クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

かけがえのない一日

 これまで余り深く考えてこなかったことがあります。

 子供たちが独立して夫婦二人の生活が15年ほどになります。牧師を引退して5年目。この5年、私には電話もかかってこず、しなければならないことはなく、ゆっくり過ごす日々となりました。

 毎日生活していれば、当たり前の日々が当たり前に過ぎていきます。この当たり前が当たり前でなくなる日が来ます。それがどのように到来するのかは分かりません。老老介護の日が来るかもしれません。あるいはひとりの生活になるかもしれません。それも慣れれば、当たり前の生活になるのかもしれません。

 当たり前の毎日を当たり前にしてはならないと思うようになりました。今夫婦二人の生活で、大げさにいえば互いに助け合って生活しています。自分にできることをお互いにして相手にあまり負担をかけないで感謝して一日を過ごせるようにしたいと思って生活しています。この当たり前の毎日を当たり前として受けとめるのではなく、かけがえのない一日と受けとめたいと。

 そのために小さなことでいいから、新しいことをしたいと思いました。今日は、前からしたいと思っていたことをしました。朝食のためににんじんのサラダを作りました。

f:id:holala:20211108203510j:plain

アザミの花 2021.11.4

 

神への渇き

 先日、ある讃美歌の英語の歌詞を訳したものを友人に送りました。イエス・キリストによる救いをたたえた歌です。チャールス・ウェスレーの作詞の讃美歌で、讃美歌第二篇230番「わが主を十字架の」です。手紙を書いたとき、讃美歌第二篇にあるとは知りませんでした。『スザンナ・ウェスレーものがたり』(大塚野百合)を読んで知りました。すると友人からの返事にこう書かれたいました。

「歌詞をかみしめるとき、私のたましいと心には、大輪の美しい花火が爆発したようです。それは、私の内側で広がり、あまりに美しい景(すがた)は、花火の光が空から徐々に消えていっても、強烈な、余韻と残像を心にきざみ込んでいます」。

 私はこれを読んでショックを受けました。私の心には彼のような強い反応がないからです。私はいい讃美歌でとても好きですが、彼のような感激はありません。この違いって何?と思うのです。私は彼が感受性の豊かな人だと思っているわけですが、私も彼のように感じることができたらといいなと思うのです。そこで思いました。やはり私には渇きがあると。

詩編 42:2~3
涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。

 この讃美歌の題名は、and how can it be that I should gain です。私はユーチューブでこの曲を賛美している動画を見て自分でも歌うのですが、その動画の中で賛美している人たちの顔を見て、共に信仰に生きる喜びを感じている自分を見出します。

f:id:holala:20211105223801j:plain

イヌタデ 散歩道

 

どこに目を向けている?

 私はインターネットの youtube で賛美を聞き、また賛美します。英語の讃美歌を聞いていると味わい深いと思うことがよくあります。讃美歌62番はチャールス・ウェスレーが作詞した曲です。チャールス・ウェスレーの兄はメソジスト教会の創立者ジョン・ウェスレーです。

 讃美歌62番のメロディーは頌栄543番と同じです。「主イエスのめぐみよ、ちちのあいよ」のメロディーです。私が今、目を留めたいのは讃美歌62番の2番です。日本語はこうあります。

とうときわが主よ たかき御名を
ひろむるこの身を たすけたまえ

 もとの詩はこうです。

My gracious Master and my God,
Assist me to proclaim,
To spread through all the earth abroad
The honors of Thy name.

