クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(56)罪の支配、罪の奴隷

 イエス・キリストによる救いは罪の赦しだけではなく、罪の支配からの解放です。イスラエルの民のエジプト王の奴隷状態からの解放は、キリストによる救いが罪の支配からの解放であることを指し示すだけではなく、その解放がどのように実現するのかも共通しています。イスラエルの民の解放の時に指摘した四つのポイントがありました。

1.自分たちの無力を認めること
2.神の力に信頼すること
3.支配領域の外に出ること
4.解放を願う意志を持ち続けること。

 そこでキリストによる罪からの解放についてもこの四つのポイントが妥当することを聖書が語っています。その点を明らかにする前に、罪の支配下にあること、あるいは罪の奴隷であるとはどういうことかを明らかにします。

 まず、神さまは人間に自由意志をお与えになりました。自由意志を与えられているのなら、罪を犯さないことができるはずです。それなら罪をまったく犯さないで人は生きることができるのでしょうか。

 キリスト教の歴史の中で、この点についての論争がなされました。古代のアウグスティヌスと中世末期の宗教改革者ルターは、人は罪を犯さないで生きることはできないと主張しました。そしてそれは教会の信仰として受け継がれています。だからこそ、イエス・キリストによる救いがあるわけです。

 聖書はどう言っているのでしょうか。使徒パウロがローマの信徒への手紙7章でこう書いています。

ローマ 7:15~17
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

 「自分が望むこと」とは、律法の教えを実行することです。「憎んでいること」とは、その教えを実行しないことです。私たちの中に住んでいる罪のせいで私たちは律法の教えを守ることができない、とパウロは書いています。このような人は罪の支配下にある、罪の奴隷であるとパウロは語っています。

ローマ 7:19~20
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

 神の教えを守りたいと思うけどどうしても守ることができない、こういうことがあるとき、あなたは罪の支配下にある、あなたは罪の奴隷であるとパウロは語っています。そしてキリスト者はこれは真理として信じます。

 私たちの中に罪が住んでいるというのは一種の比喩です。私たちが罪の支配下にあること、私たちが罪の奴隷であることをたとえた表現です。

 神の教えを守りたいと思っても守ることができない、それを罪の支配下にある、あるいは罪の奴隷であると聖書は語っています。

 私にはどうしても赦せない人がいる、と語る人は、「赦しなさい」という神さまの教えを実行できていないので、罪の支配下にあり、罪の奴隷であると言うことができます。

 このような罪の支配下にある私たち、罪の奴隷である私たちをイエス・キリストは、罪の支配から解放してくださいます。私たちを自由にしてくださいます。

タチツボスミレ 秋の出会い

 

信徒の忘れられない言葉(11)

 20年以上も前のことです。老いた女性の教会員が施設で生活をしていました。彼女を訪問したとき、彼女が言うのです。「私の枕元にイエス様がおいでになったのです。それで私は、いつ召されてもいいと思っています」。
 この姉妹は、若いときからの信仰者で、信仰生活の長い方です。老いて自立の生活がむずかしく施設にお世話になっています。その方が「イエス様が枕元においでになった」と言われるのです。私はそんなことが起きるわけはないと否定する気持ちにはなりませんでした。あっても不思議ではないと思います。神さまにはすべてが可能です。彼女は夢を見たのかもしれませんし、本当に主イエスがおいでになったのかもしれません。本当のところは分かりませんが、このことが彼女の晩年の日々を支えたことは確かだと思います。何年かの後、姉妹の葬儀を執り行いました。

 私の身にも姉妹と同じようなことが起きたらいいなという思いはあります。もし起きたのなら、私は大いに喜びます。それはそれとして忘れることのできない言葉です。

「私の枕元にイエス様がおいでになったのです」。

ナンキンハゼの紅葉と実



 

人生航路の第二段階(55)神による解放のポイント

 イスラエルの民の奴隷状態からの解放、これはイエス・キリストによる罪からの救いのモデルでした。つまりイエス・キリストによる救いは、罪の赦しだけではなく、それを越えて罪の支配からの解放です。

