クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

挑戦・チャレンジ

 私は今三つのことに挑戦しています。常にチャレンジできる、うれしいことだと思います。70歳を超えていますが。

1.ペン回し

 ボールペンを手で持ち、指をクイッと動かしてペンをぐるりと回転させるあのペン回しです。上手な人のペン回しを見ていると神わざに思えます。自分もできたらいいなと思っていました。でも不器用な自分にはむずかしそうに思えたので、やろうとは思っていませんでした。しかしある時、ペン回し用のペンを購入し、チャレンジしました。

 しばらくやりましたがうまく行かず、やっぱり自分は不器用で無理だと思いました。でもまたやってみてやっぱりダメだと思うことを繰り返しました。 youtube でペン回しの動画を見て、何度も見て、挑戦を続けました。そしてついに基本的なノーマルというわざができるようになりました。今はソニックというわざに挑戦しています。

 あらためて挑戦することの大切さを教えられました。不可能だと決めつけたとき、不可能になることを知りました。

2.ブログ

 このブログを書き続けるという挑戦です。月曜から金曜まで、週5回書くという挑戦です。自分としては「福音の証人」「キリストの証人」としてクリスチャンを元気づける文章を書き続けたいと願っています。私自身クリスチャンとして歩むときにもがいたことを聖書的にとらえ直し、迷いの中にあるクリスチャンに励ましを与え、元気を与えたいと願っています。

 これまでの歩みを振り返ってよく書き続けることができるなと思いましたし、神さまが書かせてくださったという思いがあります。感謝です。

3.キリスト者としての成熟

 三番目の挑戦はキリスト者としての成熟です。これは基本的に死ぬまで続けます。聖書の言葉で言えば、キリストに似た者になるという挑戦です。聖なる者になるという挑戦です。

ヨハネの手紙一 3:1~3
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

フィリピ 3:21
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

 本国である天に迎えられるときにキリストの体と同じ形に変えられるという希望があります。楽しみです。

 

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田園風景 散歩道

 

クリスチャンの成長(22)聖霊を内に宿して生きる-13

 ガラテヤ書には、霊の結ぶ実、言い換えると聖霊によって結ぶ実が紹介されています。

ガラテヤ5:22~23
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

 聖霊の実としてあげられている「寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」はいずれも「愛する」ことの具体的な現れと考えることができると思います。そして愛する行為には、これらの項目が同時に重なることもよくあると思います。親切な行為の背後には善意がありますし、誠実な振る舞いは節制につながることもあります。

 親切以下の項目で私が心がけているのは「誠実」です。神さまに対して、そして他者に対して誠実に振る舞うことです。関わりを持つ人に対して誠実に振る舞うことを大切にしています。自分も、相手の人から誠実に振る舞ってもらえればうれしいです。

 自分がどれほどできているかは気にしません。むしろ誠実という姿勢を保つことを心がけます。そして聖書を読み自分の姿勢を吟味します。聖書を読まなければ、結局、成り行きにまかせる歩みになります。

 聖書には神さまの色々な戒めが書かれています。それらの多くは要するに愛することです。愛するといっても、行動は多岐にわたります。相手を赦すことがあり、相手の行動をよしと受け入れること(寛容)があり、相手に助けの手を伸べる(善意、親切)ことがあり、相手を敬うことがあり、相手を励ましたり慰めたり、思いを一つにするなどいろいろです。ですから聖書を読み、具体的な戒めを読む時に、自分はどうなのか、批判的に自分を振り返ります。

 聖書の教えを身につければ必要なときに必要な行動がとれるとは私は考えません。それは少々うぬぼれになると考えます。私たちは案外忙しく、自分のことで精一杯で他者を顧みる時間や余裕は少ないものです。ですから聖書を読みつつ自分を振り返り、具体的な振る舞いを考えます。こうした行動を積み重ねていけばよいと私は考えています。

 ちなみに私は自分のディボーションをサイトにアップしています。「御言葉に生きるための提案」サイトです。ある時から、毎週月曜にアップすることに決めました。そうすれば、サイトを訪れる人は、自分の都合のよいときにサイトを見ることができます。サイトに行ったけどまだ更新されていなかったという空振りを与えないで済みます。ある意味で親切となります。毎週必ずということになれば、そこには誠実さ、節制も要求されます。

