クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

試練の諸段階(2)

試練の最終段階です。

4.聖書の言葉が自分のものとなる

 聖書には私たちを励まし、慰め、助けてくれる言葉がいくつもあります。私たちは聖書を読み、そういう言葉を蓄えているのではないでしょうか。1~3の段階のところで引用した聖句は、すべて私の心に蓄えられていた言葉です。牧師として働いていたときには、説教でも引用した言葉です。

 そのように蓄えていた言葉が試練の中で自分のものになっていきます。体験に裏打ちされて忘れられない言葉、本当に自分を支えてくれる言葉となっていきます。今回、自分のものになった言葉はロマ書の言葉でした。

「あなたがたは恵みの下にある」(ローマ6:14)。

 自分は神の恵みのもとにおかれているので、何が起きようと自分は大丈夫、神の恵みの下にあると「考える」ことにしました。たとい悪い事態が生じたとしても、それでもなお私は神の恵みの下にあると「考える」のです。本来なら「神の恵みの下にある」と「信じる」ことにしたと言うべきかもしれません。しかし「信じる」という言葉はあいまいな面があります。ですから恵みの下にあると「考える」ことにしたのです。「考える」ことにしたというのが実際に即しています。これにより心に平安が訪れました。

 私の好きな讃美歌520番の歌詞を紹介します。

 しずけき河のきしべを
 すぎゆくときにも
 うきなやみの荒海を
 わたりゆくおりにも

(おりかえし)
 こころ安し 神によりて安し

  英語だとこうなります。

When peace, like a river, attendeth my way,
when sorrows like sea billows roll;
whatever my lot, thou hast taught me to say,
It is well, it is well with my soul.

川のように平和がわたしの道に伴う時
悲しみが海の波のように巻き起こるとき、
私の運命がどうなろうとも 
あなたは私に教える
「だいじょうぶ、私の魂はだいじょうぶ」と言うように。

  「私の運命がどうなろうとも」。徹底した神信頼があります。そして「私は大丈夫」というように神様は教えたというのですね。この境地を今回味わいました。そして今回の経験は、いつか訪れるであろう日に役に立つと思っています。そのときに私が支えとする言葉はこれです。

フィリピ 1:21~23
わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。

 この箇所の次の言葉を支えの言葉にしたいと思っています。

  • 「わたしにとっては生きることはキリストであり、死ぬことは益である」
  • 「わたしの願いは、この世を去ってキリストとともにいることである」。

 最後に、試練は私たちの信仰を鍛えてくれます。

ペトロ一 1:6~7
そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。

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サザンカ 散歩道

 

試練の諸段階(1)

 目の手術のために10泊11日を病院で過ごしました。短い期間でしたが、私にとってはささやかな試練の時でした。もっとも手術が決まってから試練は始まっていたということができます。幸いにも平安を与えられて入院することができました。

 入院期間を振り返り、試練について考えてみました。試練に直面した信仰者が通る段階があるのではないかと思いました。それを4段階に分けてみました。

  1. 闇の支配に取り込まれる。
  2. 光を見出す。
  3. 光の中を歩む。
  4. 聖書の言葉が自分のものとなる。

1.闇の支配に取り込まれる

 試練の時、それは私たちが動揺し、迷い、疑い、落胆し、平静・平安を失うときです。このような状態になることを闇の支配に取り込まれると表現できると思います。絶望的になることもあるかもしれません。一回目の手術の後、右眼は見えるようにはなりませんでした。眼球内に出血があり、出血のために眼球内がにごり、何も見えませんでした。今後どうなるのか不安でした。

 そして出血の原因を探り処置するために2回目の手術を受けました。手術の翌日、目が見えるようになり喜びました。しかしその翌日朝、またもや出血があったときと同じような眼の状況であることを知った時、ガ~ンと絶望のそこに落とされたような気がしました。

 出血があると眼球内にきれいですが不気味な模様が見えます。その模様の色は赤ワイン色でした。2回めの手術後のときは色は黒でした。ですから出血ではなかったのです。でもその時は出血と思い、また手術かと思い、強い落胆を覚えました。