私の恵みの主にして私の神よ、
あなたの御名のほまれを
宣べ伝え、全地に広める私を
助けてください。

英語で "Assist me to proclaim" 
(私が宣べ伝えるのを助けて)
の部分を歌う時、これまで神さまの助けを得て説教の働きをしてきたことを思い、感無量になります。

 しかし最期の "The honors of Thy name"
(あなたの御名のほまれを)
の部分を歌うとき、思わされることがありました。

 讃美歌62でも、英語の歌詞でもそうですが、宣べ伝え、広めるのは「御名のほまれ」なのです。神さまの素晴らしさを伝えるのです。果たして自分は「御名のほまれ」、神さまのすばらしさを伝えようとしてきたのか、と疑問に思いました。私はキリストによる救い、福音を宣べ伝えてきました。しかし御子による救いを備えてくださった神さまのほまれをどれほど伝えようとしたのかと考え、自分の不信仰というか、罪を見た思いがしました。

 つまり福音を伝え人々を救いに導くように説教してきましたが、キリストによる救いを用意してくださった神さまの御心にどれほど目を向けていたのかと考えると、向けていなかったと思うのです。

 要するに私は、「神さまはキリストを通して私たちを救ってくださいました。救われてよかったですね。神さまに感謝ですね。この恵みに感謝して生きていきましょう」と語ってきたのです。私たちを救ってくださる神さまの愛がどのようなものか目を留めることがなく、神さまのすばらしさを探ろうとしていなかったのです。救われて感謝し、御心に従って生きることを語って来ましたが、要するに人間にだけ目を向けていたのです。そのことを教えてくれたのが讃美歌62番でした。新しい課題が与えられました。

f:id:holala:20211104212055j:plain

ススキ 散歩道

 

あかるい野菊

 先日、野菊の写真を撮りパソコンの画面で見ていました。画面に映し出された野菊を見て、妻が「野菊」(文部省唱歌)を歌い出しました。子どもの時によく歌ったそうです。妻は田舎に生まれ、秋には野菊が咲いているのをよく目にしたし、好きな花だとのことでした。私は都会生まれ、都会育ちだったので、野菊を目にすることも、唱歌を歌うこともありませんでした。この年になって野の花の写真を撮るようになって出会いました。

 近隣を散歩しながら出会うのは、ヨメナとノコンギクです。両方とも野菊と呼ばれます。見た目では区別できないので、識別方法を調べ、花を見る度、どっちか確かめながら写真を撮っています。

 「野菊」の歌を youtube で聞いてみるといい感じです。私は3番の歌詞に惹かれました。

しもがおりても まけないで
野原や山にむれて咲き
秋のなごりを おしむ花
あかるい野菊 うすむらさきよ

 逆境にも負けずに、仲間と一緒に明るく咲いている姿は美しいです。伝道がむずかしい状況の中で、仲間と一緒に礼拝を献げ、信仰に歩み、証しをしていく教会の姿に重ねてしまいます。

f:id:holala:20211103191007j:plain

野菊(ノコンギク)

 

キリストにより豊かにされた私(4)聖書によって考える心

コリント二 8章9節
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

 キリストによって豊かにされた私の4回目は<聖書によって考える心>です。私は自分が物事を考えるときの土台を聖書においています。聖書に基づいて物事を考えるようになりました。

 信仰を持って間もない頃から聖書はできるだけ読みたいと思って過ごしました。牧師になる前はサラリーマンでした。通勤するときのバッグにはいつも聖書を入れていました。その当時は、気に入った聖書の言葉に赤線を引いていました。自分を励ます言葉、共感できる言葉、真理だと思った言葉、教えられた言葉などに赤線を引きました。これらの言葉を大事にしました。

 でもその当時は、自分が身につけてきた考え方に聖書の言葉を取り入れたのです。物事を考える主体は、自分にありました。それまで経験したこと、学んだこと、身につけてきたことなどをもとに物事を考えていましたので、聖書の言葉は参考にするという扱いでした。聖書の言葉ですから、大切にしました。しかし物事を考える土台は、自分であり、自分が身につけてきた価値観、思想、考え方が土台でした。

 しかし、ディボーションという聖書の読み方をするようになってからは、聖書を土台にして物事を考えるようになりました。私は信仰者ですから、聖書によって生きる、それが自分のアイデンティティーとなりました。それは言い換えると神さまの御心に従うということになります。

 そもそも罪とは何でしょうか。それは神さまの御心よりも自分を上におくことです。神さまの上に自分が立つことです。それは創世記の初めに、アダムとエバが、神さまが取って食べてはいけないと言われた木の実を食べたことが聖書に書かれています。神さまは食べてはいけないと言われた。しかし自分は食べてもよいと思う、そう考えて彼らは食べました。神さまの戒めに背くことは、単に悪いことをしたということではなく、神さまの御心よりも自分を上に置くという根本的な罪です。