 親切以下の実については、自分にとって取り組みやすいものを中心にしたらよいのではないかと思います。私の場合は「誠実」でした。

 急がず焦らず、ぼちぼちとでいいので着実に歩んでいきたいです。

 

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梅雨の合間の青空 散歩道

 

クリスチャンの成長(21)聖霊を内に宿して生きる-12

 ガラテヤ書には、霊の結ぶ実、言い換えると聖霊によって結ぶ実が紹介されています。

ガラテヤ5:22~23
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

 聖霊の実の4番目は「寛容」です。寛容とは、広い心を持つことと私は考えています。

1.新聖書大事典の説明

 寛容は寛大、慈悲、根気、忍耐であって、争いに対する平和、怒りに対する平静、性急に対する節制である。

2.寛容は神の性質

 神の性質で思い起こすのは、神がご自身のことをモーセに語った言葉です。

出エジプト記 34:6
「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」。

 憐れみ深い、恵みに富む、忍耐強い、慈しみと真実(まこと)に満ちていると神が御自分のことを紹介しています。そして寛容、これもまた神の性質です。

ロマ 2:4
あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。

 人は神に似せて造られたので、神の性質を身につけていて自然です。しかし人間は罪を犯し、神の性質を失いました。そこで人はキリストを信じ、生まれ変わり、新しい人となって、神の性質を回復してきます。神は聖なる方なので、神の性質を回復することは私たちが聖なる者になることにつながります。

3.私にとっての寛容

 人はだれでも重荷を負っています。あるいは心の傷を負っています。これらが人の行動に影響を与えます。ですから相手の行動の背後に何があるのか、それを思う心を寛容と私は考え、心がけています。

 相手の行動が不愉快であったとき、すぐに反発したりするのではなく、それが相手の重荷、心の傷から出ていることを思い、思いやる心を持って相手に接する、それが私にとっての寛容です。相手の存在の背後にあるものを思いやる広い心・寛大な心、それが私にとっての寛容です。

 反発的に怒ることなく、責めることなく、忍耐する心、相手を赦す心が生まれます。

 

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ネジバナ 散歩道

 

日曜の出来事

 日曜日、礼拝から帰宅したらポストに封筒が入っていました。駐車場にとめておいた私の車に、傷をつけたこと、私が留守していたので、連絡がほしい、と電話番号が書いてありました。彼が自分の車をバックしたときに接触したのです。

 どうしたものか、と思案しました。ブログに聖霊の実について書いていましたので、聖霊の実として、寛容、親切、善意とあるのが、頭にちらつきました。傷は5cmx5cmのものでした。車には、私自身の下手な運転のせいで、細かい傷はいくつかあるのです。いちいち修理していません。正直、何としても弁償してもらわなければとの強い思いはありません。

 電話して、在宅している旨を告げ、来てもらうことにしました。想像していたとおり彼は、私と同じアパートに住んでいる人の友人でした。謝罪の言葉と弁償する用意のある旨、彼は語りました。私の返事は、あらかじめ妻にも了解はとっておきましたが、次の通りです。

  • 正直に傷をつけたことを話してくださり、謝罪されたこと
  • 私の車には小さなきずがいくつかあるので、何としても修理しなければならない、という気持ちはないこと。
  • 修理のために車屋さんに行くことがおっくうなこと

 以上を告げて、話し合いをおしまいにしました。私は彼のミスを咎めないことにしたのです。私は寛容で親切で善意のある態度をとったのか、お人好しなのか、ただの面倒くさがり屋なのか、どうなのでしょう?

