クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

喜んで死ぬ

 どうしたら喜んで死ぬことができるのか、老いを生きる私のテーマの一つです。一つの答えは、死んだ後自分に何が起きるのかを知ることが大切だと考えるようになりました。

 使徒パウロは、死ねばキリストのもとへ自分は行き、キリストに会えることを大きな楽しみにしていました。この楽しみがあるので、今すぐこの世を去ってもいいし、去ることを熱望しているとさえ語りました(フィリピ1:23)。仕方なく死ぬのではなく、死の向こうには楽しみがある、いいですね。信仰者の特権といえるのではないかと思います。

1.キリストに会える

 主イエスに会うことができる、これはうれしいことだと思います。神の国には沢山の人がいて、一対一で顔と顔を合わせるようにして主に会うことができるかどうか、ちょっと心配になります。でも慈しみに富む主なので、私のもとに来て下さり、ひと言、声をかけてくださるのではないかと期待します。

2.栄光に満ちた者に変えられる

コリント一 15:51~52
わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

フィリピ 3:21
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

ヨハネ一3:2
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。

 神の国に迎えられるとき、神の国にふさわしい者に変えられるとあります。どんな風に変えられるのか、大いなる楽しみです。この世では決して見ることのできない、すばらしいものだと思います。

3.評価される歩み

 牧師も信徒もともに教会に仕え、信仰生活を送ります。キリストという土台の上に、どのような教会を立てるのか、課題となります。牧師は指導者として大きな責任を負います。どのような仕事をしたのか、終わりの日に明らかにされるとあります。自分の働きを神様がどのように評価して下さるのか、楽しみです。 

コリント一 3:10~15
わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。

 

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ダリア 馬見丘陵公園にて

 

罪の奴隷である人間

(クリスチャンの成長(51)キリストに結ばれて- 9)

ローマ 6:2
罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。

 この聖句は驚くべき内容を持っています。罪に対して死んだ私たちは、罪の中に生きることはできない、と明確に述べているからです。私たちはもう罪を犯して生きることはできないとの意味です。そこで「罪に対して死んだ」ということがどのような意味を持っているのかを今、探っています。以下の三点を聖書から確認しました。

  • ギリシャ人もユダヤ人もみな罪の下にあること
  • 罪の下にあるとは罪の領域・領土に生きていること
  • 罪は力であって、私たちが罪を犯すように働きかけること

 以上のことは、人間が罪の支配下に置かれ、罪の奴隷であることを語っています。罪という主人に仕え、罪を犯して生きているとの意味です。奴隷という言葉はきつい表現であり、自分にこの言葉を当てはめることにためらいを覚えるかもしれません。神さまの前に正直になることが大切だと思います。

 罪の奴隷とはどういうことなのでしょうか。

ガラテヤ 5:21
肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

 たとえば、上に掲げたような事柄に関わる罪をやめることができない状態、それが罪の奴隷ということです。

 私自身の経験から言うと、私は若いときタバコの奴隷でした。喫煙がからだによくないと知りながら、やめることができませんでした。やめたくてもやめられないのです。自分の力ではどうにもなりません。まさに奴隷です。

 劣等感にも悩みました。劣等感から解放されたいと願いました。どうしたらいいのかもがきました。自力で解決できません。劣等感の奴隷ということもできます。

 ある人は人を赦せないという思いに囚われています。これも奴隷状態です。心が自由になれないのですから。敵意、憎しみに囚われている人も多いのではないでしょうか。

 行動において、思いにおいて囚われている状態があるなら、それが好ましくなく解決したいと思いながら自分の力で解決できないのなら、それは罪の奴隷状態にあると言えます。そういえば聖書には、「死の恐怖のために一生涯、奴隷」という言葉もありました(ヘブル2:15)。これもまさしく罪がもたらすものです。

 私たちは、神を知る前は、罪を犯しながら生きていました。罪とは神の戒めに背き、神の心を重んじないことですから、人は神を知る前は、知らずして罪を犯しています。

 教会へ行き、また聖書を読むようになって、神の戒めを知るようになり、神がどのようなお方かをだんだんと知るようになります。すると自分が罪を犯していることを知るようになります。最初は頭で「私は罪を犯している」ことになるんだなと思います。やがていつの日か、「私って罪を犯していたんだ」と心から自覚するときが与えられます。それは洗礼を受ける前のこともあり、洗礼を受けた後のこともあると思います。

 やがて洗礼を受け、信仰者として歩もうとします。説教を聞き、聖書を読み、神さまの御心を知るにつけ、自分の罪を新たに知らされます。罪の赦しを受けることはできても、罪を克服できず、自分が罪の奴隷であることを知るようになります。自分の罪に悩みます。

 イエス・キリストの死は、罪を贖うための死でありました。でもそれだけではありません。<罪に対して死ぬ>死でした。ここから罪の奴隷からの解放というすばらしい救いが導かれるのです。

 

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数珠玉 なつかしいです 散歩道

 

信仰者の敵、悪しき力、勢力が存在している!