 神を信じるとは、神を見あげて生きることです。それは神の御心に従うことです。だから聖書を土台にして物事を考えることが信仰者の道だと考えるように導かれました。私は心が豊かにされたと考えています。

f:id:holala:20211102211450j:plain

野菊

 

十字架のつまずきを越えて

昨日、大阪の森小路教会で説教奉仕をしました。
新約 ローマの信徒への手紙6章1~11節
説教題 「十字架のつまずきを越えて」

森小路教会のサイトで説教を聞くことができます。

説教を聞くにはここをクリック

~~~~~~~~~~

原稿は以下の通りです。

 

→使徒パウロは語りました。

「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。

すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」。

 

→使徒パウロはこのローマの信徒への手紙3章で、

人はイエス・キリストを信じることによって義とされると語りました。

クリスチャンになった方は、

十字架につけられたイエス・キリストを信じたわけですから、

十字架につまずくことなく信仰を得たということができます。

しかしキリストの十字架の恵みは、

私たちを義とすることにとどまりません。

キリストの十字架の恵みは

私たちを<罪から解放する>のです。

あなたは罪から解放されるのです。

「あなたは罪から解放される」、

これを聞いてどう思われるでしょうか。

これも十字架の救いの恵みです。

もし罪からの解放を信じないなら、

信じられないと言い続けるなら、

あなたは十字架につまずいたことになります。

そうならないように、今日も聖書から福音を聞きましょう。

→6章1節

「どういうことになるのか。

恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」。

イエス・キリストを信じる人は義とされる、これは神さまの恵みです。

この神さまの恵みを得るために、罪を犯そうではないか、

と考える人がいたのかもしれません。

あるいは、信仰義認の教えは人々に

罪を犯してよいとそそのかす危険な教えであるとの

批判があったのかもしれません。

これに対してパウロは、2節で「決してそうではない」と語ります。

罪に対して死んだ私たちが、

どうしてなおも罪の中に生きることができるのでしょう、

と語ります。

 

→私たちは、罪の赦しの恵みを得るために

罪を犯そうなどとは考えていないかもしれません。

しかし、罪を犯したが赦しを与えられて感謝だ、

罪を犯したが赦しを与えられて感謝だ、

と罪を犯しては赦される、

ということの繰り返しの中に生きているとしたら、

私たちは罪の中にとどまっていることになるのではないでしょうか

 

→パウロは、罪の中にとどまるということは

あってはならないと語ります。

あるいは罪の中に生きることがあってはならないと語ります。

なぜなら、

キリストの救いの恵みは私たちを罪から解放するからです。

そこでパウロは語ります。3節。

「あなたがたは知らないのですか」。

パウロは知らないことを責めているわけではないと思います。

むしろはっきりと知って欲しいと願っているのだと思います。

→話を進める前に一つ確認しておきたいことがあります。

キリスト者である私たちの前には

二つの事実があることをお知らせします。

第一の事実は、この世のだれもが認める事実です。

今日の天気が晴なら、だれもが「今日の天気は晴」と言います。

天気が晴れていることはだれもが認める事実です。

 

→第二の事実は信仰に関わるものです。

たとえば、神の存在。

この世のだれもが神の存在を認めるわけではありません。

しかし私たちキリスト者は神の存在を信じます。

神が存在する、これは信仰者が信じる事実です。

信仰者が信じる事実、これを霊的な事実と呼ぶことにします。

ナザレ生まれのイエスは救い主である、これは霊的な事実です。

イエスは死者の中から復活した、これも霊的な事実です。

キリスト者は聖書が語ることを霊的な事実として信じます。

 

→3節で「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たち」とあります。

洗礼を受けてキリスト者になった人たちは、

キリスト・イエスに結ばれているとあります。

キリスト者はキリストに結ばれている、これは霊的な事実です。