 そればかりではなく、神による解放がどのようになされるのか、それも共通しています。それを明らかにすることは罪からの解放を福音として受けとめ、この福音に生きるために大切なこととなります。

 そこでイスラエルの民がエジプト王の奴隷から解放されたときのことを思い起こすことが大切です。そこには4つの大切なポイントがあります。

 まず第一に、イスラエルの民は、自分たちの努力では、自分たちを解放することはできなかったということです。彼らには自分たちを解放する力がなかったということです。無力であったということです。自己の無力さを認める、これが解放のために必要なことです。

 第二に、神の力に頼るということです。自分たちは無力なので神の力にすがるということです。神の力はエジプト王の力に勝り、神は自分たちを解放してくれると信じることが大切でした。モーセは神の力を信じ、神に信頼し、イスラエルの民を導きました。

 第三に、エジプト王の支配領域から出ることです。エジプトの領土から出れば、エジプト王の支配はありません。支配領域から出ること、これが大切です。エジプト王の支配力が大きく、その領土がどんなに大きく、広くても、その領土の外に出れば、エジプト王の支配を受けないですみ、その支配から解放されます。神はエジプトで色々な災いを行い、イスラエルにエジプトを出て行くよう、エジプト王が命令するように仕向けました。

 第四に、解放を願う者は、本気で願うことが大切であり、時に本気で願っていることを態度で示すことが大切だということです。

 イスラエルの民がエジプトを出て約束の地を目指して旅を始めました。するとエジプトの王は、イスラエルの民を追い出したことを後悔し、連れ戻そうとして追いかけます。そこに神さまの計画があったことは出エジプト記14章を読めば分かります。

 イスラエルの民は海辺で宿営することになりました。するとエジプトの軍隊が背後から迫ってくるのに気づきました。前は海、後ろはエジプト軍。恐れに囚われたイスラエルの民は、エジプト王の奴隷のほうがましだ、なんで自分たちをエジプトから連れ出したのだ、と文句をいう始末です。

 本気でエジプト王の奴隷状態からの解放を願うなら、この場面で神に助けを求めることが必要でした。イスラエルの民は、エジプト王の支配からの解放を本気で願っているかどうか、試されたことになります。モーセは民に言います。

「今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」(出エジプト記14:13)。

神はイスラエルのために働き、エジプト軍は敗退し、イスラエルの民は約束の地を目指して旅を続けました。神による解放を得るためには、4つのポイントがあります。

  1. 自分たちの無力を認めること
  2. 神の力に信頼すること
  3. 支配領域の外に出ること
  4. 解放を願う意志を持ち続けること。

 そしてこの4つのポイントは、罪の支配から解放されるためにも必要です。この4つが揃えば、罪からの解放は実現します。

野ブドウ 散歩道



 

終末の到来

 今日はマルコ福音書13章28~31節を読みました。

マルコ 13:28~31
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

 主イエスはいちじくの木から教えを学ぶようにと語られました。いちじくの葉が伸びれば夏が近づいたことが分かります。同じようにイエスが語った出来事、たとえば苦難の到来を経験すれば、主イエスが雲に乗っておいでになるのは間近であることを知るようにとの主イエスの教えです。

 主イエスの時代から、二千年が過ぎてもまだ終末は来ていません。主イエスが語った終末の教えをどう受けとめたらいいのでしょうか。主イエスの教えは間違っていたのでしょうか。それともなお正しいとして信じたらよいのでしょうか。

 歴史の中で、教会は終末の到来を信じてきました。使徒信条にも、「かしこよりきたりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」とあります。

 大切なことは、自分が信じられるから信じる、信じられないから信じないと、自分を基準に判断することの妥当性です。自分が信じられないことの中には、信じない方がよいこともあります。人を惑わす宗教があり、それらは信じない方が正解です。大切なことは、信じる信じないの根拠、基準をどこに置くかではないかと考えます。