(クリスチャンの成長(50)キリストに結ばれて- 8)

 「罪」という言葉には色々な意味があります。聖書を読むと「罪」が擬人化されていて、人間に働きかけ人間に罪を犯させる「力」として描かれています。

 アダムとエバがエデンの園にある善悪の知識の木の実を食べてはいけないと神さまから命じられました。ある時蛇が登場し、エバに語りかけ、それをきっかけとして二人は禁じられた木の実を食べたことが聖書に書かれています(創世記3章)。

 蛇は人間に働きかけ罪を犯させる力を象徴しています。このような存在を聖書は悪魔とかサタンと言うことがあります。人間に罪を犯させようとする悪しき力、勢力が存在しています。パウロはそのような悪しき力として「罪」があることを語ります。

ローマ 7:15~17
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

 私は律法(神の戒め)を行いたいと願っているのに、実行できず逆のことを行っている。なぜそうなってしまうのか。それは私の中に働く罪のせいだというのです。深刻な事態です。

 神さまは人間を造る際、人間に自由をお与えになりました。ですから人は罪を犯すか犯さないか、選択できます。ですから罪を犯したのなら責任を問われます。神の裁きをいつの日か受けることになります。

 では人はまったく罪を犯さないでいることができるのでしょうか。どんな時でも罪を犯さない選択を人間はできるのかと言われたら、できないのです。残念ながら罪を犯さないでいることは人間にはできません。

 ある罪は犯さなくても、別の罪は犯してしまうという弱さが人間にはあります。罪を犯さない人間は一人もいません。罪というのは一種の「力」で人間に働きかけ、人間に罪を犯させるのです。

 こう考えれば罪は、信仰者の敵であることが分かります。罪が私に働きかけ、私は罪の力に屈し、罪を犯してしまうということがあるのです。「罪」は私たちに罪を犯すよう働きかける力であると知ることは大切です。

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コスモス 散歩道


 

 

クリスチャンはどこで生きるか

クリスチャンの成長(49)キリストに結ばれて- 7

 前回目に見えない二つの領域があると書きました。暗闇・サタンが支配する領域・領土、これは罪が支配する領域・領土と言い換えることができます。そして今ひとつは御子の支配する領域・神が支配する領域。そして私たちはこのどちらかに生きていると。

 こんなこと初めて聞いた、知らなかったという方もおられるかもしれません。本当なの?と思われる方もいるかもしれません。しかし聖書に書かれていることなのです。

 雨が降っているとき、私たちが傘をさしたとします。私たちの体は傘の中にあるので、雨にぬれません。また足もとの地面も雨にぬれません。しかし傘の外の地面はぬれています。傘の存在は、雨にぬれる場所とぬれない場所のあることを教えています。

 嵐が来て横殴りの雨が来たら、傘は役に立ちません。外がどんなに嵐でも、風が強く吹き雨が土砂降りでも、家の中は風からも雨からも守られています。家の外では嵐がひどくても、家の中は安全で穏やかです。家の外にいるか、中にいるかで状況は全く違います。嵐の領域と安全な領域があります。

 以上はたとえです。それと同じように、罪が支配する領域と御子・御父が支配する領域があると聖書は語ります。罪が支配する領域にいる人は恐れに捕らわれ、失敗すれば自分を責めたり、後悔したりします。明日がどうなるのか不安で思い煩います。しかし御子・御父が支配する領域にいる人は、自分を神にゆだね平安が与えられます。赦しを信じ、いたずらに自分を責めません。明日も神の御手にあると信じ、心は穏やかです。

