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隠退牧師 holala によるブログ

やもめの献金

 今日はマルコ福音書の12章でやもめの献金の話しを読みました。主イエスは弟子たちと一緒に人々が賽銭箱にお金を入れるのを見ていました。大勢の金持ちがたくさん入れていました。そこにひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を入れました。これは労働者の一日の賃金の1/64に相当します。仮に時給1000円で一日7時間で働くとすると一日の賃金は7000円、その1/64は110円ほど。わずかな額ですが、それはやもめの生活費全部だというのです。なぜ生活費全部を献げたのか、その理由は書かれていません。何かやむにやまれぬ理由があったのかもしれません。

 主イエスは弟子たちを呼び寄せ、彼女は誰よりもたくさん入れたと話します。他の人たちは有り余る中から献げたのに彼女は生活費全部を入れたからと。

 ただそれだけの話しです。この出来事は何を伝えようとしているのか、と思いめぐらします。主イエスは金持ちがたくさん献げていることを批判しているわけではありません。やもめのように生活費全部を献げることが大切なのだと教えているわけでもありません。主イエスは賽銭箱の向かいに座っていたので、人々がどれぐらい献げているのかが見えたのです。弟子たちはもしかしたら、金持ちがたくさん献げるのを見て、驚いていたのかもしれません。「すごいね、あんなにささげて。俺たちには無理だな」などと。そこで主イエスは、やもめの方が沢山献げたんだよと弟子たちに語ったのかもしれません。

 それでこの話は何を私たちに語りかけているのか、それとも主イエスと弟子たちは人々が献げるのを見ていましたと語るだけなのか。何のためにやもめの話が聖書に書かれているのか、と思案します。

 謎解きをするような感じです。ミステリーを解くような気持ちになります。こういうの、私は好きなんです。解けたら気持ちいいです。これが説教箇所だったら焦りますが、そうではないのでゆっくり思いめぐらします。幸い導かれて二つのことを思いました。

 一つは、自分はどんな気持ちで神さまに献げているのか、と献金を献げる自分の気持ちを見直してはどうか、と。

 二つ目は、主イエスはわずかな額しか献げていないやもめに目を留めている点です。おそらく弟子たちが金持ちがたくさん献げることに驚いていて、やもめが献げるのは見ていなかったと思います。どうせわずかしか献げないだろうと関心を示さなかったと思われます。しかし主イエスは彼女に目を留めていたのです。人々が関心を持たないし、顧みない人をも主イエスは心に留めて下さる、そんなメッセージを汲み取ることができます。

 そして主イエスは、平凡なこの私にも目を留めてくださる方であると考えると、うれしくなります。

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