私たちが洗礼を受けたとき、私たちはキリストに結びつけられます。

キリストに結びつくという霊的な出来事が起きたのです。

私たちはキリストに結びつけられたという霊的事実を信じます。

キリスト者はイエス・キリストに結ばれた人です。

これはキリスト者にとって根本的な霊的事実です。

 

→3節から4節。

「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、

その死にあずかるものとなりました」。

キリストは十字架の上で死にました。

そこでキリストに結ばれている私たちも死んだというのです。

これは私たちが霊的に死んだという意味です。

キリスト者は洗礼を受けたとき、

キリストに結び合わされて死んだのです。

これは霊的な事実です。

私たちにとって信仰とは、霊的な事実を信じることです。

 

→4節の続き.「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。

キリストは神の大いなる力によって

死者の中から復活させられました。

私たちもキリストに結ばれて新しい命に生きる者とされました。

私たちはキリストと共に死んでキリストと共に復活したのです。

この私たちの死と復活は、霊的な出来事です。

パウロは、キリスト者は洗礼を受けてキリストに結ばれ、

キリストと共に死に、

キリストと共に復活したと語っているのです。

キリスト者は、霊的に見れば死んだのです。

しかし今や新しい命を与えられて生きる者となりました。

キリスト者は霊的に死にましたが、霊的に生きる者となったのです。

 

→洗礼を受けてキリスト者となった人は、キリストと共に死んで、

キリストと共に生きる者にされました。

もう一度言います。

洗礼を受けてキリスト者となった人は、キリストと共に死んで、キ

リストと共に生きる者にされました。

キリストの死と復活は、私たちに無関係な出来事ではなく、

私たちの出来事そのものでもあるわけです。

キリスト者はキリストに結びつけられているからです。

キリストの復活は、死を越える希望を与えるだけではなく、

信仰者を、生まれ変わらせるものだったのです。

→そこで、私たちがキリストと共に死んだことについてさらに聖書が語ることに聞きます。

2節では、「私たちは罪に対して死んだ」とあります。

ここで知るべきことがあります。

罪に対して死んだという時の「罪」は一種の力を意味します。

つまり私たちに罪を犯すように働きかける力を意味します。

罪は力、これも霊的な事実です。

 

→創世記にアダムとエバが神さまの教えに逆らい、

取って食べてはいけない木の実を食べました。

あの物語において、

蛇はまさに罪を犯すように働きかける力の象徴です。

そしてもう一つ確かなことは、

彼らは自ら手を伸ばして

禁じられた木の実を食べたことです。

罪は霊的な力であり、私たちに罪を犯させる悪しき霊的な力です。

私たちが罪を犯すのは、

私たちに悪い心があり、頑なな心があるからですが、

同時に、この罪の力も忘れてはなりません。

この罪の働きかけがあるから、

私たちは罪を犯さない人にはなれないのです。

 

→この罪の力についてパウロは7章でこう語っています。

「わたしは、自分のしていることが分かりません。

自分が望むことは実行せず、

かえって憎んでいることをするからです。

そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、

わたしの中に住んでいる罪なのです」。

私は神の教えに従いたいと願っている。

でも私は従うことができず、

それと反対のことをしているというのです。

それは私の中に住んでいる罪のせいだというのです。

私たちに罪を犯すように働きかける罪の力というものがあるのです。

 

→そこで2節と11節です。

そこには「わたしたちは罪に対して死んだ」とあります。

この場合の罪は霊的な力、

罪を犯すように働きかける罪を指しています。

この罪の力に対して、私たちが死んだ、というのです。

どういうことでしょうか。

それは罪がどんなに働きかけても、

死んだ人には何の影響も与えることはできません。

死んだ私たちに罪が働きかけても効果はないということです。

つまり罪は私たちに働きかけますが、

私たちに罪を犯させる絶対的な力を失ったのです。

これは大切な霊的事実です。

罪は私たちに働きかけますが、

私たちに罪を犯させる絶対的な力を失ったのです。

 

→6節に「私たちの古い自分」とあります。