 イエス様が公の活動を始められたとき、こう語られました。

マルコ 1:15
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

 神の国は、神の御支配を意味します。そしてイエス様は人々の病気を癒やし、悪霊につかれて苦しんでいる人々から悪霊を追い出し、人々を苦しみから自由にしました。つまり神の御支配をまざまざと人々にお見せになったのです。そして福音を信じ神の御支配の中を生きるように招かれたのです。

 信仰をもって生きるとは、罪が支配する領域から、御子・御父が支配する領域に移って生きることを意味します。キリスト者は、御子・御父が支配する領域で生きていきます。キリストに結ばれた信仰者は御子・御父が支配する領域に身を置き、この世の歩みをします。

 その昔、イスラエルの民はエジプトの国で奴隷生活をしていました。エジプトは奴隷の地でした。しかし神は彼らをエジプトから救い出し、約束の地に連れて行き、そこで民は、自由な民として生きました。神が連れて行くと約束された地、そこは自由に生きることができる地でした。救いとは、奴隷の地から約束の地、自由に生きる地へ移されることでした。

コロサイ 1:13
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

 私は、空しさと恐れに満ちていた罪の領域には、どんなにお金を積まれても戻るつもりはありません。

 

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ノウゼンカズラ  散歩道

 

私たちは罪の下にいた

クリスチャンの成長(48)キリストに結ばれて- 6

 私たちが「罪に対して死んだ」ことが何を意味するのかを理解するために、私たちと罪との関係を知ることが必要です。

ローマ 3:9
ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。

「罪の下(もと)にある」とはどういうことでしょうか。この世界には目には見えませんが、二つの領域・領土があります。二つの国と言ってもよいと思います。一つは罪が支配する領域、今ひとつは神、キリストが支配する領域です。この二つの領域のどちらかに人は生きています。そのことは聖書に書かれています。

コロサイ 1:13
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

使徒 26:17~18
わたし(イエス・キリスト)は、あなた(パウロ)をこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。 

  この二つの聖書箇所は、闇の力が支配する領域・サタンが支配する領域があり、他方で御子キリストが支配する領域・神がご支配する領域のあることを教えています。前者を罪が支配する領域ということができます。「罪の下にある」とは罪が支配する領域に生きていることを意味しています。

 「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」。ユダヤ人とは神の民イスラエルのことです。彼らは神から律法を与えられています。彼らは神の掟、神の戒めを知っています。ギリシャ人とは聖書が告げる神を知らないユダヤ人以外の人を指すといってよいと思います。別な言葉で言えば異邦人です。

 ユダヤ人たちは、ギリシャ人のことを神を知らずに罪を犯していると見なしていました。しかしユダヤ人たちは、ギリシャ人と同じことをしているとパウロは考えます。そこでパウロは、ユダヤ人もギリシャ人も罪の下にあると告げます。人は皆、罪の下にある、言い換えると罪の支配する領域に生きているとの意味です。

 聖書によれば、罪とは神の教えに背くことです。神の御心を重んじないことです。神を知らない者たちは、神の御心に関心を持たず、罪を犯していることに気づかずに平気で生きています。神は人間に良心を与えているので、神を知らない人でも悪しきことをすれば良心の呵責を覚えることはあります。しかし多くの人たちは自分が罪の下にあるとは考えず、むしろ自分は善良に生きていると考えています。

 ユダヤ人たちは神を信じ、神の掟、律法を与えられています。表面的に神の戒めを守っているように見えても、神のみ心に従う形で守ってはいません。ですからイエス様は彼らを偽善者と批判しました。パウロもユダヤ人たちはギリシャ人と同じことをしていると書いています。

ローマ 2:1
だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。 

  人は皆、罪の下にあります。言い換えると罪の支配する領域の中に生きています。それが聖書の見方です。多くの人はこのことに気づいていません。パウロは人は皆、罪の下にあり、罪の支配下にあると語るのです。

 

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ヘクソカズラ 気の毒な名前です。散歩道

 

クリスチャンは罪の中に生きることができない

クリスチャンの成長(47)キリストに結ばれて- 5

 何度も読んでいる聖書の言葉がある時、突然自己主張をするというか、聖書を読む私たちの目が釘付けになるというか、その聖書の言葉が私たちを捕らえて放さないということが、時々起きます。それが昨日起きました。昨日のブログでも引用した聖書箇所です。

