる人を与えてくださいます。身近な関係の中にあるのでエゴ(自分を主張する心)が出やすく、容易に対立が生まれ、争いが生じます。「愛しなさい」との神さまの命令を真剣に受け取るとき、エゴとの戦いが起きます。

 その時、人は問われるのです。あなたは本当に神さまに従い、人を愛したいのか。エゴに打ち勝ちたいのか、と問われます。その時、「わたしは本当に神さまにお従いしたいです。愛する力を与えてください」と祈って一歩踏み出すのです。すると聖霊が力を与えてくださり、他者を愛することができるようにしてくださいます。この積み重ねによって私たちは愛する人として成長を続けます。

f:id:holala:20200710204838j:plain

散歩道にて

 

 

 

三途の川?

 私は今、youtube で英語の讃美歌を聞きながら歌うのを楽しみにしています。日本語の讃美歌を原詩で歌うのです。英語の讃美歌を聞いていて思うことが二つあります。

 一つは、讃美歌を日本語に訳した方の苦労です。訳すとき、それを音符に当てはまるように訳さなければなりません。英語の詩を日本語に訳せばすむわけではありません。英語の詩を訳すと文字数で言うと日本語では倍以上になるので、少ない文字数で原詩の意味を伝えるのはかなりむずかしいです。ですから原詩の内容をいかに伝えるのか、苦労があったことを思います。

 二つ目は、原詩で読むとやはり味わいが深いと感じます。私が特に求めているのは、死を越える希望に関わる言葉です。死そして希望をイメージできるからです。今、聞いているのは、讃美歌294番です。

みめぐみゆたけき 主の手にひかれて
この世の旅路を あゆむぞうれしき 

 という礼拝でもよく歌われる讃美歌です。これを英語の歌詞で歌うことに今はまっています。そして4番が特に気に入っています。まず讃美歌294の4番の歌詞を紹介します。

世の旅はてなば 死のかわなみをも
恐れず越えゆかん みたすけたのみて 

 英語ではこうです。

And when my task on earth is done,
When by Thy grace the vict'ry's won,
E'en death's cold wave I will not flee,
Since God through Jordan leadeth me. 

この世(地上)での私の務めが終わるとき、
あなたの恵みによって勝利が得られるとき、
死の冷たい波さえも私は逃げることをしない。
神は私を導き、ヨルダン川を渡らせてくださるから 

  「世の旅はてなば」。日本語では8文字。英語では「この世での私の務めが終わるとき」。私の訳では18文字。18文字の内容を8文字にするのは至難のわざです。訳詞者の苦労が思わされます。英語の「この世での私の務めが終わるとき」。ここには死についてのイメージがあります。「務めをまっとうする」というイメージです。神さまから与えられた務めを果たして地上の旅を終えるというイメージを抱くことができます。こういうイメージ、いいな、と思うのです。

 「死のかわなみを恐れず越えゆかん」。面白いと思ったのは、死んで向こうへ行くには川を越えるという発想です。ジョン・バニヤンの「天路歴程」でも、最後に川を泳いで渡り神の国に入ることになっています。「死のかわなみを越える」。日本的なイメージでは、三途の川を渡るということになるかもしれません。英語の讃美歌はヨルダン川を渡るです。エジプトを脱出したイスラエルの民が、神の助けを受けてヨルダン川を渡り約束の地に入ったことを思い起こさせます。そして私たちも神に導かれヨルダン川をわたって約束の地、神の国に入ると歌われています。私たちは三途の川ではなく、ヨルダン川を渡るのです。

f:id:holala:20200709213045j:plain

休憩中? 散歩道で

 

 

 

クリスチャンの成長(17)聖霊を内に宿して生きる-8

 私が聖書を読み、神のご意志を知ろうとするのには理由があります。神さまは目的をもって私たちを造られたからです。神を信じるなら、その目的を知り、その目的に向かって生きるのが自然だと思います。

 聖書が教えていることを身につけ、自分の身に起こることに対して自由自在に対処できたとしても、私たちが造られた目的に向かって自由自在に生きることはできないと思います。日常生活の中で私たちがその目的に向かうためには神の導きを必要とします。神さまは導かれる、そう私は信じ、聖書を読み思いめぐらす中で神さまの導きを聞き取ります。神の御心を知っておられる聖霊が私にそれを教えてくださいます。

