クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第三段階(16)私を待っている復活

コリント一 15:12~14

キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。

 キリストが復活されたので私たちの復活があります。死を越える希望を信じる根拠を私は考えます。キリストの復活という歴史的な根拠は私にとっては大切なことです。キリストの復活があるので、私の復活を信じることができます。

 使徒パウロは復活について語ります。

コリント一 15:42~44

死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。

死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。

 この世での生涯はいつの日か終わりを迎えます。それが遠くないことを感じる年齢になりました。信仰者としての大きな楽しみは、復活した時の自分がどんな自分なのかを見る楽しみです。

 キリスト者は御子に似た者へ変えられ、キリストの栄光ある体と同じ形に変えられます。それはどんなものなのか、それを知る大いなる楽しみ、喜びが待っています。

 しかし悪魔が私にささやきます。「希望を持つのはよい。キリストの復活を信じるのはよい。しかしお前が信じることが本当であるとどうしていえるのだ」。信仰には疑いが伴うものです。

 しばらく前、聖書を読んでいてはっとしたことがあります。ヨハネ福音書11章ラザロの復活の箇所です。イエスがマルタに問います。

ヨハネ 11:25~26
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。

 主イエスが私に「あなたはこれを信じるか」と言われたら、信仰者として「信じます」と答えます。そして神の約束を信じる信仰者であることが私のアイデンティティーであることをいつも確認します。

サンシュユの蕾 馬見丘陵公園 2023.02.22

 

味わう楽しみ

 老いの日々。単調な生活が続きます。何か新しい人生の展開があるわけでもなく、昨日と同じような歩みを今日、そして明日もします。一日の終わりに感謝の祈りをして休むことができるのは幸せなことだと感じます。

 老いの中にあって楽しみを見出して生きることは大切であると思います。現在の私の楽しみは、聖書を読み思いめぐらすことです。今私のテーマは、神の愛を知ることです。神の愛の広さ、高さ、深さを知ることです。そして伝えることです。現役の時、神の愛について説教をしましたが、本当に神の愛を伝えることができたのか、との反省があります。

 また料理をすることも楽しみです。自分が作ったものを食べることは楽しいです。料理を上手になろうという気持ちはありません。それは無理です。包丁さばき一つをとっても未熟です。おいしく作ることのできる料理を見つけて、それを作り味わい、楽しむことです。私が作るものを妻が喜んでくれるのもうれしいことです。

 そして讃美歌を歌うことも楽しみです。歌詞を味わうことが多くなりました。以前は好きな曲を歌うことがうれしく楽しかったですが、歌詞を味わいます。信仰に生きる思いを大切にしたいと思うからでしょうか。最近は十字架をテーマにした讃美歌を歌うことが多いです。やはり救いの原点です。救われたことを感謝します。

 聖書も料理も讃美歌も共通しているのは味わうことだと気づきました。

 

福寿草 去年の写真



人生航路の第三段階(15)キリスト者の目指すもの

ヨハネ一 3:2~3
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

 

コリント二 3:18
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

 

フィリピ 3:21
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

 

 これらの聖句は二つのことを語っています。第一に神の国に迎えられるキリスト者は、キリストに似た者に変えられることです。第二に、キリスト者のこの世の歩みは、キリストに似た者となることを目指す歩みであることです。

 キリスト者はこの世にあって、キリストと共に死に、復活してキリストと共に生きる者となりました。キリスト者は義とされ、キリストに結ばれ、神の子とされました。神の子とされたキリスト者は、神の御子に従う歩みをし、神の御子に近づく歩みをします。そして神の国に迎えられるとき、神の御子に似た者に変えられます。救いの完成です。

 人生は登山に例えられます。登山は頂上を目指し、山道を忍耐強く登っていきます。山道とはキリストに倣う道であり、頂上に達して、キリストに似た者に変えられます。

 キリスト者は神の教えに従うことを志します。教えを守るとは言い換えるとキリストに倣うということです。キリストは死に至るまで神に従順でした。キリスト者にとって神の教えを守るとは、守って立派な信仰者になるというのではなく、いよいよキリストに似た者になっていくことを意味します。キリストに従うということも、キリストに似た者となることを目指すということです。

