クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(50)聖霊の助け

 キリスト者は、神の恵みによって新しく生まれます。イエス・キリストを信じ、聖霊を賜物として与えられます。この聖霊は、神さまを愛する心を私たちに与えてくれます。キリスト者は神との交わりに歩みます。信仰とは神との交わりに歩むことですから、神を愛する人は、神の御心を大切にし、神の御心に生きることを喜びとするようになります。喜びとします。

 聖霊によって神を愛する心を与えられ、キリスト者は神の御心を大切にするように導かれます。同時にキリスト者も神の御心を大切にする歩みをします。聖霊の助けと私たちの努力が合わさって神を愛し、神の御心を大切にする歩みが生まれます。

 聖霊の助けを与えられて神の御心を大切にしていくとき、キリスト者は神の御心に従おうとの意志が強められます。そして御心に従うことを妨げる外からの力、内からの力に勝利して、御心に従うことができるようになります。

 讃美歌177番を紹介します。

1.かみの気息(いき)よ われを医(い)やし
疲れしこころを つよめたまえ

2.かみのいきよ われをきよめ
みかたちの如く ならせたまえ

3.かみのいきよ われに満ちて
みこころを常に なさせたまえ

4.かみのいきよ われを活かし
み側(そば)をはなれず おらせたまえ

かみのいき、それは聖霊のことです。

田原の里

 

ただ主を思う

 マルコ福音書12章にある、やもめの献金の話しを思いめぐらしたことを昨日のブログに書きました。思いめぐらしたあと、次のように祈りました。

 主イエスはやもめの献金に目を留め、彼女が精一杯献げているのをご覧になっています。主イエスの眼差しは小さな者へも注がれていると教えられました。
 老いて人生の夕暮れを歩んでいると、色々な思いが交錯します。それらは心を励ますよりも、落ち込ませる方向に導きます。注意しなければなりません。今朝賛美した讃美歌で「生くるも死ぬるも、ただ主を思う」とありました。主イエスは、やもめにも心を留めてくださる方であり、私をも心に留めてくださる方です。それゆえ私も心を主に向け、「ただ主を思う」ことに集中してみたいと思いました。

 今朝、讃美歌453番を賛美していたら、次の歌詞に出会いました。

見よや、救いの君を 世のため悩みて
あがないの道を 開きしイエスを
ひらきしイエスを

 この讃美歌は「見よや、救いの君を」。肉眼ではなく、心の目で見なさいと勧めています。「救いの君を見る」「ただ主を思う」いずれもイエス・キリストが開いてくださった贖(あがな)いの道、救いに目を、思いを注ぐことを勧めています。イエス・キリストによる救い、それは私たちの原点であり、出発点であり、常に立ち帰るべき原点であると思わされました。

 人生の夕暮れを歩んでいると、色々な思いが交錯します。気が滅入ったりします。それらは心を励ますよりも、落ち込ませる方向に導きます。そんな時、そして今、主イエスによる救いを賛美する讃美歌を歌い、原点に立ち帰り、新たに出発したいと思いました。救いの恵みを心に聞かせることにしました。

讃美歌11番
生くるも死ぬるも、ただ主を思う
ゆるがぬこころを あたえたまえ

 

珍しい光景ではない!

 

やもめの献金

 今日はマルコ福音書の12章でやもめの献金の話しを読みました。主イエスは弟子たちと一緒に人々が賽銭箱にお金を入れるのを見ていました。大勢の金持ちがたくさん入れていました。そこにひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を入れました。これは労働者の一日の賃金の1/64に相当します。仮に時給1000円で一日7時間で働くとすると一日の賃金は7000円、その1/64は110円ほど。わずかな額ですが、それはやもめの生活費全部だというのです。なぜ生活費全部を献げたのか、その理由は書かれていません。何かやむにやまれぬ理由があったのかもしれません。

 主イエスは弟子たちを呼び寄せ、彼女は誰よりもたくさん入れたと話します。他の人たちは有り余る中から献げたのに彼女は生活費全部を入れたからと。

 ただそれだけの話しです。この出来事は何を伝えようとしているのか、と思いめぐらします。主イエスは金持ちがたくさん献げていることを批判しているわけではありません。やもめのように生活費全部を献げることが大切なのだと教えているわけでもありません。主イエスは賽銭箱の向かいに座っていたので、人々がどれぐらい献げているのかが見えたのです。弟子たちはもしかしたら、金持ちがたくさん献げるのを見て、驚いていたのかもしれません。「すごいね、あんなにささげて。俺たちには無理だな」などと。そこで主イエスは、やもめの方が沢山献げたんだよと弟子たちに語ったのかもしれません。

 それでこの話は何を私たちに語りかけているのか、それとも主イエスと弟子たちは人々が献げるのを見ていましたと語るだけなのか。何のためにやもめの話が聖書に書かれているのか、と思案します。