(1)私たちが造られた目的

エフェソ1:4~6
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。

テサロニケ一5:23~24
どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。

 神さまは、私たちを聖なる者、汚れのない者、神の子にするというご計画を持っておられるのです。そして私たちは聖なる者、汚れのない者、神の子として日々の生活を送るのが神の御心です。そのために新約聖書には色々な戒めが書かれています。これらの戒めは、単にクリスチャンが守るべき戒めなのではなく、神の子として、聖なる者、汚れのない者として生きるためのものなのです。そして私たちは聖なる者として御国に迎えられるのです。

(2)クリスチャンの努力

 私たちは神の戒めを守って初めて、聖なる者、汚れのない者、神の子になるのではありません。もしそうだとすると、いくら努力しても罪のゆえに聖なる者になれないという敗北感がいつもつきまとうことになります。私は罪深い者であるとの思いから抜け出ることができなくなります。

 洗礼を受けた時点で、クリスチャンは、すべての罪を赦され、神の前に聖なる者、汚れのない者、神の子とされたのです。だから聖なる者、汚れのない者、神の子としてさらに成長していくのです。神さまが造られた目的に向かって進むのです。ここには一歩前進する喜びがあります。たとい罪を犯すことがあっても、罪を悔い改め、赦しを受け取ることができます。そして再び聖なる者、神の子としての歩みを始めます。

 聖なる者、神の子はクリスチャンのアイデンティティーです。このアイデンティティーに生きるために聖書を読み、自分に対する神さまのご意志、御心を聞き取りそれに従います。

(3)恵みとしての神の教え

 神さまの教えは恵みの教えです。私たちがいかに振る舞うべきかを教えてくれます。クリスチャンはクリスチャンでない人と同じ生活をします。子どもとして生き、夫婦として生き、親として生きます。結婚しない人や子どもを持たずに親として生きることのできない人はいます。人はそれぞれの仕方で他者との関わりの中で生きていきます。その時、神の教えに従うことによって、クリスチャンは世の人とは区別されます。クリスチャンの歩みには世の人の歩みと違うことが生じてきます。このような区別に生き、クリスチャンは聖なる者として歩み、父なる神の教えに従う神の子として歩むことになります。

 神の御心を知るには、それを求めるという人間の側の努力が必要であり、祈りが必要です。そして聖霊の導きとして恵みとして神のみ心を知らされます。この導きに従って歩み、私たちは聖なる者、汚れのない者、神の子として前進・成長していきます。ここに信仰者の祝福があると私は信じています。そしていつの日か、「よくやった」との神さまの言葉を聞き、御国に迎えられます。

f:id:holala:20200708182312j:plain

道しるべ 必要です

 

クリスチャンの成長(16)聖霊なる神を内に宿して生きる-7

 聖霊は、み言葉を通して神のご意志を教えてくださる神です。

 日本基督教団には、信仰告白があります。その信仰告白の中で、聖書は「信仰と生活との誤りなき規範なり」との文があります。聖書が信仰と生活の規範であるとはどういう意味なのか、それを近藤勝彦氏が『わたしたちの信仰~日本基督教団信仰告白解説』(鳥居坂教会文庫)のなかで解説しています。

  • 「聖書から私たちがどう生きたらよいかという非常に細かな指示まで逐一教えられるかというと、私はそうは思いません」。
  • 「どんなことにも対応する中心的な姿勢というものが、聖書によって与えられる。それが信仰ということなのです」。
  • 「本当に聖書によって信仰を養われ、自由自在に判断ができるようになれば、我々の生活はすべて聖書的な生活になるということなのです。わたしたちのなす判断の中心姿勢が聖書によって形作られる。そういう生き方、それが規範だと言っていることなのです」。

 これを私の言葉で言い換えてみます。信仰者は聖書を神の言葉と信じます。信仰者はこの神の言葉、聖書を土台として自分のものの見方、考え方を築きます。そしてどのような事柄に直面しても、いかに生きるべきか、いかに処するかを判断して生きていきます。それが信仰というものです。そして信仰者に指針を与える聖書は、信仰と生活との誤りなき規範です。

 私には、この近藤氏の考えに異論はありません。共感します。多くのクリスチャンがこのように生きることができることを願います。しかし物足りなさを感じるのです。

 「自由自在に判断ができるようになれば」とあります。どのような事態に直面しても、聖書に基づき、信仰的に対処していくことができるなら、これは素晴らしいことです。しかし、ではどこで、神さまの導きを聞くことができるのか、ということです。神さまが私をどこへ導こうとされているのか、それをどこで聞くのか、ということです。

