クリスチャンが元気になる holalaのブログ

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人生航路の第三段階(12)聖書が語る永遠の命

私たちが神と結ばれていること、キリストと結ばれていること、これが永遠の命であると考えます。キリスト者が永遠の命を与えられて今を生きるとは、今、神との交わりに生きることです。2月9日のブログから。

 永遠の命とは私たちが神と結ばれていること、キリストと結ばれていること、と書きました。私なりの定義です。永遠の命という言葉から連想しにくい定義かもしれません。聖書は、信仰とは、神との交わりに生きること、神と結びついて生きることと教えています。

 神から造られた人、アダムとエバはエデンの園で生活していました。彼らは神との交わりの中に生きていました。でも彼らは、神の警告に背いて、採って食べることを禁じられた木の実を食べ、エデンの園から追放されました。彼らは、神との交わりを失ったのです。

 エジプトで奴隷であったイスラエルの民は、奴隷の苦しみから解放され、シナイ山の麓で神と契約を結びました。その契約の内容は次のようなものだと考えます。

  • 神は、私はあなたたちの神となると約束します。
  • イスラエルの民は、私たちはあなたの民となると約束します。

 神と民が以上のことを誓約し契約が成立します。出エジプト記では、イスラエルの民は「わたしたちは主が語られた言葉をすべて行います」と誓約して、神との契約を結んだと書かれています。出エジプト記24章。

 旧約聖書によれば、その後のイスラエルの民は偶像礼拝を行い、神に背いた歩みをしたこと、預言者を通して神に立ち帰るように神は語られましたが、イスラエルの民は神に立ち帰ることなく、イスラエルの国家は滅びました。

 イスラエルの国家が滅んだバビロンの時代、神は預言者エゼキルを通して次のように語られます。イスラエルの回復を約束する言葉です。

「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(エゼキエル11:20、14:11)。

 あるいは、エレミヤを通して次のように語られます。

「わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰ってくる」(エレミヤ24:7)。

 そしてイエス・キリストが救い主としておいでになりました。それはイエス・キリストを信じる人たちを神との交わりに迎えるためでした。

ヨハネ 17:3
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

 この場合の「知る」とは、神との交わりの中で神を知っていくことを指しています。神と結びつき、神との交わりを持ちながら日々歩み、神を知り、神を証しできること、それが永遠の命を与えられてるということです。

ローマ 8:35
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

ローマ 8:38~39
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 ローマ書の「引き離すことはできない」は、神とキリスト者の結びつきが絶対のものであることを意味します。つまりキリスト者が神との結びつきという永遠の命を与えられていることを示しています。

タンポポ 春の到来、散歩道

 

 

 

葬儀に出席しての気づき

 今日は奈良高畑教会で行われた葬儀に出席しました。共に日曜礼拝に出席していたTさんの葬儀でした。昨年秋の11月に緩和病棟に入院されたと聞きました。緩和病棟ですから、痛みをケアしながら最後を迎えることになります。余命一ヶ月と医師から宣告されましたが今月7日に亡くなられました。

 キリスト者が人生の最後をどのように迎えるのか、Tさんの歩みは模範と私は受けとめました。葬儀の式辞で故人の略歴と愛唱讃美歌、大切にされた聖句が紹介され、Tさんの人生について紹介がありました。Tさんはこれらの情報を牧師に伝えていたとのことです。自分の葬儀の備えをしておられたのです。私も牧師として葬儀をしてきましたが、このような備えをされた方は少なかったように思います。Tさんは生涯の最後を覚悟をもって過ごされたことが分かりました。祈祷会でもTさんのことは報告され、皆で祈ってきました。

 Tさんが大切にしてきた聖句として紹介されたのがロマ書5章の言葉です。

ローマ 5:3~5
わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。

 この聖句は、Tさんの人生を支える聖句でした。入院されているとき、「大きな気づきが与えられました」と牧師に語られました。Tさんはその人生の中で、この聖句を支えにして自分の努力で忍耐をしてきたとのこと。しかし入院する中で不安が心を支配し、眠れぬ夜を過ごすこともあったそうですが、神にゆだねて忍耐することに気づき、平安を与えられ、ぐっすり眠ることができるようになった喜びを牧師に語られたことが紹介され、心に残りました。

