クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

年の暮れの思い

 いよいよ年の暮れ、西暦2020年が終わります。年の終わりを迎えるとき、いつも意識することがあります。それは自分の生涯の終わりとこの世界の終わり(終末)です。この年齢になると来年も、年の終わりを迎えることができるとは限りません。でも本心はもっと生きるつもりでいます。今年は以下の聖句をもって終わりを意識して生きる覚悟としたいと思います。

ルカ 23:43
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

イエス様は一緒に十字架につけられた一人の囚人にこう言われました。

フィリピ 1:21
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

パウロの驚く告白です。なぜ死ぬことが益なのか。それはキリストと共にいることになるからだと語ります。

フィリピ 1:23
この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。

さらに

フィリピ 3:20~21
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

 私は御国においてキリストの栄光ある体と同じ形に変えられるとあります。これがどのようなものかは分かりませんが、楽しみです。

コリント一 13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

 神を見るというのです。神をはっきりと知るようになるというのです。これも楽しみです。楽しみというより、言葉では言い尽くせないすばらしい世界に身をおくことになります。

 

 ブログを読んでくださった皆様に

このブログを見ていただき感謝します。
2021年が皆様にとって
神さまの恵みと平和が満ちた年となりますように
お祈りします。

 今日で今年のブログは終わりとします。年が明け、1月4日からブログを再開します。

 

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万両の木の赤い実。印象的。散歩道で。

 

肉の現れ

(クリスチャンの成長(76)キリストに結ばれて-34)

 肉は生まれながらの人間の持つ性質です。信仰を持たない人は、自分の肉から生まれる行動が罪であるとは思いません。もちろん自分を抑制し、肉の業に支配されないように努力している人たちもいます。人によってそれぞれの人の弱点となる肉の業は異なると思います。でもだれもが肉から自由になれないのも事実です。そしてキリスト者も肉に支配されたままでいることもないとは言えません。わたしたちの行いの中でどのようなものが肉から生まれる行いとなるのでしょうか。

ガラテヤ 5:19~20
肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

 ここには肉から生まれる行動が列挙されています。性的なさまざまな誘惑が街にはあふれています。週刊誌、DVD、ネットでの動画など。他者との関わりにおいて抱く様々な思い。肉から生じる思いがあります。お酒の誘惑にも肉の業があります。

テモテ二 3:1~5
しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。

 ここにも肉から生まれる行動が列挙されています。新約聖書には、このような一覧表がいくつか記録されています。

 自己中心、他者への無関心、ごまかし、保身、高慢、誇り(プライド)、嘘、悪口、自己顕示欲、無責任、差別、権力欲、名誉欲、ぜいたく、さまざまな貪欲なども肉のわざです。キリスト者が自分の力で生きようとするとき、それも肉の業です。

 キリスト者は神の教えに従おうとするとき、自分の内にある肉に気づきます。肉は神の教えに抵抗するからです。ここで信仰の戦いが生じます。肉に身をゆだねれば罪を犯します。

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赤と黄のナンテン 散歩道

 

肉とは何か

(クリスチャンの成長(75)キリストに結ばれて-33)

 新約聖書、とくにパウロの手紙に「肉」という言葉がでてきます。この言葉は大切です。

1.聖書から

ガラテヤ 5:16
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

ガラテヤ 5:17
肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

ローマ 8:5~8
肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。

 2.肉とは、何か

 これらを読むと「肉」というものが重要であることが分かります。ロマ書の言葉からすれば。信仰者といえども肉の支配下にあれば神に喜ばれないとあります。「肉とは生まれながらの人間が持つ性質」のことを言います。

3.聖書における実例

 肉に従って、肉の望むところに従って歩んだ人間が聖書の中に登場します。

 アダムとエバは、エデンの園の中央にある善悪の知識の実を食べることを神に禁じられました。エバが蛇と出会うまで彼らは神の言葉に従っていました。しかし蛇が「木の実を食べても死ぬことはない」「これを食べると賢くなる」と言った途端、エバの心には、「食べたい」との思い(欲)が生じました。賢くなって何が悪いのか、自分のしたいことをして何がいけないのか、自分は自由な人間である、そう思ってエバは木の実を食べ、アダムにも勧めました。自分の思い通りにしたい、自分の行動について人からとやかく言われたくない、というのは人間の生まれながらの性質、つまり肉によるものです。