 主イエスは語ります。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。「わたしの言葉は決して滅びない」、これは重い言葉です。主イエスの言葉こそ、信仰の基準の言葉であることを示しているように思います。主イエスが語ることを信じたい、私はそう考えます。まずは主イエスの言葉が真理であると考えて進みたいと思いました。

 なぜ終末が遅れているのか。これは新約聖書の中ですでに問題とされています。

ペトロ二 3:8~10
愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。

 終末が遅れているのは、ひとりも滅びないでみなが悔い改めるのを神が待っているからとあります。時の流れの中で、次々と人が生まれ、死んでいきます。地球上に主イエスを信じる人が満ちることが果たしてあるのでしょうか。

 目の前にいちじくの木はなくても、時代の流れ、歴史があります。現代も人間の罪が満ちて世界に混乱を招いています。戦争が起きていて、世界の平和は遠のいています。そしてさまざまな分断が顕著になってきています。主イエスは、敵意という隔ての中垣を壊すためにおいでになったのに、分断による隔ての中垣が、あちこちに、そして高く厚い壁が築かれている現代です。

 神による終末が来なければ、人類は自ら滅亡を招くのではないか。そんなことも感じさせる現代です。私は終末が来て、神さまがきちっと決着をつけてくださることを願います。

野菊(ノコンギク)

 

人生航路の第二段階(54)解放としての救い

 罪に対して死んで罪から解放されることを考える前に、解放と自由こそ神の救いであることを確認したいと思います。

 旧約聖書にある出エジプトの出来事は、とても大切な物語です。この出来事を通して、神の民イスラエルが誕生しました。そしてイエス・キリストの十字架の出来事を通して新しい神の民、神のイスラエル(ガラテヤ6:16)、キリストを信じる群れ、教会が誕生しました。

 出エジプトの出来事は、神の民は捕らわれから解放された自由な民であることを伝えています。そしてこれはキリストを信じる群れもまた捕らわれから解放された群れであることを指し示しています。出エジプトの出来事はキリストの出来事を指し示すという意味で、とても重要です。

 イスラエルの民は、エジプト王の奴隷となっていました。彼らはつらく苦しい生活をしており、神に助けを求めて叫びました。そして神は彼らの叫びを聞き、彼らをエジプト王の支配から解放しました。そしてイスラエルの民はエジプトを脱出し、神に導かれて、自由に生きることのできる土地を目指して荒野を旅しました。イスラエルの民は、エジプト王の支配、エジプト王の奴隷状態から解放されました。そしてシナイ山の麓で、神の民として生きることを選びました。神はイスラエルの民の神となり、イスラエルの民は、神の民として生きることとなりました。

 イスラエルの民がエジプトを脱出する前夜、神はエジプトに大いなる災いをもたらしました。エジプト人の家では、その家に最初に生まれたものが皆死ぬという災いです。しかしイスラエルの民は、小羊を屠り、その血を家の入り口に塗るように神から命じられました。神の災いは、その血を見て、イスラエルの家を避けたのです。小羊の血により、イスラエルの家は神の災いを免れ、エジプトを脱出し、エジプト王の支配から解放されました。

 そしてキリストは神の小羊として罪の贖いのために十字架につけられました。キリストを信じる者を罪から解放するためでした。出エジプトの出来事は、キリストを信じる群れ、新しい神の民は、罪から解放された民であることを指し示しています。ここに出エジプトの出来事の意義があります。

 イスラエルの民は、エジプト王の支配領域の外に出ました。それでエジプト王の支配から解放されました。エジプト王の奴隷状態は終わりました。

 聖書には、エジプト王が軍隊を率いてイスラエルの民を連れ戻しに追いかけてきたことが書かれていますが、神は、エジプトの軍隊を全滅させ、イスラエルを守ったことが書かれています。

 解放と自由こそ神の救いです。

山里のウォーキングにて 野菊

 