2.光を見出す

 闇の支配に取り込まれたとしても、キリスト者は御言葉によって光を見出します。

マタイ 4:15~16
「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。

ヨハネ 1:5(口語訳)
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

ヨハネ 1:5(聖書協会共同訳)
光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。

 私は自分がキリスト者であることを確認します。暗闇を照らす光のあることを思い出します。さらに復活されたイエス様はパウロを福音を宣べ伝える使徒としてユダヤ人、異邦人に遣わしますが、次のように派遣の言葉をパウロに語りました。

使徒 26:18
それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである。

 イエス様を信じるとは、やみから光の中へ移されることを意味します。闇の中にいる者も光の中へ移されるのです。

コロサイ 1:13
神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。

 試練の中にあってキリスト者は光の中を歩むことができるとの約束を受け取ります。キリスト者にとっての光とは、御言葉です。聖書の言葉です。

詩篇 119:105
あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。

3.光の中を歩む

 私にとって光となった聖書の言葉はロマ書の言葉です。

6:14
なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。

 私は入院中、この言葉に支えられました。私は「恵みの下にある」との御言葉に立つことにしました。たとい何が起きたとしても、私は恵みの下にあるとの御言葉に立つことにしました。その時、平安が心に満ちてきました。しかし試練の中にあって状況次第では、闇の支配の中に再び突き落とされることもあります。実際私は突き落とされました。(つづく)

 

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皇帝ダリヤ 散歩道で

 

食べるにしろ飲むにしろ神の栄光を

 今コリントの信徒への手紙一のディボーションしています。少しずつ読み進めはや11章になりました。10章の最後の部分を読んでいたら、こう書かれていました。

10:31
だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

 キリスト者は何をするにしろ神の栄光を現すものであるとパウロは書き、食べるにしろ飲むにしろ神の栄光を現しなさいというのです。食べる時、飲む時、どうやって神の栄光を現すのだろうと考えました。私は毎日三度食事をしています。一年では1095回食事をしています。その食事のたびに神の栄光を現すことができるのか、できるとしたらどうするのか、と考えます。

 これを食べれば、神の栄光を現すことになるというような食材はないと思います。食べ物をよく噛むというような、食べ方によって栄光を現すというようなこともないと思います。とすれば、食前の祈りにおいて私たちは神の栄光を現すことができるのではないかと考え、さらにどのように祈ればよいのかと考えました。

 キリスト者は食前の感謝の祈りをささげています。感謝の祈りをささげれば神の栄光を現すことになるのでしょうか。私が食前の祈りをささげる時、感謝をささげていますが、神の栄光を現しているという自覚はありません。しばらく考えました。そして一つの祈りを考えました。

天の父なる神さま、
あなたは荒野を歩むイスラエルの民に天からマナを降らせ、彼らを養い、
彼らを約束の地に導かれました。
そして今、あなたは私たちに肉の糧、霊の糧を備え、
私たちを養い、私たちを神の国へと導いてくださいます。
私たちを生かしてくださるあなたを覚え、あなたをたたえます。
今、あなたは目の前に肉の糧を備えてくださいました。感謝をします。
この糧でもって私たちを養い、強め、御国へと導いてください。
感謝して、主の御名により祈ります。 

  自分が信じる神さまはどのような神さまであるかを告白する祈りになっています。この告白によって神さまの栄光を現しているのではないかと考えた次第です。神の栄光を現す食前の祈りをもういくつか考えてみたいと思っています。 

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奈良はサザンカが多いです。散歩道で

 

 

その時はかならず来る

 入院中、確認したことがあります。「その時はかならず来る」ということです。目の調子がおかしいので眼科に行ったら、手術が必要ですと言われました。そして奈良市立病院に受診の予約をし、受診し手術の日が決まりました。そして「手術の日」が来ました。術後の経過に不安が伴いましたが、「退院の日」も来ました。「その日」はかならず来るのですね。