使徒言行録13章の最初を読みます。

13:1~3
アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」。そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。

 聖霊はバルナバとサウロを選び、伝道旅行に出発させたのです。このような神のご意志を私たちはどこで聞くのでしょうか。人生を一変させるような神のご意志を知ることは滅多にないかもしれません。しかし、私たちの平凡な生活の中で、平凡な導きを神さまが与えられるとしたら、それをどこで聞くことができるのでしょうか。どのようにしたら知ることができるのでしょうか。

 近藤氏が語るように、私たちの日常の問題に対して、具体的にこうすればよい、とは聖書には書いていません。だから近藤氏が語るように聖書に養われていれば、自由自在に判断ができるわけです。

 しかし私は思うのです。私たちは案外聖書に相談しないで物事を判断して生きているのではないでしょうか。日常の出来事なら、それですませて問題を感じません。しかし私たちの平凡な日常生活の中に神さまの導きがあるとするなら、立ち止まる必要があるのではないでしょうか。つまり聖書を読みます。聖書を読んで思いめぐらし、今自分のおかれている状況や、自分の気持ちや自分が考えていることなどを振り返り、神さまのご意志、導きが何かと考えるのです。

 もし礼拝説教を聞いて、神さまが自分に語りかけてくださったと受けとめ、神の導きを感じ、その導きに従ったとします。それと同じことが日々聖書を読むときに起きると考えても不思議ではないと思いますし、それを期待するから聖書を読むことは勧められることだと思います。お務めとして日々聖書を読むのは、自己満足をもたらすだけで、そんなに意味はありません。

 私たちが当たり前のこととして当たり前に行っていることの中に、実は神さまが導こうとしていることがあると私は考えています。 

 聖霊の導きを祈り求めて聖書を思いめぐらしていくとき、神さまのご意志と思われるものが示されます。示されたことが神のご意志であることは証明できません。しかし私たちは信仰者なので信じて従います。

 ふと思いました。クリスチャンだって結構悩み事があるじゃないか。聖書を読んで思いめぐらせば、神さまは導きを与えてくださるのではないか、そう思います。聖書に相談しないから、ぐるぐる色んな思いが頭の中を駆け巡り、悩むわけですね。

 神さまのご意志、導きを聞いて生きる、ここにさいわいな信仰生活があると私は信じています。(続く)

 

f:id:holala:20200707205516j:plain

トンボは何を考えている? 散歩道で

 

クリスチャンの成長(15)聖霊を内に宿して生きる-6

 聖書を通して聖霊が与える導き、それはささやかな導きかもしれませんが、私たちの人生を変える導きです。

使徒言行録16:6~10
さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。
その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。

 パウロは福音を宣べ伝えるために伝道旅行をしていました。使徒言行録16章を読むと、パウロの伝道計画が神によって中断されたことが分かります。アジア州でみ言葉を語ることが聖霊により禁じられ、次にビティニアに入ろうとしたらイエスの霊がそれを許しませんでした。その夜パウロは幻を見て、マケドニアに行くこととしました。トロアスは今のトルコの町であり、マケドニアはギリシャの町です。ここからヨーロッパ伝道が始まります。

 パウロには伝道計画がありましたが、神さまはその計画を中断させ、パウロをヨーロッパ伝道へと導いたのです。

 パウロの計画を聖霊が禁じ、イエスの霊がそれを許さずとあり、具体的に何が起きたのかはよく分かりません。そしてパウロは幻を見て、マケドニアに行くこととしました。私たちは自分の計画が聖霊やイエスの霊によって禁じられ、幻で何をすべきか示されるというようなことはほとんど経験しないと思います。

 静岡県の教会で牧会していたとき、私は金沢元町教会が無牧で後任の牧師を求めているがどう思うか、と電話を受けました。それは、会堂建築を終え、献堂式を迎える直前の時でした。会堂建築を終えたばかりで教会を辞任するなんてありえないと思いました。でもすぐに断りませんでした。神さまの御心はどうなのか、と思ったからです。そんなある日、私は上に引用した使徒言行録を読みました。「助けを求めている人がいるのだ」と考え、転任することにしました。

