クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

古い人、新しい人(続き)

(クリスチャンの成長(56)キリストに結ばれて- 14)

 イエス・キリストを信じてキリスト者になった人は、キリストに結ばれました。そしてキリストの死と復活にあずかり、キリストと共に死に、キリストと共に新しい命に生きる者とされました。これは神が私たちのうちに行われた出来事であり、まず信ずべきことでした。私たちの古い人が死に、新しい人が生きるようになりました。

 信じたことは、やがて経験できるようになります。まずキリスト者は礼拝に出席するようになります。キリストを信じる以前の古い人は礼拝に行くことはありませんでした。礼拝にも、神にも無関心でした。しかし今や、新しい人として礼拝に行くことを大切にする人になったのです。

 そればかりではありません。聖書を読むようになり、聖書を生きる拠り所とするようになりました。そして神に祈るようになりました。これらをなぜするのか、それは新しい人にされているからです。神に関心を持たない古い人は死んだのです。私たちが信仰者として生きている、それは私たちが新しい人になっているからです。

 そこで大切なことは、新しい人とされていることを喜び、新しい人として積極的に生きていくことです。礼拝に出席して神を礼拝することは、ある意味で習慣化します。すると信仰の行為としての礼拝が形式化し、外面的に礼拝をしているだけという状態になることがあります。信仰者として義務を果たしていると考えたりします。それはクリスチャンとして生きる幸いを見失っていることであり、残念なことです。

 どうすれば、新しい人とされていることを喜ぶことができるのでしょうか。これは聖霊の導きとしか言い様がありません。黙って座していれば聖霊の導きが与えられるというものでもありません。

 私が提案できることは、聖書を読み、そこから神さまの教え、導きを受け取って生きていくという提案です。神さまの御心に従って生きて行く努力をします。同時にそれができるように聖霊の導きを祈り求めます。聖書が伝える信仰は神さまとの交わりなので、これを喜ぶように導きを求めることが大切と考えます。私自身はこのようにして生きてきました。 

コリント一 1:9
神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

ヨハネ一1:3
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。

 御心に生きる証しとして、これまでに犯してきた罪はこれを二度と行わないように克服することも大切だと思います。

 神さまとの交わりに生きるようになれば、経験的に自分は新しい人として生きていることがわかりますし、証しをすることもできると思います。自分が古い人として生きていたときのことを思い出すことができるかもしれませんが、その古い人は、今の私の中にはいないことも分かります。古い人は自分の記憶の中にいるだけで、その記憶も薄れていくのではないでしょうか。

 さらに自分が罪から解放されていることも分かります。

f:id:holala:20201002185924j:plain

柳生街道にて

 

 

古い人、新しい人

 (クリスチャンの成長(55)キリストに結ばれて- 13)

ローマ 6:6
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 

 罪に勝利して生きることを考えるとき、罪から解放された者として生きることを考えるとき、考えるべき大切なことが二つあります。第一は、古い人と新しい人の理解。第二は、肉の性質です。今日は、第一を取り上げます。

 パウロは、古い自分はキリストと共に十字架につけられたと語ります。つまり古い自分は死んだということです。古い自分とはどんな自分のことを言うのでしょうか。

 これは生まれながらの人間、キリストを救い主と信じる前の人間を指します。これをアダムと結ばれた人間と呼ぶことにします。これはキリスト者がキリストに結ばれた人間であることと対照をなしています。

 創世記3章でアダムは罪を犯し、エデンの園から追放されました。アダムが罪を犯した物語は、人は皆、罪を犯す者であることを告げています。この世に生まれた人間はアダムに結ばれ、罪を犯す者となっているという理解です。

 「人はなぜ罪を犯すのか」と言われたら、「アダムに結ばれているから」というのが一つの答えです。昔の人はアダムの罪(原罪)が人類に遺伝しているから、と考えました。私は原罪の遺伝という考え方はとりません。むしろ「アダムは私のこと」だと考えます。もし私がアダムの立場だったら、私もやはり禁じられた木の実を食べ、罪を犯しただろうと思います。そのアダムに結ばれた人間、アダムに他ならない私、それが古い人間です。古い自分です。

 新しい人。それはキリストを信じ、洗礼を受け、キリストに結ばれたキリスト者のことです。人はキリストを信じることによって、古い自分が死に、新しい自分が生きることになるのです。