 

 

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奈良にはいちじくが多いらしい 散歩道

 

 

新型コロナに対する覚悟

 東京、大阪、大都市で新型コロナの完成がじわじわっと広がっています。この拡大に対して、政府から明確な対処方針を聞くことができず、今後の推移に対して不安を抱く人も多いことと思います。方針がなく、事態の推移に流されるなら、なるようにしかならず、どんな結果になるのか不安です。すでに第一波で外国のすさまじい状況を私たちは目にしました。そのようなことが日本でも起こったら、と思うと、考えるだけでも恐ろしいです。

 地方では、感染者が少ないとは言え、徐々に増えてきています。奈良でもこの数日間感染者が発表されています。

 「高齢者が感染すると重症化する恐れが」という言葉を何度も聞くと、この「恐れ」が自分の心に住み込んでしまいそうです。そこで万が一感染した場合の覚悟を決めておくことは大切だと思いました。

 一昨日の礼拝でダニエル書3章の言葉が読まれました。信仰者として共感を覚えることが書かれています。バビロンの王ネブカドネツァルが金の像を造り、これを拝むように全国民に布告を出しました。三人のユダヤ人はこれを拒みました。彼らが拝んでいないという知らせが王の耳に届くと王は彼らに言います

ダニエル3:15
もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。

すると三人のユダヤ人、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは言うのです。

ダニエル3:17~18
わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。

 「そうでなくとも」。コロナにかかっても神の癒やしを私は信じます。たといそうでなくとも、つまり癒やされなかったとしても、その時は神の御国に召されることになります。死んでも御国に迎えられます。いつの日か、死は必ず私を訪れます。私たち信仰者の希望は神の国にあります。癒やしの希望と御国への希望。治療においていたずらに死を恐れず、不安に支配されず、希望に立ち、神の平和に生きていくつもりです。

 

 あと一つ、健康な生活をして免疫力を高める努力をすること。

 

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オシロイバナ 懐かしい花

 

クリスチャンの成長(20)聖霊を内に宿して生きる-11

  ガラテヤ書には、霊の結ぶ実、言い換えると聖霊によって結ぶ実が紹介されています。

ガラテヤ5:22~23
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

 聖霊の実は「平和」とあります。これは心が平和な状態にあることを意味します。私たちの心は、心配、不安、思い煩い、恐れなどに支配され、「平和」を得ることが困難なのが現実ではないでしょうか。しかし聖霊の実として「平和」が与えられます。

ローマ 5:1
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。

 聖書には「神との間に平和を得」ることが語られています。神との間の平和が得られる、それが私たちの「平和」の源泉です。この平和が得られるとき、苦難をも誇りとするというのです。この平和とはどういう平和なのでしょうか。問題が何もないから平和なのでしょうか。苦難をも誇るというのですから、苦難の中にあっても平和があるということですし、その苦難を喜びさえするというのです。

 「信仰によって義とされ」ることにより、神との間に平和を得ているとあります。つまり私たちの側には罪という問題があるのです。そしてイエス・キリストの十字架の死により罪のあがないがなされ、イエス・キリストを信じる者は罪を赦され、神との間に平和を得るというのです。

 罪とは、神を認めないことです。神を信じないことです。自分は何でもできると思い上がり、何でも自分の思い通りにしようとし、自分中心に生きることです。そして自分がしたことを誇りとすることです。自分を誇ることです。この通りにできる人は、自分を神のごとく思い、傲慢になります。

 普通は自分の思い通りにしようとしても自分の思い通りにならず、色々な悩みが生じます。自分よりもいい線を行っている人をみれば妬みが生じたり、悪口を言いたくなったり、焦ったりします。思い通りにできない自分を情けなく思ったり、劣等感を持ったり、あきらめの生活を送ったり、投げやりな生き方に走ったりします。神を認めない人の心にはさまざまな思いが湧いてきて、心は平安を失います。

 自分の罪を赦され、神との間に平和を得、神さまに信頼する歩みをするとき、平和が訪れます。神の御手の中で私たちは努力をし、結果を神にゆだねます。神が共におられる、神が導いてくださると信じる、その心に平和が宿ります。神との交わりに生きる人には、平和が恵みとして与えられるのです。平和と喜びは仲良しでいつも一緒に私たちのもとを訪れます。いつも喜んでいる人には平和があり、平和がある人は常に喜んでいるのです。

ロマ 8:6
肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。

 肉の思いとは、神を知らない人間の思いのことです。霊の思いとは、神さまの言葉を思いめぐらす信仰者の思いです。神の言葉を思いめぐらす心には平和が宿ります。

ロマ 14:17
神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。

 神の国、それは神の御支配を意味します。イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と宣べ伝えられました。あるいは「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)とも語られました。神さまはご自身の御支配の中を私たちを生かしてくださいます。そこに平和と喜びがあります。