 私には一つの祈りがあります。「神さま、あなたが私をお召になるときは『よくやった。私のもとに来なさい』と語りかけてくださるように」との祈りです。そうすれば、讃美歌461番。「御国の門を/開きて我を/招きたまえり/勇みて登らん」です。

 昨日妻の兄から妻に電話がありました。いとこが亡くなったとの知らせです。義兄はそのいとこと仲良かったのでショックが大きかったようです。私より2つ年下とのことでした。いつ天に召されてもおかしくない、そういう年齢に私は達したこともあらためて思わされました。今私は父が亡くなった年齢に達しました。

 「その日」には喜びに満ちた「その日」もあります。奈良高畑教会の礼拝に出席するようになってある姉妹が洗礼を受けるようにと祈り始めました。2年は祈ったでしょうか、ついに受洗の日が到来しました。私には孫がいます。孫たちが信仰告白する日を待ち望んでいます。「その日」の到来を楽しみにしています。「その日」はかならず来ると信じ、祈って待っています。

コヘレト 3:1
何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

 

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さざんか 良い香りがします。散歩道で

 

讃美歌が支えになった

 今回の入院に際し、手術後うつ伏せで過ごす可能性を覚悟していました。剥離している網膜を戻すための処置をした上で眼球にガスを入れます。ガスの圧力により網膜剥離が再発しないようにします。ガスが眼球からもれないようにするためにうつ伏せの状態を続けるのです。数日間は続くだろうという覚悟をしていました。入院してわかりますが一日は長いです。

 うつ伏せの状態では、テレビは見れないし、本も読むことはできません。そこで心のなかで讃美歌を歌い、時間を潰そうと考えました。年をとり覚えていたつもりの讃美歌の歌詞が思い出せないことがしばしばあるので、スマホに歌詞を入力しておきました。讃美歌312番「いつくしみ深き」。それの英語の歌詞。讃美歌520番「しずけき河の岸辺を」の英語の歌詞。最近のワーシップソング「Ancient Words」。これは聖書を主題とした賛美で素晴らしい歌です。

 感謝なことに術後うつ伏せになる必要がなかったので時間をつぶす必要はなくなりました。でも夜の消灯は9時半で寝るには早いです。朝も早く目覚めます。それで讃美歌を歌って時を過ごすことにしました。すでにブログに書いたように、術後の経過の中で気持ちは揺れ動きました。そんな時、讃美歌が支えとなりました。讃美歌の歌詞の言葉が私を祈りに導き、支えとなりました。

 そうしている時、讃美歌502番「いともかしこきイエスの恵み」を思い出し、歌おうとしましたが歌詞がうる覚えなので妻に讃美歌を届けてもらいました。讃美歌461番「主われを愛す」は歌詞はなんとか思い出すことができました。こうして讃美歌を歌うことによって心は励まされました。

 そして思いました。好きな讃美歌は色々あるけど、困難の中にある自分を支える讃美歌は多くはないと。少なくとも歌詞を覚えていて自分を支えるような讃美歌はせいぜい3曲ぐらいではないかと思いました。老いた者は、その3曲でも歌詞はおぼつかないのです。だからスマホに歌詞を入力し、いつでも見ることができるようにしました。自分を支える讃美歌を3曲ほどいつでも歌えるようにしたらいいなと思いました。

 そして今回讃美歌502番を何度も歌う中で、この歌は、これからの僕の人生と共にある賛美歌だと発見しました。これからどう生きるべきかを示してくれた讃美歌でした。

讃美歌502番

いともかしこし イエスの恵み
罪に死にたる 身をも活かす
主よりたまわる あめの糧に
飢えし心も 飽きたらいぬ

世にある限り 君の栄と
慈しみとを 語り伝えん

  「世にある限り 君の栄と慈しみとを 語り伝える」。これが僕の残された人生の課題であることを明確に知らされたことも恵みでした。

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ランタナ 散歩道で

 