この古い自分は罪の働きかけに勝つことができず、

負けてしまう自分を指しています。

もし私たちがどうしても罪に勝つことができないのなら、

それは私たちが罪の奴隷であり、

罪に支配されているからです。

これも霊的な現実です。

しかし私たちが罪に対して死んだことにより、

罪は私たちに対して絶対的に支配する力を失ったのです。

 

→6節「わたしたちの古い自分が

キリストと共に十字架につけられたのは、

罪に支配された体が滅ぼされ、

もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」。

キリスト者はもはや罪の奴隷にならないのです。

 

→キリストに結び合わされたキリスト者は、

キリストと共に古い人が死んだのです。

それは何のためなのでしょうか。

ここで「罪に支配された体が滅ぼされるため」とあります。

人が罪を犯すのは体を持っているからということができます。

罪は、この体に働きかけるのです。

体を持つ私たちは命に限りがあります。

命の危険が身に及べば、人は恐れを抱きます。

体をもつとは、能力に限界を持つことを意味します。

すると人は物事を自分の思い通りにすることができず、

先行きに不安を感じたり、思い悩んだりします。

体を持つ私たちは、色々な欲を持ちます。

それゆえ、誘惑にあいます。

罪は私たちの体を利用して私たちを支配し、私たちに罪を犯させるのです。

体を持つ私たちは罪に支配されていたのです。

 

→しかしキリストに結ばれ、キリストと共に死んだとき、

この罪に支配されたからだが滅ぼされたとあります。

罪に支配されたからだは滅び、罪の決定的な力は失われたのです。

 

→7節では、死んだ者は、罪から解放されているとあります。

罪はキリスト者に対して絶対的な力を及ぼすことができなくなりました。

そこでキリスト者は罪から解放されました。

これは、とても、とても、とても大切な霊的な事実です。

罪は私たちを絶対的に支配することができなくなったのです。

その結果、私たちはもはや罪の奴隷ではなくなったのです。

罪に打ち勝つことができるようになったのです。

 

→罪の支配は終わったのです。

しかし罪の働きかけはあります。

その働きかけは絶対的なものではなく、私たちは勝利できるようになったのです。

キリストに結ばれた私たちが新しい命を与えられて生きるとは、

罪に打ち勝って生きることができるようにされたということです。

私たちは罪に打ち勝って生きることができます。

これも霊的な事実です。

 

→聖書に書かれている興味深いお話しを紹介しましょう。

出エジプト記に書かれている物語です。

イスラエルの民はエジプト王の支配の下で奴隷として

つらく、苦しい生活をしていました。

彼らはエジプト王の奴隷でした。

そして自分の力で奴隷状態にある自分を

救うことはできませんでした。

奴隷状態にある自分を

自分の力で解放することはできませんでした。

そこで彼らは神に助けを求めて叫びました。

 

→神はイスラエルの民に二つのことを語り、約束しました。

  • 彼らをエジプトから解放すること、
  • そして自由に生きることのできる土地に導くことです。

 

→そして神は約束通り、

イスラエルの民をエジプト王の支配から解放しました。

そのために神は大いなる奇跡をいくつも行いました。

それはエジプトに大きな被害をもたらしました。

エジプト王は、この被害が続いたら、

自分たちは滅びてしまうかも知れないと恐れ、

イスラエルの民を解放することにしました。

神はイスラエルの民をエジプト王の支配から解放しました。

 

→この出来事はイエス・キリストの十字架を

指し示していると言えます。

つまり神はイエス・キリストの十字架を通して、

信じる者を罪の支配から、解放するのです。

信じる者を罪の奴隷状態から解放するのです。

実に救いとは、解放であり自由です。

出エジプトの出来事は、

キリストによる救いを指していると私は信じています。

だからこそ聖書に記録され、残されていると私は信じています。

 

→神はイスラエルの民に

自由に生きることができる土地へ連れて行くと

約束していました。

イスラエルの民はエジプトを出て、

約束の土地目指して旅を始めます。

ところがエジプト王は、

イスラエルを自由にしたことを後悔しました。

そこで軍隊を率いて、イスラエルの民を連れ戻そうとします。

イスラエルの民が海の近くで宿営しているとき、