老いて初めての経験

 夏から秋になり、あっという間に秋は深まりました。急に寒くなったと感じます。先日ふと気づくと首回りが冷えるというか、寒いなと感じました。それでマフラーで首を巻くと寒さは感じなくなりました。首から寒さを人は感じるのかと思うと同時に、自分は老いたので、このように寒さを感じるのかと思いました。首で寒さを感じる、これは初めての経験でした。そして毎日の経験となりました。

 妻にそのことを話すと、妻は自分の子供の頃のことを話してくれました。妻は標高1,300m位の場所にある村に育ちました。夏も終わりになるとおじいさんたちが首にマフラーを巻いていたのを思い出すわ、年とって寒かったのね、と話してくれました。妻が幼い頃に見たおじいさんに私はなっていたのです。

 ネットで「年寄り、寒がり」で検索すると、年を取ると筋肉量が減ること、そして筋肉には寒さに対する体の断熱材としての役割があるとのこと。納得しました。毎朝、血圧と体温を測っていますが、若い時の体温の36.5度になることはありません。体温も低くなっています。

 年をとって初めてのことをこれからも経験していくのだと思います。

お茶畑 家から車で15分の散歩道で

 

人生航路の第二段階(53)罪に対して死ぬ

 パウロがキリスト者がキリストに結ばれていることを語ったのには理由があります。パウロはローマの信徒への手紙3章でイエス・キリストを信じる者は、その信仰によって義とされると語りました。人は律法の行いによるのではなく、信仰によって義とされると教えました。義とされる、これは神の恵みです。

 するとひねくれた考えをする者が言います。「恵みを得るために罪を犯そう」。パウロはこのような人が出ることを予想して言います。

ローマ 6:1~2
では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。

 キリスト者は罪に対して死んだので、罪の中にとどまることはできないと語ります。そして続けて3節でキリスト者はキリストに結ばれていると語ります。キリストに結ばれたキリスト者は罪の中に生きることはできない、と語っていることになります。

 ここで注目すべきことは「罪に対して死んだ私たち」とあることです。「罪に対して 死ぬ」というのは珍しい表現です。「死ぬ」という言葉には、「病気で死ぬ」「交通事故で死ぬ」など死んだ理由を示す言葉を伴う表現が普通です。「病気に対して死ぬ」「交通事故に対して死ぬ」と言われても、意味は分かりません。「罪に対して死ぬ」という表現も意味が分かりにくいです。

 そこで6章をさらに読みます。聖書は聖書によって解釈します。7節にこうあります。

6:7
死んだ者は、罪から解放されています。

 「罪」という言葉には、人間に罪を犯すように働きかける力という意味があります。「罪の中にとどまる」とは、罪の力に負かされて罪の支配の中に生きることを意味します。

 キリスト者は罪に対して死んでおり、罪から解放されているので、赦しの恵みを得るために罪を犯そうなどとは考えるはずがない、とパウロは述べていることになります。

 罪が、罪を犯すように働きかける人間は生きている人間です。死んだ人間にいくら罪を犯すように働きかけても効果はありません。死んだ人間は罪の働きかけ、あるいは罪を犯すように支配する力を受けることはありません。死んだ人は罪を犯すよう働きかける力とは無縁です。言い換えると死んだ人は罪を犯すよう働きかける力から解放されている、そのことを現すために、「罪に対して死んだ」という表現が用いられています。

 キリスト者はキリストに結ばれており、キリストと共に死にました。その結果、キリスト者は罪に対して死んだというのです。

6:4
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。

 キリスト者は洗礼によってキリストに結びつけられ、キリストと共に死に、罪に対して死に罪から解放されました。キリストの十字架の死は、罪の赦しをもたらすだけではなく、罪の支配から解放する死でもあったとパウロは語ります。

讃美歌124番
つながれしつみびとを はなちます君よ
カルバリにくるしめし 人のつれなさよ
住みたまえ、きみよ ここに、この胸に

コスモスの双子ちゃん