クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(52)キリストに結ばれる

 牧師として働きをしているとき、毎週の説教に追われる面がありました。聖書の深みを追求することがなかなかできませんでした。牧師を引退したので、それが可能となりました。それで取り組んでいるのがローマの信徒への手紙です。今、6章にある言葉に注目しています。

ローマ 6:3~4
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

 ここでキリスト者は、キリスト・イエスに結ばれた者であると書かれています。このキリストに結ばれた者であるということは、とても大切なことだと考えます。キリスト者は自分がキリストに結ばれていることを信じることはとても大切なことだと考えます。なぜ大切なのか、どれほど大切なのか、それを思いめぐらしています。信じることが大切だと言われても、信じるのは簡単ではないように思います。

 ガラテヤ書にはこう書かれています。

3:26~27
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

 キリスト者はキリストに結ばれて、神の子であること、そしてキリストを着ているとあります。私はある時から、キリスト者の自分は神の子とされていると信じ、神の子らしく生きて行こうと考え、聖書を読み、神さまの御心を大切にし、御心に従おうと生きてきました。ですから、自分が神の子として生きようとしているのは、自分がキリストに結ばれているからなのだと考えることができるようになりました。

 キリストを着ているとは、おそらく、キリストに結ばれることによって与えられる恵みを受けていることをたとえた表現と考えることができます。恵みの一つの例としてたとえば神の独り子であるキリストに結ばれた私は神の子とされている。

 私が、自分がキリストに結ばれているとはっきりと自覚したのは、最近のことです。ローマ書の6章の言葉を読む中で、自分はキリストに結ばれていると考えるようになったからです。私の場合は、キリストに結ばれた場合に与えられる恵みをすでに受けていることを知っているので、そうなんだ、自分はキリストに結ばれているんだと考え、信じるようになりました。

京都・賀茂川での散策

 

主イエスの厳粛な言葉

 朝食後、マルコ福音書13章14~23節を読み、思いめぐらしました。主イエスは弟子たちに世の終わりについては話されました。今日の箇所は、世の終わりが来る前に大きな苦難が訪れると主は語られました。

 最初に憎むべき破壊者が立ってはならないところに立つのを見たら、とあります。これは異教徒の権力者がエルサレム神殿を荒し、神殿を冒とくすることを意味します。これをきっかけに苦難が始まります。

 その苦難は、天地創造の時から今までに起きたことがないほどのものであり、また今後も起きることがないほどの苦難とされます。これは人為的な苦難というより、自然災害を予想させます。

 「山に逃げなさい、畑にいる者は家に帰ってはいけない。屋上にいる者は下に降りてはいけない、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ、しかも冬に起こらないように祈りなさい」という言葉で思い起こすのは津波です。パレスチナで津波という災難が知られていたのかどうかわかりません。日本人としては、地震の結果起きる津波を思い起こします。その時は命を守るためには、それに徹しなければならないと教えられます。

 またこのような苦難の時、偽メシアが登場するので気をつけるべきことも主イエスは語られました。偽メシアはしるしや不思議な業を行うので多くの人々が惑わされます。

 そして最後に主イエスは、「一切のことを前もって言っておく」と語ります。これは無視できない言葉、厳粛な言葉と受けとめます。

 現代人にとって、このような終末に起きるとされることを告げられても絵空事に思えてしまいます。バカバカしいと信仰を持たない人は言うかもしれません。しかし私は信仰者です。主イエスが厳粛に語られた事をまず受けとめたいと思います。主イエスが厳粛な事として語られたことを、自分が信じられるか否かという基準で判断し、主が語られた事を受けとめるか否かを決めるのはどうなのでしょうか。自分の気持ちには正直かもしれませんが、自分を中心に考えると大切なことを見失うかもしれません。私は自分が信じられなくとも、まずは主が厳粛に語られたこととして受けとめたいと思います。自分の考えは何かあれば変わる可能性もあります。

 苦難の時、偽メシアが登場し、人々を惑わすとあります。しるしや不思議な業を行うとありますから、多くの人は惑わされるでしょう。だから惑わされない者になりたいと思いました。そのためにはやはり御言葉に親しみ、信仰に立つことが大切と思います。礼拝を大切にし、聖書を読み、キリスト教の基本的な教理は身につけたいと思わされます。

コマツヨイグサ 散歩道

 