エジプト軍が迫ってきました。

イスラエルの民はどうしたでしょうか。

彼らは非常に恐れ、動揺しました。

そこでイスラエルの指導者モーセは言います。

「恐れてはならない。落ち着いて、

今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。

あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、

もう二度と、永久に彼らを見ることはない」。

そして神はイスラエルのために、エジプト軍を滅ぼしました。

イスラエルの民は、エジプト王の支配から完全に解放されました。

このことは、罪の力は私たちに働きかけますが、

神さまが私たちに勝利を与えてくださることを示しています。

→私たちは罪に対して死に、

罪の支配から自由にされました。

罪の奴隷状態から解放されました。

キリストに結ばれ、新しい命を与えられました。

洗礼を受ける前後で、

私たちは何の変化も実感しなかったと思います。

しかし霊的な面では、

私たちの罪に支配された古い人が死んで、

罪から解放された新しい人が生きることを始めたのです。

このような霊的な出来事が起きたのです。

 

→このようにキリスト者は新しい人として生きるので、

罪の中に留まることができるわけがないと

パウロは書いたのです。

罪を犯しても赦してもらえる、感謝だ、というような所に

とどまっていることはできないのです。

神さまは私たちを罪から自由に生きる世界に導いてくださいました。

 

→11節の言葉を読みます。

「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、

キリスト・イエスに結ばれて、

神に対して生きているのだと考えなさい」。

「考えなさい」とパウロは命じています。

すぐに信じられなくてもいいのです。まず考えるのです。

ここからキリスト者の真の歩みが始まります。

罪から解放された歩みが始まります。

もし皆さんが、1ヶ月間、毎日この箇所を声を出して読んだのなら、

きっと罪からの解放を信じるように導かれると思います。

 

→聖書に基づき、十字架による救いの恵みについてお知らせしました。

キリストの十字架につまずくことがありませんように。

罪からの解放の福音を心から信じることができますように。

このような救いを備えてくださった神さまをたたえます。

 

臨終を迎える人のための祈り

 昨日教会の葬儀がありました。教会の近くに住んでいる教会員ではなかったので、この方の住まいの近隣の教会を会場として葬儀が行われました。youtubeの配信があり、葬儀説教に聞き入りました。

 また週の初めには私が属している香柏会(隠退牧師の会)から隠退牧師の近況をまとめたプリントが届きました。隠退牧師といっても年齢は様々、健康状態も人それぞれ、誰と一緒に暮らしているのか、それも人それぞれでした。皆さん、日々どのように生きておられるのか書いておられました。何人もの方が聖書の学びをしていると書いておられるのが印象に残りました。

 それらを読みながら、皆さんの心の底には終わりの日を迎える複雑な思いがあるように感じました。もしかしたら私が自分の気持ちを投影して読んでいるからかもしれませんが。

 洗礼式とか結婚式の場合、その日の到来は楽しみです。そして亡くなる日は、天に召される日なので信仰者にとっては喜ばしい日です。信仰者だから喜ばしい日と受けとめることができます。神さまのもとに行くのですから。神さまにお会いすることができるのですから。その一方で慣れ親しんだこの世界から去るわけですから一抹の不安、寂しさがあります。こんな思いを抱きながら、そして死を越える希望を持ちながら、私を含め、信仰を持つ老人は生きているのではないかと思いました。

 昨日葬儀を行ったのは教会員のAさん。祈祷会ではAさんのために祈り続けました。その時、自分がもしAさんの立場だったらどんな祈りをして欲しいのかと考えました。自分が臨終の床についているのです。その時どんな祈りをして欲しいのか、です。

「天の父よ、Aさんは今、最期の時を迎えようとしています。あなたに召され、御国に迎えられ、イエス様とお会いする喜びが待っています。今Aさんをイエス様にお会いする楽しみ、喜びで満たしてください」。

 牧師として働いているとき、このような祈りを考えたことはありませんでした。自分が老いているから、考え得ることができたのだと思います。

f:id:holala:20211029204341j:plain

露に濡れた野菊