 イスラエルの王ダビデは、宮殿の屋上からきれいな女性が水浴びしている姿を見ました。すると彼は彼女のもとに家来を遣わし、彼女を呼び寄せ、彼女と関係を持ったのです。欲情に駆られたのです。彼女が身ごもったと知ると、自分を守るために、彼女の夫を戦場で戦死するように部下に命じます。自分が姦淫を犯したことが露見しないように彼女の夫を殺したのです。欲情に駆られる、保身のために行動する、これも「肉」に従う行動です。自分の欲望通りに生きていきたい、保身に走る、これは人間の生まれながらの性質、つまり肉によるものです。

 イエス様が語った善いサマリア人のたとえ。強盗に襲われ傷ついた旅人が半殺しにされ道路に倒れていました。そこを通りかかる祭司そしてレビ人は、傷ついた旅人を見ましたが、見殺しにしました。助けなかったのです。祭司もレビ人も神殿で神に仕える人です。その彼らが自分には関係ない、といって関わることをしませんでした。自分中心な利己的な行動です。これもまた人間の生まれながらの性質、つまり肉によるものです。

 肉の性質は罪と結びついていることが分かります。

4.わたしたちの肉

 キリスト者なら自分の中に「肉」があり、この肉がキリスト者として生きようとする自分の行動を妨げることを知っていると思います。この「肉」は、私たちが神さまの教えに従うのを妨げる働きをします。

 私自身は、人から認められたいという肉の思いがあることを知っています。だから私はいつもイエス様は自分を無にして死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで神に従順に歩まれたことを覚えます。自分を無にしたイエス様を思い、自分が人から認められたいとの肉の思いを捨てることにしています。

 キリスト者として生きるには、この「肉」に対して適切な対処をしなければなりません。

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三人の博士と羊飼いたち

 

燭火礼拝

 昨日は奈良高畑教会の燭火礼拝に出席しました。玄関で手を消毒します。教会の中ではずっとマスクをつけたままです。換気のために窓は少し開けられています。座席は適度な間隔に配置されています。日曜の礼拝も同じ配慮がなされています。

 燭火礼拝はインターネットを通して中継がなされました。久しぶりにおいでになった人、近所に住みクリスマスなので教会に来られた方、いつも礼拝来るメンバーなどが集まりうれしい礼拝でした。私の3才の孫娘たちも白いきれいな洋服を着て、共に参加。♪生まれる前から神さまに愛されてきた♪孫たちです。まだ自分が何をしているのか分からないかもしれませんが、信仰者の群れの中で育つことは幸いだと思いました。

 今回の燭火礼拝では、私たち会衆が歌う讃美歌は2曲。いつもよりは少ないように思います。ゲストを迎えて讃美歌の独唱をしていただきました。ゲストといってもいつも共に礼拝に参加している方たちですが、音楽の仕事をしている方たちです。礼拝プログラムには奉唱とあり、神さまへの献げものとして賛美が献げられました。「きよしこの夜」を歌うかも知れないと思い、英語の歌詞をスマホに入れておきましたが残念ながら歌われませんでした。

 私は教会の聖歌隊である高畑クワイヤーに参加していますが、今年はコロナの感染防止のためにクワイヤーの練習はできず、燭火礼拝での賛美奉仕ができず残念でした。そこで最後の賛美は「もろびとこぞりて」でしたので、私はテナーのパートで賛美をしました。マスクをしながら歌うのはやはり歌いにくかったです。それでもうれしく賛美をしました。礼拝後はいつもは行うティーパーティーはなく、解散となりました。
 
 教会の玄関から礼拝堂に行く階段を上っているとき、ふと気がつくと喜びを感じました。牧師の時には感じたことのない喜びでした。燭火礼拝に行く、という喜びと受けとめました。

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罪との戦いに備える

(クリスチャンの成長(74)キリストに結ばれて-32)

 個人的な罪、つまり自分が犯す罪との戦いは勝利が約束されています。自分の力で勝利できれば、人は罪を犯さずにすみます。しかし人は自分の力で罪に打ち勝つことはできないと聖書は語ります。しかし救い主イエスが十字架につき、復活され、救いの出来事が起きました。この救いは罪の赦しだけではなく、罪に対する勝利も恵みとして信仰者に与えられます。