ローマ 6:4
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

 キリストを信じる以前の私、古い自分、古い人間は、キリストと共に死んだのです。そして新しい人間、新しい自分が生きることとなったのです。

 古い人間は罪に支配され、罪の奴隷となり、罪を犯して生きてきました。この世の人は、自分が罪に支配され、罪の奴隷になっていることを知らないし、気づいていません。

 古い人が死んだということは、罪の支配がなくなったということです。死んだ人間は罪の支配を受けません。死んだ人間は、もう動かないのです。

 人類に歴史の中で、奴隷制度がありました。奴隷の主人がおり、主人に支配された奴隷がいます。その奴隷が死亡すれば、彼はもはや奴隷ではありません。主人は彼をこき使うことはもはやできません。その奴隷は葬られ、主人との関係はなくなります。

 古い自分、古い人は、罪との関係がなくなりました。罪はもはや支配することができなくなりました。

エフェソ 4:20~24
しかしあなたがたは、キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

 ここには「古い人を脱ぎ捨て」とあります。あなたがたはキリストに結ばれたのだから、古い人は死んだのです。だから古い人のような生き方をしてはいけないとの教えです。新しい人を身につけるとは、新しい人になったのだから、新しい人として生きていきなさいとの意味です。

 この新しい人は、御子の支配下、恵みの支配下に生きているのです。

コロサイ 1:13
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

ローマ 6:14
なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。

 キリスト者は新しい人にされていて、その古い人は死んだこと、キリスト者は御子の支配下、恵みの支配下にいるということは信ずべき真理であり、経験で確かめて納得して信じるような事柄ではありません。

 

f:id:holala:20201001154916j:plain

ヒガンバナ 馬見丘陵公園にて

 

心の中はいつも戦場

 私たちが信仰者として歩もうとすれば、私たちの心は信仰の戦いの戦場になるのではないかと思います。つまり心の中には色んな思いや感情が湧いてきて、信仰者として生きようとすると心の葛藤、戦いが生じます。思わぬ感情が湧いてきて振り回されることもあります。そして思わぬ行動をして他者を言葉や行いで傷つけることがあります。そしてそんな自分を責めたり、自分を罪深いものと卑下したりすることもあります。誘惑も頻繁に襲ってきます。これと戦う必要もあります。

 私たちは信仰者なので、神の前に罪は犯さないようにしようと考え努力します。すると神に従うことへ抵抗する思いや、感情も湧いてくることもあります。み心に従えない自分を責めたり情けなく思ったり、自分の頑なさや弱さを覚えることもあります。

 聖書を読み、神様の御心を知るにつれ、また御心に従いたいと思うにつれ、それに逆らう心があることも知ります。

 いずれにせよ「私」は何らかの結論を出して行動します。「私」がどんな結論を出すのか、その「私」を観察する「私」もいます。「私」は人格を持っています。「私」は自分の心を観察することができるし、何らかの選択をし行動します。その行動は「私」の責任においてなされます。たとい衝動に駆られても、激情に振り回されても、行動の責任は「私」にあります。

 心はいつも戦場である「私」にキリストの福音が届きます。

f:id:holala:20200930224839j:plain

大柳生の里にて

 

真の神であり、真の人であるイエス

 一昨日の奈良高畑教会の礼拝で、説教題は「イエスは、真の神、真の人」でした。今説教で使徒信条を取り上げています。マリアが聖霊により身ごもったと書くルカ福音書をテキストにしています。週報で次週の説教についての予告がありますので、日曜日の朝、教会に歩いて行く道すがら、ハイデルベルク信仰問答風に「イエスが真の神、真の人であることはあなたにどのような慰め(益)をもたらしますか」という問いを自分に投げました。私は自分の心に答えを求めました。

 「イエスは真の神にして真の人」という文言は、ニケア信条という古代の信仰告白にある文言です。イエスは神にして人。キリスト教の異端は、イエスが神であることを否定するか、人であることを否定します。キリストの教会は、イエスが真の神であり、同時に真の人であると信じてきました。私はもちろん、この告白に同意します。

 私は自分の心に問いました。

 イエスは神として、神の言葉を語りました。人々はイエスの教えを聞いて、イエスが権威ある者のように語ったことに驚きました。イエスは神の言葉を語りました。イエスは人として、徹底して父なる神に従順に歩みました。人としてのイエスは、私にとっては模範です。そして神としてイエスが語る言葉は、私の拠り所となる真理の言葉です。

 この世に本当に信頼できる言葉がどこにあるのか、私は探しました。偉大な人間の言葉が人々に影響を与え、人々を導き、世の中を変えることもありました。時間の流れと共にそのような人間の言葉は忘れ去られていくことがあります。時を超え、真理として信じるに足る確かな言葉を私は求めていました。

 イエスとの出会い、それは求めていた確かな言葉との出会いでした。「イエスが真の神、真の人であることはあなたにどのような慰め(益)をもたらしますか」の問いに対する答えは、確かな真理の言葉を受け取ることができ、迷いなく生きることができるようになった、それが私の答えでした。