福音宣教のための祈り

天の父なる神さま
あなたの御名を崇めます。
天の父よ、あなたはこの世界をどのようにご覧になるのでしょうか。
かつてあなたが世界をご覧になったときのことが創世記6章に書かれています。
「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」とあります。
この時と、現代とどのような違いがあるのでしょうか。
現代世界はさらにひどい状態にあるのではないでしょうか。
しかしあなたは「人が心に思うことは、幼いときから悪い」ことを承知しておられます。
そしてこの世界の状況がどうであれ、
あなたは滅ぼすことはしないとおおせになりました。
あなたはイスラエルの民に十戒をお与えになりました。
この世界では、国家の指導者が戦争を起こし、
相手国の民間人の命を平気で奪い、
自分の立場を正当化するために偽りを語ります。
この日本でも、殺人事件は頻繁に起きており、
盗みや貪欲な犯罪の報道もあふれています。
性的な混乱は姦淫だけではなく、さまざまな面で人格を踏みにじることが起きています。
十戒が守られない現実が目の前にあふれています。
しかし世界は、悔い改める方向に動くことはありません。
あなたを信じることは愚かにさえ見えるのでしょうか。
キリスト教国と呼ばれた国々では、あなたを礼拝する人々が減少していることを聞きます。
本当に残念なことです。
世界の混乱は、人間の罪が原因となっていることは明らかです。
人間の知恵で世界の状況をよくすることができないことは明らかです。
福音が広くあまねく宣べ伝えられることを願います。
キリストの福音を宣べ伝える教会の働きを導いてください。
すべての教会の礼拝で、福音が余すところなく説教されるように導いてください。
イエス・キリストだけが私たちの救い主です。
キリスト者たちの歩みを祝福し、導き、
キリストの証人としての歩みを励ましてください。
天の父よ、
あなたは忍耐深いお方です。
人類が悔い改めるのを待っておられるのかもしれません。
よほどのことがないと人類は悔い改めないように思います。
この世界を、人類を憐れみ、お救いください。
イエス・キリストの御名により祈ります。

キンモクセイ いい香り 馬見丘陵公園

 

今日の祈り

天の父なる神さま
あれから8ヶ月が過ぎました。
ロシアがウクライナに軍事侵攻を始めてから
8ヶ月が過ぎました。
ウクライナの人たちが安心して生活できる日が来るように祈り始めてから
8ヶ月が過ぎました。
ロシアの権力者たちの身勝手な言葉を聞き始めてから
8ヶ月が過ぎました。
ウクライナの指導者たちのロシアの強引な侵略に屈しない姿を見て、
8ヶ月が過ぎました。
戦争が多くの人命を奪い始めて
8ヶ月が過ぎました。
短くもあり、長くもある8ヶ月が過ぎました。
天の父なる神さま、
一日も早い解決を望みます。
ひとりの傲慢な権力者が始めた身勝手な戦争を
終わらせてください。
この権力者の野望に犠牲となる人が
もう生じないように、
導いてください。
この戦争のために悲しんでいる人、涙を流している人、
嘆きの中にある人を顧みてください。
そして喜びと安心を回復してください。
平和をもたらすためにおいでになった
イエス・キリストの御名により祈ります。

 

世の終わりを覚えて生きる

 マルコ福音書のディボーションは13章まで進みました。13章で主イエスは、世の終わりについて語られます。世の終わりが来るまでに起きることを色々語り、世界が創造されたとき以来、起きたことのないような苦難が地上に起こり、その後、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを人々は見る、と語られました。主イエスは世の終わりに、今一度この世界においでになると聖書は語ります。

 現代人である私は最初、聖書が語る終末の事柄つまりキリストの再臨、最後の審判などどうしたら信じることができるのかと悩みました。自分が信じることができることは信じ、信じられないことは信じないというのは、聖書が告げる信仰ではありません。そして信じたいと思っても、すぐに信じることができるわけではありません。ある時パウロが次のように書いていることに気づきました。

ローマ 6:11
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 パウロは、「信じなさい」と語らず、「考えなさい」と述べています。そうか、と思いました。キリストの再臨を信じることができなくても、キリストの再臨があると考え、信仰者として生きていけばよいと思いました。そうしているうちに信じることができるようになるのではないかと考えるわけです。