 謎解きをするような感じです。ミステリーを解くような気持ちになります。こういうの、私は好きなんです。解けたら気持ちいいです。これが説教箇所だったら焦りますが、そうではないのでゆっくり思いめぐらします。幸い導かれて二つのことを思いました。

 一つは、自分はどんな気持ちで神さまに献げているのか、と献金を献げる自分の気持ちを見直してはどうか、と。

 二つ目は、主イエスはわずかな額しか献げていないやもめに目を留めている点です。おそらく弟子たちが金持ちがたくさん献げることに驚いていて、やもめが献げるのは見ていなかったと思います。どうせわずかしか献げないだろうと関心を示さなかったと思われます。しかし主イエスは彼女に目を留めていたのです。人々が関心を持たないし、顧みない人をも主イエスは心に留めて下さる、そんなメッセージを汲み取ることができます。

 そして主イエスは、平凡なこの私にも目を留めてくださる方であると考えると、うれしくなります。

コムラサキ 散歩道

 

訃報が続く

 老いの時期は、人生の終わりに向かって歩む日々です。先週から訃報が続きました。訃報を聞くと、心のなかにさざ波が立ちます。聞き流すことができません。私の所に届く訃報は、教会関係、特に牧師関係の訃報です。私が若いときの先輩牧師たちの訃報が続きます。『信徒の友』という月刊誌には、牧師の移動に関する報告があり、そこには召された牧師の名前を見ることができます。

 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。訃報を聞くことによって何が始まるのでしょうか。「あなたの生涯の終わりは遠くはないね」と訃報は語りかけます。若い時と違って少々気が滅入ります。キリスト者として対策を考えます。

 どんな気持ちで老いを生きているのか、人によって違うと思いますが、私の身には寄せては返す波のように気が滅入ることが繰り返し起きてきます。牧師で福音を宣べ伝えていたのに、信仰が弱いのね、と言われるかも知れませんし、言われてもよいと思っています。太陽に向かって歩くと後ろに影ができるように、信仰には、疑い、不安が付きまとうものだと私は考えています。だから神の助けを求めます。

「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9:24)。

 汚れた霊につかれた子を持つ父親の告白は、自分の告白だと思っています。

 今回あらためて思ったことは、自分がどこに向かっているかを見失ってはいけないということでした。エジプトを出て自由に生きる土地を目指して旅をしているイスラエルの民に試練が何回も訪れます。食糧がなくなる、飲み水がなくなる、敵が攻めてくるなど試練が訪れます。多くのイスラエルの民は、試練を前にして落胆し、嘆き、神に不満を持ちます。神が示してくださった目的地を忘れてしまいます。キリスト者は、神の国という目的地を目指しています。繰り返し、自分は目的地に向かっているキリスト者であることを確認することが大切と思います。

 影を見ないためには太陽に向かって歩むことが大切です。御言葉という太陽に向かって歩むことを今回は教えられました。

イザヤ 46:3~4
あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

イザヤ 46:9~10
 思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。わたしは初めから既に、先のことを告げ/まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り/わたしは望むことをすべて実行する。

天の父なる神、
あなたの御言葉の中で休らぐことができますように。
あなたの御言葉が私を背負ってくださるように。
あなたの計画の実現を信じ、待ち望みます。

キンモクセイ 教会へ行く道で

 

人生航路の第二段階(49)愛するとは

 愛するとはどういうことなのでしょうか。聖書には神を愛すること、自分を愛するように隣人を愛することが神の戒めとして教えられています。愛する対象として、神、自分、隣人がいます。

 信仰の有無を問わず、人は自分を愛し、自分に親しい人を愛しています。信仰を持てば、神を愛するようにとの戒めを知ります。愛するとはどういうことなのでしょうか。聖書は互いに愛し合いなさいと教えます。

 そこで大切なことは、お互いがどんな関係にあるかを知ることです。親子関係、夫婦関係、神と信仰者の関係、自分との関係。関係が違うと愛し方が違ってきます。愛するとは、基本的に相手の存在、相手の人格を大切にして、相手と関わることと私は考えています。愛するとき、この関係を大切にします。この関係を大切にするから相手を愛します。

 聖書には、どのように愛するのかが教えられています。たとえば、夫婦の場合結婚式で読まれる聖書箇所があります。

エフェソ 5:21~29
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。
妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。

 夫が妻を愛する愛し方、妻が夫を愛する愛し方は、同じではありませんが、互いに仕え合うという共通点はあります。親子関係についても教えがあります。

エフェソ 6:1~3
子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。
父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。

 それではキリスト者は神にどう向き合うのでしょうか。これは詩編を読むとわかります。色々な表現が書かれています。たとえば詩編34。

主をたたえる、賛美を歌う。
主の御名を崇める
主に求める。主を仰ぎ見る。
主を畏れる。御許に身を寄せる。
主を畏れ敬う。主に従う。
主に助けを求める。
主を避け所とする。

申命記 6:5
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 キリスト者は上に述べた神に対する関わりに全力を注ぐと聖書は教えています。