 Tさんは入院したときは、吐き気に悩まされました。やがて吐き気はおさまり安定した日々を過ごされました。そしてついにまた体調が悪くなり、亡くなられました。

 最後に苦しむのってつらいなと思いましたが、ふと思いが与えられました。そうです、主イエスは十字架の上で苦しみながら、苦しみの果てに亡くなりました。死の間際の苦しみはない方がいいに決まっています。でも主イエスに救われた者として、苦しみのある最後は、主イエスの最後に倣うものとして、光栄に満ちた最後ではないかと思いました。病気からくる苦しみの中で亡くなることは、主に倣う最後を迎えることと思えば、その苦しみの忍耐は神の国に迎えられる希望につながると思いました。この気づきはTさんからの贈り物と受けとめました。

椿 散歩道

 

 

人生航路の第三段階(11)永遠って何?

 キリスト者は信仰を得たときから永遠の命を与えられています。

ヨハネ 6:47
はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。

 そして肉体の死後も、永遠の命を持っています。人は死んだら、肉体も魂も消えてなくなります。魂は不滅ではありません。聖書によれば、人は土から造られ、死んだら土に帰ります。何も残りません。体と共に魂も消えてなくなります。それでは人が死ぬ前も、死んだ後もキリスト者は何を持ち続けるのでしょうか。言い換えると永遠の命とは何か、です。

 洗礼を受けたキリスト者はキリストに結ばれるとあります。

ガラテヤ 3:26
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。

 人は死んだら、キリストと結ばれたこの絆、切れてなくなるのでしょうか。キリスト者がキリストに結ばれているのは、地上の生涯を歩んでいるときだけなのでしょうか。キリスト者は神の子とされ、神を天の父と呼びます。神がキリスト者の天の父となってくださいました。神がキリスト者の父となってくださるのは、キリスト者が地上の生涯を歩んでいるときだけなのでしょうか。

 違うと考えます。キリストは私たちの生死を超えて私たちの主イエス・キリストです。神は私たちの生死を超えて天の父なる神です。私たちは生死を超えて、神の御前に神の子です。神は永遠なる方です。この神に結ばれた私たちは、死んだ後もなおも神に結ばれています。つまり神と私たちの関係、キリストと私たちの関係は決してなくならないのです。キリスト者は神さまとの交わりに生きます。この交わりは、キリスト者の死をもって終わることはないと考えます。

 私たちが神と結ばれていること、キリストと結ばれていること、これが永遠の命であると考えます。キリスト者が永遠の命を与えられて今を生きるとは、今、神との交わりに生きることです。

 私たちは地上の生涯を終えれば、体も魂も消えてなくなります。しかし神と私たちの絆は消えません。終末が到来し、私たちが復活するとき、私たちは霊の体を与えられて復活し、神との交わりに生きることになります。神の国においても神はやはりキリスト者の父なる神であり、キリストは主なるキリストです。

 永遠の命を信じるとは、神との交わりに真剣に生きることだと考えます。

オオイヌノフグリ 春一番の花 散歩道



 

人生航路の第三段階(10)永遠の命に生きる

 キリスト者は永遠の命を受け取ることが約束されています。

ヨハネ 3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 キリスト者は死んでも神の国に迎えられ、死んで終わることはありません。神の国で生きることになります。永遠の命とは、死んだ後の命であると考える人もいると思います。しかし聖書はキリスト者は永遠の命を得ていると教えています。永遠の命について主イエスはこう語っています。

ヨハネ 6:47
はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。

 キリスト者は死んだ後に永遠の命に生きるのではなく、キリストを信じたら永遠の命を与えられていると主イエスは語ります。キリスト者は、キリストを信じたときに永遠の命を与えられ、また肉体の死を越えて、なお生きることになります。

ヨハネ 11:25
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。・・・

 永遠の命とは何なのでしょうか。

 私たちは命を与えられてこの世に誕生します。この場合の命は生物としての命です。命があることは心臓が動いていることで分かります。心臓が動かなくなれば命は失われ死んでしまいます。命があるということは、そこに生命活動があることを意味します。私たちは毎日生きて生活をしています。これは生命活動です。ですから永遠の命の場合にも、そこに生命活動があるはずです。