 もう一つ、漠然と終末の到来を考えるのではなく、その時何が起きるのかを具体的に知ることは終末を受け入れやすくすると考えました。最後の審判については、私はイエス・キリストを信じることによって義とされているので、この審判を恐れる必要はないことを知ります。

 終わりの日、すでに亡くなったキリスト者は神の国に迎えられるために、復活します。その時、「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」(コリント一15:52)。フィリピの信徒への手紙にはこう書かれています。

フィリピ 3:20~21
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

 キリスト者である私たちは、キリストの栄光あるからだと同じ形に変えられるとあります。それなら、今自分はどう生きたらよいのか、と考えます。さらにヨハネ一3章。

ヨハネ一 3:2~3
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

 キリストの再臨がある、終末が来ると考える私は、御子に似た者となることを志し、自分を清め、再臨、終末に備えたいと考えています。

馬見丘陵公園 ダリア畑



 

老いの恵み

 先日、自分の老いをまざまざと感じさせる出来事がありました。自動車の免許の更新のために、認知技能検査を受けるように通知が来ました。認知症の心配はないと判断され、次は高齢者講習会です。簡単な講習を受け、実際に運転をしてチェックされました。これは講習なので、合否はなく、運転の問題点の指摘を受けました。最後は視力の検査。4つの項目の検査があり、総合評価は、5段階評価でオール1。免許の更新できるのかと不安になりました。

 免許の更新には、70才以上の人には高齢者講習が必要で、75才以上の人はさらに認知技能検査が必要となっています。高齢者の交通事故が報道される中、必要なことだとは思いますが、身体能力の衰えを実感させられます。老いた人間は弱さを背負うことになったということでしょうか。運転する場合は、他の人よりより大きなリスクを背負うことになります。

 老いて弱さを抱えることを情けないなと感じる人もいることと思います。私も少し感じます。あらためて自分が弱くなり足りない点が増えることは、人間としての価値、存在意義が薄れることにはならないと考えます。老い、これは人間の一つの存在の仕方であり、老いのゆえに考え方、生き方、生活が変わる面はあると思いますが、自分を低く評価する必要はないと思います。老いた人がもつ経験の豊かさ、身につけた知恵、信仰は敬うべきものがあります。

 信仰的に考えれば、生きる支えとして聖書をよく読み、また讃美歌を歌い、祈り、神との交わりが深まる時期ではないかと思います。弱さがあるゆえに神との関わりが真剣になるのは恵みだと思います。このような恵みの豊かな老いを生きていきたいと願う今日です。

 老いて初めて気づいたことがあります。それは讃美歌には、老いの中にある人の思いが歌われていることです。これは老いた者には、励ましであり慰めです。最近気に入っている讃美歌の歌詞を紹介します。

讃美歌11番3節。
生くるも死ぬるも ただ主を思う
ゆるがぬこころを あたえたまえ

 何があっても動じない心ではなく、神への信頼の中で揺るがぬ心がどんなものなのか、味わいたいです。

馬見丘陵公園 コキア(別名 ホウキギ)

 

信徒の忘れられない言葉(10)

 これは私の知人のクリスチャンの言葉です。先日、ふとしたきっかけで思い出したので、書いておきたいと思いました。

 今から30年も前になります。私の父がガンを再発した時、私は父に浜松にあるホスピスに入院してもらいました。

 妻は末っ子を連れて毎週、私は一週おきに御殿場から浜松まで見舞いに行きました。見舞いのつど、昼食は父と一緒に病院の外で食べました。父は幼い孫と一緒に時間を過ごせるのを楽しみにしてくれました。やがて最後の時を迎え、浜松で火葬に付しました。葬儀は父が所属する東京の教会で行いました。

 しばらくして火葬でお世話になった方が入院されたと聞いて、私は見舞いに行きました。ガンで入院されました。クリスチャンの知人でしたので、私は率直に「今どんなお気持ちですか」と聞きました。すると「治るのもよし、とこ世の朝に目覚めるもよし」と答えられました。

 「とこ世の朝にめさむる」は讃美歌30番にある言葉です。「かがやくとこ世のあした、わがたまめさむるとき」。ああ、この方は、讃美歌を支えにしておられると思いました。「治るのもよし、とこ世の朝に目覚めるもよし」、忘れられない言葉です。

讃美歌30番(あさかぜしずかにふきて)

かがやく とこ世のあした
わがたま めさむるとき
この世の 朝よりきよく
あおぎみん 神のみかお

コスモス 散歩道