 私たちの日々の生活の中で、様々なことが起き、私たちの心は色々な感情が湧いてきます。高齢の者には、新型コロナに感染したらどうなるのだろうか、といった不安がつきまといます。私たちの心にはいくつもの感情が交じり合います。いつも平静な心を保つことができるかと言われたら、そうでないのが現実だと思います。

 しかし不安があるからといって不信仰であると考える必要はありません。感情は湧いてくるのであって、湧いてくるのを抑えつけることはできません。問題は、湧いてきたらどうするか、です。

 私たちは信仰者です。神を信じ、神の導きにゆだねる、ここに立ちます。神は万事を益としてくださる、この信仰に立ちます。そして祈ります。そうすれば、湧いてきた感情に左右されず、支配されず、私たちの心を神の(与えてくださる)平和が支配します。

 

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六月末の夕方の空

 

クリスチャンの成長(19)聖霊を内に宿して生きる-10

 ガラテヤ書には、霊の結ぶ実、言い換えると聖霊によって結ぶ実が紹介されています。

ガラテヤ5:22~23
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

 霊の結ぶ実は「喜び」とあります。「喜び」について語っている聖句を紹介します。

フィリピ 4:4
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

テサロニケ一 5:16
いつも喜んでいなさい。

 「いつも喜んでいなさい」「常に喜びなさい」。両方とも命令です。常識的には、これは無茶な命令です。普通何かいいことがあるから喜ぶのであって、年がら年中いいことがあるわけではありません。だから上の聖書の命令は無理な命令に思えます。かつて私は一日の終わりに恵みを数えて喜ぼうと思いましたが、続きませんでした。無理がありました。

 聖書の命令を考える場合、何を喜ぶのかが問題です。何かいい「事」が起きたら喜ぶのであれば、聖書の命令は無茶であり、不可能です。いい「事」がいつも起こり続けるということはありえないからです。喜ぶのは「事」ではなく、「状態」です。

 たとえば、私はいつも神さまとの交わりの中に生きるようにしています。だからわたしはいつも喜んでいられるし、いつも喜んでいます。神さまとの交わりに生きているという「状態」を喜ぶことができます。これならいつも喜ぶことができます。

 信仰者は神さまとの交わりに生きている、だからいつも喜べるし、いつも喜びます。神さまとの交わりに生きる仕方は人それぞれだと思いますし、それでいいと思います。いつも喜んでいなさい、との命令に共感する方もおられると思います。

 私自身にとって神との交わりは、聖書を読み、思いめぐらし、私の歩みに対する神さまのご意志(導き)を聞きとってそれに従う歩みをすること、そして祈りです。聖書を思いめぐらすのはとても楽しいです。聖書は深いです。この生活をわたしは喜びます。

 とはいえ、つらいことや苦しいことが起きても喜べるのかという疑問はあると思います。つらいことや苦しいことは喜べないと思うし、喜ぶ必要はないと思います。自分の周りで何が起きようと、自分の身に何が起きようと、神さまとの交わりに生きているという事実(状態)に変わりはなく、このことを心喜ぶことはできます。

讃美歌520の歌詞を紹介します。

1.静けき河のきしべを
すぎゆくときにも
うきなやみの荒海を
わたりゆくおりにも

(繰り返し)
こころ安し、神によりて安し

2.むらがる仇(あだ)はたけりて
かこめどせむれど
いざなうものひしめきて
のぞみをくだくとも
(繰り返し)

  繰り返しの「こころ安し、神によりて安し」は
英語の歌詞では、

it is well with my soul
it is well it is well with my soul 

 私の魂にとって、問題なし、OK!
たくさんのクリスチャンがこの讃美歌を歌っています。

「いつも喜んでいなさい」との神さまの命令に対して「喜びます」と応答し、この讃美歌を歌う、それがクリスチャンなのだと思います。

 いつも喜べる、それは聖霊を働きを受けての結果、聖霊の実だと聖書は告げます。この喜びを与えてくださる神さまに感謝します。

 

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くちなしの白い花・・・  散歩道