 キリストを信じていない人とキリストを信じる人の違いは何でしょうか。永遠の命を持っている人とそうでない人との違いは何でしょうか。特に目に見える違いは何でしょうか。

 この違いを生み出すもの、それが永遠の命と言ってよいと思います。永遠の命を与えられていることは生き方となって現れ、それがキリスト者でない人たちとの違いを生み出しています。違いの典型は礼拝です。キリスト者は日曜日に神を礼拝します。なぜ礼拝するのでしょうか。礼拝は、永遠の命の生命活動と言うことができます。

 あるいは聖書を読み、神の言葉と信じて、神の言葉に従おうとします。あるいは神に祈ります。これらも永遠の命の生命活動と考えることができます。

 私たちはキリスト者になったら、キリスト者として行動すべきと考えて、礼拝に出席し、聖書を読み、祈るかもしれません。だから信仰生活は自分の意志で行っていると思われるかもしれません。永遠の命に生かされているとは思わないかもしれません。確かにそういう面があります。

 しかし永遠の命を与えられたので信仰生活が始まったことも確かです。永遠の命に活かされているからこそ、信仰生活が続きます。キリスト者の努力だけで、信仰生活が続くのでしょうか。永遠の命に生かされているからこそ、信仰生活は続いているのではないでしょうか。

 私には永遠の命が与えられている、私は永遠の命に生かされている!

ボケの花 馬見丘陵公園

 

老人キリスト者の特権

 今週は詩編90編を読んでいます。

【祈り。神の人モーセの詩。】
主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。
あなたは人を塵に返し/「人の子よ、帰れ」と仰せになります。
千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。
あなたは眠りの中に人を漂わせ/朝が来れば、人は草のように移ろいます。
朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい/夕べにはしおれ、枯れて行きます。

 以前から黙想したいと思っていた詩編です。人生は短くはかないとあります。昔は寿命が短く人生は短いと感じられたようです。平均寿命が44歳だとしたら、人生は短いです。この詩篇には「人生の年月は70年ほどのものです」とあり、私たちが読むとそうだと思いますが、実際は違うようです。聖書にはイスラエルの王の記録が書かれています。ダビデ、ソロモン、レハベアム・・・・。この王たちの寿命を平均すると44歳だそうです。

 私は今76歳。過ぎ去ってみれば人生は短いと思います。でも残りの人生があります。どれくらいの長坂は分かりません。老いの日々は単調です。特にコロナ禍、自粛生活が続きます。いつまで続くのかと考えます。人生は短くはかないとは思いません。イエス・キリストを信じたおかげで人生は空しいともはかないとも思いません。充実した人生を与えられたと思っています。そして今、単調な日々を過ごしていますが、この詩篇を思い巡らしながら、思ったことは老人の特権です。

 老人の特権、それは死を越える希望を聖書を読みながら黙想することです。若い時は今生きることに集中します。老いてこそ、死を越える希望を聖書を通して確かにする喜び、幸いがあるように思います。この詩篇を思い巡らす中で与えられた思いです。聖書には、死を越える希望を語る言葉が幾つもあります。一番の楽しみはこれです。

コリント一 13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

神を見る楽しみです。

馬見丘陵公園梅林

 

信仰者の交わり

 今日教会で葬儀が行われました。牧師を隠退し葬儀を司式することはなくなりましたが、一つ心に残ることがあります。伴侶を喪った教会員へのフォローをどうしたらいいのか、それが問いとして心に残っています。

 夫婦であれば、どちらかが先に召され、残された方はひとり暮らしとなります。核家族化した現在、ひとり暮らしをすることが多いと思います。伴侶喪失の悲しみを背負っていくことになります。高齢化した教会には、このようにひとり暮らしをする教会員が何人もおられます。人は悲しみを負っても、それでも生きていきます。ひとり暮らしでも近場に子供や子供家族がいれば、気は紛れるかもしれません。でもひとりで食事をするとき、寂しさが募るのではないかと推測します。