 今の私にとって、大切な聖句はいくつもありますが、ベストスリーを上げるとするなら次の聖句です。

ヨハネ 11:25
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。

ペトロ一1:24~25
「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」。

ヨハネ 14:6
「わたしは道であり、真理であり、命である」。

f:id:holala:20200929191537j:plain

??? 散歩道

神の御支配の中にあると考える

(クリスチャンの成長(54)キリストに結ばれて- 12)

ロマ 6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。 

  「考えなさい」。とても大切です。私たちは罪に対して死んだので、今や罪の支配する領域・領土にはいません。私たちは神の支配する領域・領土に移り住んだのです。私が聖書の「救いのモデル」と考える出エジプトの出来事は、示唆に満ちています。

 奴隷としての苦しみの中からイスラエルの民は神に助けを求めて叫びました。神は言います。

出エジプト記 3:7~8
わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。

 神はイスラエルの民をエジプト王の支配から救い出すこと、「広々としたすばらしい土地」つまり自由に生きることのできる地へ連れて行くと約束されました。

 神はエジプトの国で大いなるわざをいくつも行った結果、エジプトの王はイスラエルの民をエジプトから追い出します。イスラエルの民は解放されたのです。そしてイスラエルの民はエジプトを出て神が与えると言われた地を目指して旅を始めます。

 イスラエルの民は、エジプトの王の支配する領域・領土から出て、神の御支配の領域・領土に生きるようになりました。イスラエルの民がエジプトにいる時から、神はイスラエルの民を神の御支配の領域・領土の移されました。神はエジプト王やエジプトの民に大いなる災いを下されましたが、イスラエルの民は災いから守られました。そしてイスラエルの民は約束の地へ向かって旅をします。

 神は約束の地に連れて行くと約束されました。つまり約束の地に行く途上で何があっても、神はイスラエルの民を守り、連れて行くということです。イスラエルの民は、自分たちは神の御支配の領域・領土に生きていると「考えるべき」なのです。

 イスラエルの民は約束の地を目指して荒野を旅します。試練が訪れます。エジプト軍が追いかけてきます。飲み水がなくなります。食べ物がなくなります。するとイスラエルの人々は不平を言い出すのです。そしてモーセに文句を言い、神に文句を言います。「なぜエジプトから私たちを導きだしたのですか。エジプトに墓がないからですか。荒野で死なすためですか」。モーセは神に祈り、神の助けを求めます。神は奇跡を行い、イスラエルの民を助けます。

 イスラエルの民は自分たちが神の御支配の領域・領土にいるので、困難に直面しても神の助けを求めればよいと考えることができませんでした。そこに彼らの失敗がありました。彼らは試練に遭うたびに文句を言いました。彼らが試練に遭うたびに神は彼らを助けました。約束の地を前にしたとき、最後の試練に際しても文句を言った人たちは約束の地に入ることができませんでした。

 信仰に生きる者にとって大切なことがあります。自分が何者で、どのような立場に置かれているのか、聖書が告げることを受け入れ、聖書が告げるとおりに考えることです。

 私たちは罪に対して死に、罪の支配する領域・領土を去り、神の御支配する領域・領土に移り住んだのです。そう考えなさいと使徒パウロは勧めます。イエス・キリストを信じる人は、もはや罪の支配する領域・領土にはいないのです。神の御支配する領域・領土にいるのです。これがキリスト者の立場なのです。これが自分の立場であると私たちは考えるのです。「わたしはあなたと共にいる。私は必ずあなたを守る」と神は語られます。キリスト者は、神に守られる立場にいるのです。

 これは私たちが実感できることではありません。実感は関係ありません。実感で物事を考えると、イスラエルの民のように神に信頼できなくなります。聖書が告げることを真理と考える、受け入れる、それがキリスト者です。神の御支配する領域・領土にいる、これがキリスト者の立場です。この立場に自分がいると考える、ここから信仰者の生活が始まります。

 

f:id:holala:20200928222823j:plain

迫力のある花です 馬見丘陵公園にて

 

キリストに結び合わされて

 (クリスチャンの成長(53)キリストに結ばれて- 11)

 ロマ書の6章1~11節は罪からの救いを考える上でとても重要です。

ローマ 6:3~4
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

 私たちは洗礼を受け、キリストに結ばれました。キリストに結ばれたので、キリストに起きたことは私たちにも起きたことになります。「あずかる」は共有するとの意味です。私たちはキリストの死にあずかり私たちも死んだのです。キリストの死にあずかることが2回語られ、「共に葬られ」で死んだことは確定的なことだと告げられます。