1.聖霊の助け

 罪に打ち勝つには聖霊の助けが必要です。罪は具体的に神の教えに背くことにおいて認識されます。私たちが心から罪に打ち勝つことを願い、真剣に神の教えに従うことを願うなら、聖霊の助けが与えられます。聖霊は真剣にみ言葉に従う人を助けます。

2.罪との戦いについて

ヘブル 12:4
あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 

  同じ罪を繰り返しているなら、それに勝利したいと本気に願い、罪と戦う必要があります。祈る必要があります。神の子が十字架についてその命をささげられたからには、その救いは尊い救いです。罪と戦う私たちを救い主イエスが助けてくださいます。十字架の上で、イエスは罪の勢力に身をゆだねましたが、それは罪の勢力に負けたわけではありません。イエスは復活し、死に打ち勝ち罪に勝利したことをお示しになったのです。

ローマ 8:3~4
罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。

 御子は人となりました。具体的にはイエスという名を持つ人間としてこの世に生まれました。そして十字架の上で罪を処断したというのです。口語訳聖書では「罪を処罰した」とあります。そして聖霊に従って歩む私たちのうちに律法の要求が満たされるとあります。つまり罪に打ち勝って神さまのみ心に従って歩めることが約束されています。

3.内なる敵

ガラテヤ 5:16~17
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

 パウロはここで「肉」について言及しています。罪に打ち勝つためには、この「肉」がなんなのか知る必要があります。私たちの心には肉の欲望がわいてきて、私たちはこれに従い罪を犯してしまうことがあります。私たちが犯す罪の多くは、肉の欲望に負けてしまうところにあります。肉ついて聖書がどう語っているか、次回学びたいと思います。

 

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ツワブキ 散歩道にて

 

出発はアイデンティティー

 キリスト者のアイデンティティーに立つとどうなるのでしょうか。

 たとえば信仰によってキリスト者は義とされています。キリスト者はたといどんなに罪を犯したとしても神の前に義とされた人間です。罪を犯したとき、それに気づけば罪を告白し神に赦しを求めます。キリスト者のアイデンティティーは「罪人」ではなく「義人」です。神さまはキリスト者を義人と見てくださいます。義人と見なされるならいくら罪を犯しても構わないとはもちろん考えません。むしろ実質的に「義人」になろうと努力します。名実共に「義人」になることを目指します。

 地上の歩みにおいて絶対に罪を犯さない人間に私たちはなれません。でも私たちキリスト者は自分は「罪人」といって罪に打ち勝つ努力をしない信仰者にはなりません。罪に勝利できませんとあきらめません。キリスト者は罪に打ち勝つようにされているからです。ですから少しでも罪に勝利する歩みを目指します。ここにキリスト者としての成長があります。

 私たちは洗礼を受けキリストに結ばれて「神の子」とされています。「神の子」、これもキリスト者のアイデンティティーです。そこで私たちは神の子とされていることを喜びます。神さまは私たちを神の子と見てくださいます。たとい自分の目から見て私が神の子と思えなくとも、神さまが私を神の子と見てくださるゆえに、私は自分が神の子であると考えます。信じます。神の子というキリスト者のアイデンティティーに立ちます。すると私は自分が神の子なら、天の父の御心を喜び、これに従おうとするのが自然ではないか、と考えます。そうなりたいと願います。神の子であると信じ、父の御心を喜ばないことは矛盾しています。その時はさらに神の子とされていることを喜べるように祈ります。
 「北風と太陽」の童話があります。北風と太陽がどちらが強いか、争います。それで旅人のマントを脱がせようとする物語です。そこで思います。律法を守れ、守れと北風が風を吹かせても、信仰者は心を閉ざし律法を守ろうとはしません。しかし太陽の暖かい日射しが旅人を暖めてマントを脱がせるように、神さまの恵みは信仰者の心を開かせ律法を守るように導きます。だから神の子とされた恵みを覚え、感謝します。そうすれば自ずと神さまの教えに従うようになり、神の子として成長し、神の子らしくなっていきます。

 信仰者は罪から解放されています。罪から解放されている、それもキリスト者のアイデンティティーです。それは罪を犯さない人間になったことを意味するのではなく、罪に打ち勝つ者とされたことを意味します。しかも罪に打ち勝つ力を自分の中に持つわけではなく、神の恵みによって罪に打ち勝つように導かれるのです。それは聖霊の導きと言えます。ですからキリスト者は神の助けを頼み、罪に打ち勝つ努力をします。罪には勝てないとあきらめることはしません。どうせ自分は罪人だからとも考えません。イエス様を死者の中からよみがえらせた絶大な力が私たちを助けるなら、罪に勝利させてくださることは間違いありません。