 私が金沢元町教会に赴任したとき、教会を会場としてアルコール依存症の人たちの自助グループの会が行われていました。参加者が自分の思いを語り合うのを互いに聞きます。参加者は互いの思いを分かち合い、それを励みにして飲まない生活を続けています。私もしばらく参加を求められたので参加しました。自分の現実を語り聞いてもらうのはいいなと思いました。同じ悩みを持つ者の集いですから、互いの話に共感できます。また正直に話しても恥ずかしいことはありません。自分ひとりではないと思うと、励まされます。

 そこで伴侶を喪った人たちが集い、自分の思いを語り合う会が行えるといいなと思います。信仰者の集会なので、聖書を読み、互いのために祈り合う集いができたら、支えになるのではないかと思います。

 思い出す人がいます。女性教会員が夫を天に送りました。夫婦とも教会員でした。彼女は息子家族と同居していましたが、深い悲しみに沈んでいるように見えました。手紙のやりとりをしましたが、悲しみがひしひしと伝わってきました。

 ある時、祈祷会に出席している姉妹が、彼女を祈祷会に誘いました。彼女を車に乗せて一緒に教会に来ました。その頃の祈祷会は、牧師が聖書を教えるのではなく、参加者が聖書を読んでの思いを語り合うのが中心の会でした。互いの話しを聞くのは楽しく、笑いもあり、参加者も少しずつ増えていきました。そんな交わりの中に入った彼女は見違えるように変わりました。信仰者の交わり、聖書と祈りの交わりが彼女を支えました。とても元気に礼拝、祈祷会、家庭集会にも参加するようになりました。やがて「私はいつ死んでもいい」と話されるようになりました。神の国の希望にしっかり立つようになられたのだと思いました。信仰者の交わりの力を感じました。

馬見丘陵公園 2023.2.4



人生航路の第三段階(9)タラントンのたとえ

 主イエスは天国を語るとき、タラントンのたとえを話されました。マタイ福音書25章14節以下。ある人が旅行に出かけるとき、僕(しもべ)たちを呼んで自分の財産を預けました。それぞれの力に応じてひとりには5タラントン、別の僕には2タラントン、3番目の僕には1タラントン預けました。

 かなりの日がたってから僕たちの主人が帰ってきて清算を始めました。どれくらい儲けたのかを主人はチェックしたのです。5タラントン、2タラントン預けられた僕はそれぞれ預けられたと同額を儲け、主人から「よくやった」と喜ばれました。三番目の僕は主人は厳しい人だから商売で失敗して預かった1タラントンを失うことを恐れ、何もしませんでした。彼は主人から役に立たない僕と見なされ、外の暗闇に放り出されたとあります。

 これは天国のたとえだと主イエスは教えました。どういうことでしょうか。人は神から賜物を与えられて誕生します。その賜物をどのように生かして人生を生きたのか、そのことが神から裁かれることを教えています。

 人は自分と他者を比較します。能力の違いを知ります。自分の能力の小ささを悲しみ、嘆きます。あるいは能力のある人を羨み、嫉妬したりします。別な人は自分の才能を誇り、優越感に浸るかもしれません。

 ある時、気づきました。沢山のタラントンを与えられた人は、それだけ多くの働きをすることが求められると。牧師仲間でも有能と思われる人は色々な役割を与えられて多くの働きをしています。やりがいがあるかもしれませんが、それはそれで大変なのではないか、と思いました。それで自分と人の比較をやめ、自分は与えられた賜物を活かせばよいと悟りました。そして終わりの日の裁きの時に、「あなたはよくやった」と神さまに言われることを願うようになりました。

 最後の審判は、それが裁きであるゆえに恐ろしく感じます。罪に対する裁きについては、イエス・キリストを信じ、義とされているので心配はありません。

終わりの日がきたなら 裁きの座を見あげて
わが力の限りに 心を高くあげよう
讃美歌2編1番

 忘れてならないのは、与えられた賜物をどのようにいかして生きたのか、それを神さまはご覧になります。神さまの評価を励みにして自分の賜物を感謝して用いることが大切だと考えます。そのようにして私は生きてきました。

ホトケノザ 馬見丘陵公園