 そして私たちはキリストの復活にあずかり、私たちも新しい命に生きることになったと書かれています。しかも「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように」とあります。神はキリストを死者の中から復活させるという大いなる力を発揮されました。キリストの復活において、神はその栄光を現されたのです。この神の大いなる力によって私たちも新しい命に生きる者とされたというのです。

 キリストと共に死んだということは、私たちも罪の支配する領域・領土から離れ、神の支配する領域・領土に移されたことを意味します。

ローマ 6:8
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

 キリストを信じ洗礼を受けた私たちは、新しい命に生きます。キリストと共に生きることになりました。

 「キリストと共に生きる」ことは気持ちの問題ではありません。つまり私たちはキリストを信じたのだから、これまでと違って、キリストが共にいてくださると信じて、信仰者として生きていこうという気持ちの変化、意識の変化ではありません。

 キリストを復活させた神の大いなる力が私たちにも及び、私たちはキリストと共に生きる者にされたというのです。私たちは罪が支配する領域から、神が支配する領域に移されたのです。これは私たちの身に起きたことなのです。

コロサイ 1:13
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

 私たちは「闇の力」つまり罪が支配する領域・領土から救い出され、「御子の支配」つまり神が支配する領域・領土に移されたのです。神が支配する領域・領土は「恵みの支配」(ローマ6:14)とも呼ばれます。

6:10
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

 キリストは復活して天に上げられました。キリストが「神に対して生きている」とは、キリストは天、つまり神の栄光の満ちた領域・領土で生きているという意味です。

ローマ 6:11
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 神に対して生きるとは、神を信じて生きるという意味ではなく、神の御支配の領域・領土で生きることを意味します。キリストは復活し神の栄光の領域・領土で神と共に生きておられるように、私たちも神の御支配する領域・領土で今生きることを意味します。私たちは御子の支配の中を生きるようにされたのです。

 11節の最後「考えなさい」です。このように考えなさいとパウロは命じています。キリストと共に死に、キリストと共に生きるという神の救いの出来事は、自分の身に起きた出来事だと考えなさいというのです。

 「そんなこと分からない」「信じられない」と人は言うかも知れません。でもまず、そう「考えなさい」と言うのです。このように考えて生きていくとこのことが本当だということが次第に分かってくるようになります。

 このように考えることから、神の救いの出来事が私たちの身に始まっていきます。つまり罪の支配からの解放が具体的に始まっていきます。

 

f:id:holala:20200925201329j:plain

秋晴れの空  馬見丘陵公園にて

 

 

私は罪に対して死んだ

(クリスチャンの成長(52)キリストに結ばれて- 10)

ローマ 6:2
決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。

 実は、私たちが罪に対して死ぬ前にキリストが罪に対して死なれたのです。

ローマ 6:10
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

 キリストは救い主としてこの世においでになり、私たちと同じ人間になられました。罪が支配する領域・領土の中においでになったのです。キリストは荒野で悪魔の誘惑に遭われましたが、罪は犯されませんでした。さまざまな試練を受けられましたが、罪は犯されませんでした。最後には十字架で亡くなります。

 キリストの死の意義は、人間の罪を贖うための死であったという理解は多くの人がもっており、キリストを救い主と多くの人は信じています。あまり語られませんが、キリストの死についてのもう一つの理解は、キリストの死は「罪に対して死ぬ」死でした。

ローマ 6:10
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

 キリストは罪に対して死んだ、と聖書は語ります。キリストは罪との関係で死んだのです。どういうことでしょうか。キリストは罪の支配する領域・領土からいなくなったという意味です。罪はキリストに対して何の働きかけもできなくなったという意味です。

 キリストは神に対して生きているとあります。キリストは神との関係では生きているのです。つまりキリストは復活し天に昇り、今は神の栄光の領域・領土におられるのです。このキリストに罪は手を出すことはできません。

ローマ 6:3
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。

 洗礼を受け私たちはキリストに結ばれました。そして私たちはキリストの死にあずかるというのです。キリストが罪に対して死んだように、私たちも罪に対して死んだというのです。

 私たちが罪に対して死んだというのは、私たちももはや罪が支配する罪の領域・領土にはいないということです。私たちは罪の支配から離れ、罪の奴隷状態から解放されたのです。

ローマ 6:7
死んだ者は、罪から解放されています。

 上に述べたことは、なかなか理解しにくいです。自分の経験に基づいて理解できることではないからです。そもそも自分たちがかつては罪の支配する領域・領土に生きていたということさえ、理解しにくいです。

 使徒パウロは、今から二千年も前の人なのに、キリストによる救いの真理をこのように洞察していることにただただ驚嘆するだけです。

コロサイ 1:13
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

f:id:holala:20200924201105j:plain

ダリア 馬見丘陵公園にて