 このようにキリスト者のアイデンティティーに立つことから信仰者の歩み、信仰者の成長が始まります。そしてそこには罪との戦いがあります。罪に勝利するとは、戦って勝利するということです。罪に打ち勝つことができたとき、大きな喜びが与えられます。キリスト者としての自分を喜べるようになります。感謝なことです。

 大雑把な文章ですが、キリスト者のアイデンティティーに立つことが信仰者としての成長の出発点であることが分かっていただけたらうれしいです。

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つばき 散歩道

 

退院して新たな思いで

 洗礼を受けクリスチャンとなり、信仰者として歩みだそうとする時、実は迷いの森に入ることになるのではないでしょうか。つまりクリスチャンとしてどう生きていったらよいのかわからないからです。聖書は厚い本です。これを手引にしてどう生きていったらよいのでしょうか。礼拝や教会の集会で聖書を学びます。そこで教えられたことを学び、学んだことを実行していけばよいのでしょうか。学んだことが必ずしもこのようにしなさいと指示があるわけでもなく、結局、何をしたらいいのかと思います。

 とりあえず、聖書を読み、祈り、礼拝に出席すればよいということになるのでしょうか。聖書を読めば、色々な教えがあるので、それらに従うことに心がける、そのような信仰生活を送るのかもしれません。教会の働きに奉仕することは大切です。キリスト者のキリスト者らしさは、その心と行いに現れてきます。奉仕を一生懸命しても自分の心を知るキリスト者は、キリスト者としてどう生きていいのか分からないもどかしさを感じるのではないでしょうか。

 私自身も迷いの中にありました。牧師となって説教をするようになっても、クリスチャンとしての自分に自信を持てませんでした。教会で色んな問題に直面し、自分の愛の薄さに絶望することもありました。そして自分に自信を持てず、キリスト者であることを誇りに思うこともできず、苦しかったことを思います。牧師として説教すればするほど、自分が語ったことを生きていかなくてはならず、苦しく感じたこともあります。

 そんな私はあるとき信仰書を読んでいて、キリスト者のアイデンティティーということを知りました。しかしキリスト者のアイデンティティーの持つ意義を理解するには何年かかかったと思います。キリスト者は神の子です。キリスト者は新しく生まれた者です。キリスト者の心には聖霊が住んでおられます。キリスト者のアイデンティティーは聖書に書いてあるし、理解できます。しかしなぜアイデンティティーを考えなければいけないのか、すぐには理解できませんでした。

 そしてようやく分かったことは、アイデンティティーを理解し信じるところから、キリスト者の真の歩みが始まるということです。迷いの森を抜け出て歩みを始めることができます。キリスト者としての成長が始まります。洗礼を受ける人にキリスト者のアイデンティティーを教えても理解はしてもらえないと思います。キリスト者が迷いの森の中に入り、そこで色々経験する中で、アイデンティティーの持つ意義を理解できるようになります。

 つまり迷いの森の中にいるキリスト者は自分の力で、自分の努力で信仰者として生きようとしています。しかし自分の力で信仰者として生きようとすると必ず、失敗に終わります。挫折に終わります。なぜなら自分の力でキリスト者として生きることは無理だからです。そもそも人を愛することすらできないのです。自分を愛することも、隣人を愛することもできないのです。それで自分のことを罪深い人間と考えているキリスト者は少なくないのです。苦しみ悩んだからこそ、アイデンティティを知るときに喜びを感じ、キリスト者としての再出発に踏み出すことができます。

 キリスト者の歩みは、アイデンティティーを受け入れ、このアイデンティティーに立つことから始まります。そして神の恵み、神の力に頼って歩みます。神の力、それは聖霊の力と言い換えることができます。

 このブログでは、キリスト者のアイデンティティーについて紹介し、このアイデンティティーに立って生きることについて書いてきました。さらにはキリスト者は罪から解放されていることも書きました。このことを書いている途中で、目の手術のために入院し、ブログはしばらく中断しました。退院してからは入院中のことを書きました。初めての入院、初めての手術は試練でした。そして恵みの時でした。入院中のことは書き終わったので、新たな思いでキリスト者の歩みについて再開して書いていこうと思います。

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パンパスグラス(シロガネヨシ) 散歩道で