ローマ 6:2
決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 

  パウロは5章20節で書きました。

5:20
律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。 

  私たちは信仰によって義とされる、恵みによって義とされるとパウロは教えました。すると恵みを受けるために罪を犯そうとパウロは教えているとの誤解が生じるかも知れません。このように非難されるかも知れないことに備え、パウロは「決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」と書いたのです。罪の中に生きることはできないから、恵みを得るために罪を犯そうなどという考えを持つはずがない、と主張したわけです。

 「どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」。罪の中に生きることはできないはずだ、との意味です。これは本当に重大な言葉です。パウロは、信仰者は罪の中に生きることができるはずがない、と語っています。つまり罪を犯して生きることはできるはずがないと断言しているのです。本当でしょうか。パウロはそう書き、それが聖書に記録されています。神の言葉として記録されています。

 「あなたは罪を犯すはずがない」と言われたら、どうでしょうか。「そんなことはありません。私は立派なクリスチャンではないし、時に罪を犯しています」と答えるかもしれません。しかしパウロは「罪の中に生きることはできないはずだ」というのです。非常に挑戦的な言葉です。

 この2節の言葉は、すべての信仰者に挑戦する言葉です。これまで何度もこの2節を読んできましたが、挑戦する言葉であることになかなか気づきませんでした。それはこのローマの信徒への手紙6章が理解しやすい箇所ではないことも影響していると思います。しかし私は気づきました。パウロは「罪を犯すはずがないでしょ」と私たちに語っています。そして私たちは「罪を犯すことは仕方のないこと」と考えてしまいます。パウロは書きました。

ローマ 1:16
わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

 福音は「救いをもたらす神の力」とパウロは書きます。福音が神の力なら、「罪を犯すことは仕方のないこと」という発言は出てきません。福音が神の力なら、「罪の中に生きることはできないはずだ」との言葉が生まれても当然と考えることができます。

 私たちが罪に死んだのなら、「罪の中に生きることはできない」のです。「罪に死んだ」とはどういうことなのでしょうか。

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早朝の奈良公園。向こうに見えるのは東大寺。

 

クリスチャンは罪に対して死んだ

クリスチャンの成長(46)キリストに結ばれて- 4

 クリスチャンはキリストに結ばれた存在です。

ローマ 6:3
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 

  私たちは洗礼を受け、キリストに結ばれ、キリスト者(クリスチャン)になりました。そしてキリストの死にあずかりました。言い換えると、キリスト者も死んだのです。

ローマ6:10
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたとパウロは語ります。キリストの死は私たちの罪の贖いのためです。それは私たちを信仰によって義とする目的がありますが、さらなる目的もあるのです。つまり私たちがキリストの死にあずかり、私たちも罪に対して死ぬのです。キリストを信じ、私たちも罪に対して死んだのです。

ローマ 6:1~2
では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 

  信仰によって恵みにより義とされる。これは大切な教え、大切なキリスト教の重要な教理です。するとある人は言うかも知れません。「恵みによって義とされるのなら、もっと罪を犯しもっと恵みを受け取ろう」と。パウロは罪を犯すようにそそのかしているとの誤解が生じる可能性があります。そこでパウロはキリスト者が罪の中にとどまるなんて考えられないと語ります。それが2節です。

罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。

 ここで疑問が生じます。「罪に対して死んだ」。どういうことでしょう。だれそれはいつ、どこで、どのようにして死んだとの表現は普通です。彼はその目的のために力を尽くし、力尽き果て死んだ、と死んだ目的が語られることもあります。しかし「~に対して死んだ」という表現は、ほとんど使われないと思います。「会社に対して死んだ」「妻に対して死んだ」「国家に対して死んだ」「民主主義に対して死んだ」。どれも意味が分かりにくいです。
 「罪に対して死んだ」も意味が分かりにくいです。この意味を理解するためには、パウロが罪についてどう語っているかを知る必要があります。たとえば

ローマ3:9
では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。 

  ここにはすべての人が罪の下にあると書かれています。さらに

ローマ 5:21
こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。

 ここには、罪が死によって人間を支配していた、と書かれています。

ローマ 6:7
死んだ者は、罪から解放されています。 

  人は罪の下にあり、罪に支配され、しかし罪から解放されるとパウロは書いています。これがどういうことなのか、聖書に聞いていきたいと思います。そして「罪に死んだ」がどういう意味なのか、理解したいと思います。

 キリストと結ばれて生きることを理解することは、救いの恵みの真の豊かさを受け取ることにつながります。

 

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春日大社への道 散歩道