信仰に立とう

 25日(水)に二度目の手術を行いました。手術の終わり頃、眼を縫っている糸を切っている医師の持つハサミが見えて、あ、これならうまくいったかなと思いました。翌26日朝、右眼を開けるのに怖さを覚えました。朝診察の前に眼科の医師が点眼をしてくれました。その時、彼の姿が見えて、いい予感。診察は簡単に終わり、経過は良好とのこと。「自分の状態で気持ちもずいぶん変わる。今日は平安で時間がゆっくり過ぎ去るのも心地よい」。こんなメモを残しています。

 さらに翌日27日(金)。朝右眼を開くとえっ!眼球にあの不吉な模様が見えます。眼球の中に出血した血がつくる模様。それに似たものが見えるではありませんか。ガーン!一挙に落ち込みました。また出血?また手術?気が滅入りました。

 しばらくして自分に言い聞かせました。<僕は恵みの支配下に生きている。だから落胆するのはやめよう。朝の診察で何を言われるかわからないが、何を言われても自分は恵みの下におかれていると信じよう>。それで気持ちは落ち着きました。

 朝の診察を受けると「出血はありませんね。レーザーを当てた箇所もきれいに処置されています。これなら明日退院ですね」。思いがけない言葉にびっくり。確かに右眼で見るとあの模様は消えていました。診察を終え病室に戻ったら思いがけなく泣いてしまいました。翌28日(土)無事退院。18日入院して10日間の入院生活でした。

 今回の入院を通して、2つのことを知らされました。第一自分の信仰の弱さ。自分の身に起きることによって気持ちが左右されてしまう弱さ。

マルコ9:24
「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。

  悪霊に憑かれた子供を持つ父親の告白は自分の告白でもあることをあらためて確認しました。そして今ひとつ。自分は神の恵みの下にいることを信じ抜くこと。神の恵みの下にいる、これはキリスト者のアイデンティティです。このアイデンティティーについては何度も説教してきました。自分でも信じているつもりでした。試練は信仰を揺さぶります。そしてきちんと信じるように導かれます。

ローマ 6:14
なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。

ペトロ一 1:6~7
今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

 試練によって私たちの信仰は本物になっていくとの聖書の言葉の真理をあらためて知り感謝。

 

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散歩道で



万事を益とする神と信じる

 入院した日、病室で看護師の方から色々説明を聞きました。手術の結果うつ伏せのままで療養する可能性があるので、と特別なうつ伏せ用の枕みたいなものが差し出され、うつ伏せになる練習をしました。

 最初の手術中、執刀医師が「これならガスを入れなくてすむな」と言ったので、ガスを入れなければうつ伏せにならなくてすむと安心しました。二度目の手術の説明の時、場合によってはうつ伏せになるかもしれませんと言われ、心は重くなりましたが、くよくよする時間はありません。手術の時間が迫っていたので、まな板にのった鯉になりました。そして手術中「これならガスを入れなくてすむな」との言葉をまた聞き、ホッとしました。

 手術は局所麻酔で行われましたので意識はあり、手術室に飛び交う言葉はみな聞こえます。そして右眼は、青だの赤だの黄色だのいろんな光が輝くのを見続けました。目を閉じることは当然できません。そんな光を見続け、ときに医師の手が眼を押さえ痛みが生じたりして、緊張しっぱなしの手術でした。幸い無事に終わりました。「これなら週末に退院かな」と医師が手術後話してくれてホッとしました。

 翌26日(木)朝4時半に目が覚めました。夜は9時半に消灯になるので朝は早く目覚めます。外は真っ暗です。右眼を開くのが怖いです。「待っているのは天国か地獄か。・・・こんなふうに思うのは肉の思いだ。神さまは僕の目の異常に気づかせてくださった。治療へと導かれた。手術へと導かれた。手術を二度も行った。二度目の手術で出血箇所を見つけ処置をした。よい結果になると信頼しよう」とその時の気持ちをスマホにメモしてあります。

ローマ8:28
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 神さまは万事を益としてくださいます。益となる結果が出る前に忍耐の道を通ることのあることを学びました。試練を通して聖書の言葉の意味を教えられます。

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散歩道で