 転任するか否か、神の御心はどこにあるのか、祈っていました。神のみ心を知ることができることを願い、パッと適当に聖書を開き、そこに何が書かれているかを参考にする、というようなことはしませんでした。くじを引くようにして神の御心を求めるために聖書を利用することはしませんでした。ただ、いつものように聖書を開き、思いめぐらす日々を過ごしていたとき、上の使徒言行録に出会ったのです。神さまは導かれるのです。時に、思いがけない導きを、予想もしなかったような導きを与えることもあります。

 私は積極的に神さまのご意志を知るために聖書を読み思いめぐらします。自分のような平凡な人間を神さまが導くなんて信じられない、という考えは捨てます。神さまが私を愛しておられるなら、私を導かれるのです。私はそう信じます。そして神さまの具体的な導きは、私たちの人生を劇的に変えるようなこともあるでしょう。しかし多くは、小さな導きといってよいと思います。私たちの平凡な人生を少しだけ変えるような導きです。聖書を思いめぐらす中で神さまが与える導きは、平凡な生活における平凡な生活の変化をもたらす導きです。

 先日テサロニケの手紙一の1章を読んでいました。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」(1:5)。これを読み思いめぐらしました。パウロは、力と、聖霊と、強い確信をもって福音を宣べ伝えたとあります。パウロは自分が語る福音に生きていた。福音が真に福音だと確信をしていた。だから強い確信をもって力強く福音を宣べ伝えることができた。そしてそれは聖霊の導きに他ならないと私は思いました。そこで私は神さまの導きを受け取りました。

 私は自分と関係のある、また関係のあった牧師たちが福音を語ることができるようにと祈っています。この聖書箇所を読んで祈り方を変えることにしました。「説教者が、自分が語る福音に生き、確信をもって力強く御言葉を宣べ伝えることができるように」と祈ることにしました。これを私は神の導きと受けとめました。

 祈りにおける小さな変化です。でも私の祈りは変わります。神さまの導きは、案外平凡なささやかな導きです。しかし神さまの導きは、私の人生を最善なものへと導く導きです。聖書を通して聖霊が与えてくださる導きは、ささやかなものですが、私たちを変え、私たちの人生を変えていきます。 

讃美歌294
みめぐみゆたけき 主の手にひかれて
この世の旅路を あゆむぞうれしき
たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ
みあとをゆくこそ こよなきさちなれ

 聖書を読み、思いめぐらし、ささやかな神さまの導きを受けて生きる幸い、喜びを見事に讃美歌294は歌っています。

 

f:id:holala:20200706211619j:plain

ウツボ草? 散歩道

 

 

 

 

 

 

クリスチャンの成長(14)聖霊を内に宿して生きる-5

詩編119:105
あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。

 聖霊の導きを信じて聖書を読むとは、自分に対する神さまのご意志を聴き取ることだと私は考えています。私には個人的な信仰告白があります。

  • 神さまは、私を愛しておられます。
  • 神さまは、私のことをよくご存じです。
  • 神さまは、私のために最善の人生を備えてくださっています。

 最善の人生とは、私が考え願う最善の人生ではありません。神さまが備えてくださる最善の人生です。もしかしたらそれは、私にとって好ましくないように思えるかもしれません。たといそうであっても、神さまは最善の人生を導いてくださり、私はそれを感謝し、神さまをたたえることができると信じています。そして人生の終わりには、神さまが導いてくださった最善の人生を感謝したいと願っています。

 私は神さまのご意志を受け取るために聖書を読みます。聖書は神の言葉で真理の言葉です。神さまの導きは色々な仕方で現れると思いますが、聖書による導きは確実に受け取ることができる導きです。私の内におられる聖霊が私の心に働きかけ、私が聖書を読むとき、神の導きを受け取ることができるようにしてくださると信じています。

コリント二2:11
神の霊以外に神のことを知る者はいません。

 聖書が指し示す神さまのご意志に従う、ここに信仰生活の一番の基本があると私は考えています。神さまのご意志の第一は、私たちがイエス・キリストを信じ救いに入れられることです。第二は、神さまがイエス・キリストを通して私たちに与えてくださる救いの恵みをすべて受け取ることです。第三は、私を救ってくださる神さまの恵みに感謝し、神さまに仕え、神さまの御用に用いられて生きること、と私は考えています。