アキノノゲシ 里山の散歩道

 

人生航路の第二段階(48)恵みとしての戒め

申命記 6:5
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 昨日のブログで、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛するとき、キリスト者は「喜んで」「進んで」「自由な気持ちから」神の戒めを守る努力をすると書きました。ではなぜ、喜んで、進んで守る努力をするのでしょうか。

 一生懸命守れば、神さまはほうびとして祝福してくれるから、という考えは、私は採用したくありません。そもそも人間の罪を赦すとき、神さまは恵みによって赦すのであり、人間の行いを認めて赦すのではありません。神さまには、人間の行いに応じて報酬を与えるという考えはないように思います。神さまは、神さまの方から恵みを与え、その恵みを感謝して人が生きることを願っておられると信じます。それが神さまのなさり方だと信じます。

 ですから、神の戒めは恵みなのです。人間に祝福をもたらす戒めなのです。たとえば殺すな、盗むな、姦淫するな、嘘つくな。現実の世界では、これらの戒めが破られ、色々な不幸が起きています。罪がなせるわざです。みんなが、この戒めを守れば、安心して平和のうちに生きていくことができます。神の戒めは恵みであると受けとめるなら、喜んで、進んで守ることができると思います。私自身は、このような思いで神さまの戒めを守る努力をしています。

 すぐ上に「神さまは、神さまの方から恵みを与え、その恵みを感謝して人が生きることを願っておられると信じます」と書きました。これが神さまのやり方だと書きました。本当でしょうか。

 私がそう信じる第一の根拠は出エジプトの出来事です。エジプトで奴隷で苦しんでいたイスラエルの民をエジプトから解放し、自由に生きることのできる土地へと神さまはイスラエルを導きました。その彼らに十戒を与えました。

 第二の根拠は、言うまでもなくイエス・キリストによる救いです。イエス・キリストによる救いは、罪の赦しだけではなく、私たちを愛に生きることができるように導く救いだからです。

 第三の根拠は、神さまはこの私をこの救いへ導いてくださったからです。神さまが私たちに与えてくださるものはすべてよいものであると信じます。使徒パウロは「苦難をも誇りとします」と書いています(ローマ5:3)。それだけパウロは、主イエスが共におられることを知っているのだと思います。あやかりたいです。

現の証拠(ゲンノショウコ) 散歩道

 

人生航路の第二段階(47)神を愛する

 神の戒めで一番大切な戒めは、神を愛することです。神を愛するってどういうこと?神を愛するとき、どんな感情を抱くのか、昔考えたことがあります。答えは出ませんでした。そして今、考えながらこの文章を書いています。

 人を好きになる「好き」と「愛する」は違います。「好き」には、かなり感情が伴うように思いますが、「愛する」には、どんな感情が伴うのでしょうか。

 神の第一の戒めは、申命記に出てきます。

申命記 6:5
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 「愛しなさい」という命令は、人間の意志に訴えています。しかも「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くす」とあります。感情に強く動かされてのことではないと思います。強い意志を要求しています。

 人がこの「尽くす」努力をするとき、どんな思いを抱くのでしょうか。もし「いやいやながら」この努力をするとしたら、あるいは「そうしなければならない」という「強いられている」との思いを抱くとしたら、本当に神を愛していると言えるのでしょうか。

出エジプト記 20:6
わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

 神を愛する人は、神の戒めを守ることが想定されています。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神の戒めを守ろうとするとき、どんな思いを抱くのが、愛するにふさわしいのでしょうか。「いやいやながら」「強いられて」「そうしなければならない」というような気持ちで神の戒めを守る努力をするとき、それは神を愛しているとは言えないと思います。むしろ何かを恐れて悪いことが実現しないように、努力しているように思えます。

 むしろ「喜んで」「進んで」「自由な気持ちから」神の戒めを守る努力をするとき、神を愛するにふさわしいと言えるのではないかと思います。

 イエスのことを三度裏切ったペトロは、復活した主イエスから「あなたは私を愛するか」と尋ねられました。ペトロが「愛します」と答えると、また「あなたは私を愛するか」と尋ねられ、「愛します」と答えました。3回主イエスは問い、ペトロは3回「愛します」と答えました。正確に言えば、3度目は「私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」とペトロは答えました。

 この主イエスの問いには、主イエスを裏切ったペトロに対する赦しの思いが含まれていると思います。またイスラエルの民は、エジプトにおける奴隷状態から救われて、神からあの第一の戒めを与えられました。ですから神を愛するとき、大切な要素として「感謝の心」があるように思います。そして感謝には、ありがたい、うれしいという感情が含まれているように思います。

 神さまが「わたしを愛しなさい」と命じられるとき、そこには救いの出来事があり、神さまを愛するようにとの招きがあるように思います。そして私たちは感謝をもって、その招きに応え、神さまを愛するのだと思います。どうでしょうか。私たちの場合はもちろん、イエス・キリストによる救いの出来事があります。

野菊 散歩道