 最後に、自分に都合のいいように神さまのご意志を解釈することのないように、聖書の学びは必要だと思います。

 

f:id:holala:20200704203919j:plain

ネジバナ 散歩道

 

クリスチャンの成長(13)聖霊を内に宿して生きる-4

 礼拝の最後の祝祷で「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」と牧師が宣言します。聖霊の交わりがあるようにとの祝福です。どんな祝福を私たちは期待できるのでしょうか。 

(1)聖霊の働きとは

 聖霊は神です。その神が私たちのうちに住んで下さいます。聖霊は私たちに働きかけます。確実に期待できる聖霊の働き、それは私たちが聖書を読むときに受ける聖霊の導きです。聖霊は、聖書が神の言葉であることを教えてくれる神です。そして私たちが神の言葉によって生きるように導いてくださる神です。この聖霊の働きを私たちは求め、聖霊の働きかけを受けることができます。ここに聖霊の交わりの一つの形があります。

(2)聖霊の働きを受けるための用意

 この聖霊の働きを受けるためには、私たちの側に用意が必要です。それは聖書を読み、聖書によって生きていきたいとの願いです。聖霊は私たちの意志を無視して、私たちを勝手に導くことはなさいません。み言葉に従って生きるという従順な思いが必要です。その願いを祈りで言い表します。

 「聖書が神の言葉であることを信じます。また信じさせてください」。聖書が神の言葉であることはいったん信じたらその後もその信仰に立ち続けることができるとは限りません。場合によっては私たちの心に疑いが生じたりします。ですから「信じます」と信仰告白をし、また「信じさせて下さい」と祈ります。聖書に親しむ生活を続ける中で、聖書を神の言葉と信じる信仰が少しずつ確かなものとされていきます。

「聖書を通して神さまの導きを受けることができるように導いてください」。

(3)聖書を思いめぐらす

 聖書を毎日読むことはよいことです。計画的に読むことは賢明だと思います。大切なことは「今日は聖書を読んだ」と読んだことに満足することではありません。聖書を読み、信仰者の務めを果たしたと満足するのは自己満足でしかありません。

 読んだ箇所を思いめぐらすことです。そして神の導きを受け取ることです。私たちは神の導きを祈り求めて聖書を読みます。神は私たちに答え、導きを与えてくださいます。そしたらその導きに従います。これが聖霊の導きです。この導きを受けるには、慣れというか、訓練が必要です。ですから続けることが大切だと思います。

 私たちが礼拝で説教を聞くときも、神さまはこのように私に語りかけてくださったと感じるときがあると思います。それと同じことが聖書を読む時にも起きるのです。

(4)私の場合

 私自身は、週に3~4回聖書を読みます。一時間ぐらいかけて聖書を思いめぐらします。私は思いめぐらしたことをノートに書きます。書きながら思いめぐらします。そして聖書が語っていることと自分の状況を付き合わせ、この聖書の箇所から神さまは私に何を語りかけてくださっているのかと祈りつつ思いめぐらします。

(5)神の導きと信じる

 神さまの語りかけが直接聞こえてくるわけではありません。しかし聖書を思いめぐらし、自分の状況を思うとき、こうすることがいいのではないか、という思いが与えられます。私はそれを神の導き、聖霊の導きと信じます。そしてその導きに従います。

(6)励ましを与える聖句

 イエス様が悪魔の誘惑を受けたときに語られた言葉を紹介します。

マタイ4:4
人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。

 この場合の「生きる」はどう意味でしょうか。人それぞれの受けとめがあると思います。私自身は、聖書を読み、思いめぐらし、神さまの導きを受けることは、私には欠かすことができません。これなしには、私は自分が信仰者として生きることはできないと考えています。聖書を読まなければ私は世の人と同じになってしまい、信仰者でなくなります。

イエス様はマタイ福音書の山上の説教でこう語られました。

マタイ 7:24~27
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」。

ヤコブ 2:14
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。

 聖書を通して与えられる導きに生きることの大切さを聖書は語っています。聖書の言葉によって生きる、これは神さまが与えてくださる祝福です。私たちがどんな状況におかれても与えられる神さまの祝福です。聖霊は聖書を通して、御言葉によって生きるように私たちを導いてくださる神です。

 

前回へ 次回へ

f:id:holala:20200703204330j:plain

ムラサキシジミ 滝坂の道にて