 そして私たちは自分の人生、そして今の生活の中で、神の御心に従い、キリストに似た者を目指し、聖霊の助けによりキリストに似た者へと変えられていきます。人が個性を持ち、その人の人生を歩むように、キリストに似るといっても、人それぞれです。キリストに似るとは、罪を犯さず、神の御心に従って生きる人になることを意味します。
 キリスト者は地上の生活で罪を犯しますが、それでもなおキリストを目指して歩みます。そのようにして神の栄光を現します。それがわたしたちに対する神の願いであり、神が人を創造した目的です。

 私たちキリスト者は教会に属し、他のキリスト者と共にこの目的に向かって歩みます。

 

 

私の心に刻まれた聖句の紹介

信仰生活の中で、どんな聖句に生かされてきたのか振り返ってみました。

 

ローマ 12:1

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

 

ペトロ一 1:24~25
人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

 

ヨハネ一 3:1
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。

 

コリント二 3:18
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

 

テトス  3:5
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

 

ヘブル 2:14~15
ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

 

コロサイ 1:13
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

 

 

 

人生航路の第三段階(14)キリスト者の復活

 永遠の命のところでも書きましたが信仰には「すでに」と「いまだ」という面ががあります。復活にも当てはまります。終末が到来すると私たちは復活し、キリストの栄光ある体と同じ形に復活します(フィリピ3:21)。あるいは霊の体に復活します(コリント一15:44)。この意味では、私たちは「いまだ」復活していません。

 しかしキリスト者は、「すでに」復活しているという面があります。

ローマ 6:3~5
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

ローマ 6:8
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

 以上の聖句は、キリスト者がキリストと共に死んで、キリストと共に復活して、新しい命に生きる者になっていることを告げています。キリスト者は「すでに」復活しているのです。キリスト者がすでに復活していることは何を意味しているのでしょうか。

ローマ 6:7
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。

 罪に支配された私は死んで、罪から解放され、神の子として生きていく私が復活しました。神はキリストを死者の中から復活させました。罪で苦しむキリスト者を罪から解放することはむずかしいことではありません。救いの恵みとして、キリスト者を復活させてくださいます。キリスト者の新生、罪からの解放は救いの恵みとして約束されています。

 キリストと共に復活して、神の子とされていることを信じるところから、罪に打ち勝ち、罪から解放される歩みが始まります。これは神の恵みによります。

白梅 春日大社萬葉植物園

 

詩編139編を読んで

 今週は詩篇139編を黙想しています。この詩篇には印象に残る言葉があり、親しみを覚えています。きちんと読んで黙想するのは今回が初めてです。こんな出だしです。

詩編139編
主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。

 一言で言えば、神は、私のことを何でもご存じであると書かれています。自分の立ち居振る舞い、自分が考えていることみな神はご存じです。神から逃れて、神から離れて、こっそりひとりの世界に逃れることもできないと語られます。

 神は、私のことをご存じで私を導いてくださる、これは感謝なことです。でもたまには、神から離れて、ひとりで過ごしたいと思うほど、この詩人は強烈に、神は私のことをご存じですと語ります。

 「人には誰にも知られたくない秘密が一つや二つはあるものだ」という台詞は、ドラマを見ていると聞くことのある言葉です。自分は秘密にしているつもりでも、神はご存じと考えると、複雑な気持ちになります。神に対しても秘密にしていることが私たちにはあると思います。秘密にしていることは、祈りにおいて、神に話すことはありません。

 私たちの心には、神に対する疑い、神に対するひそかな恨みや怒り、といったものがあるのではないかと思います。祈っても願い通りにならなかったり、思いがけない出来事に直面しての嘆き、悲しみ、苦悩、どうしてこんな目に遭うのかと憤り、なぜ神はこのような目に遭わせるのか、と思うことがあります。自分の生まれ育った環境になじめなかったり、もっと別な状況に生まれたかったのにと自分の運命を呪いたくなるようなことがあります。

 神を信じて祈る生活をするとき、上に述べたようなことを心の中に封印してしまうということがあることを思います。神に対して否定的な思いを持ってはいけないという配慮が働きます。

 人生を長く生きてきた身として、この詩篇を読んだことをきっかけに、封印を解いて、神さまに祈ってもよいのではないかと思わされました。

 

何を考えているのか 春日大社参道で

 

人生航路の第三段階(13)神の国での永遠の命

 信仰を考えるときに、「すでに」と「いまだ」という二つの焦点を考えることが大切です。つまり永遠の命は「すでに」キリスト者に与えられていますが、完全な形では「いまだ」与えられていないということです。次の聖句がそのことを示しています。

コリント一 13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

 私たちは今、つまり「すでに」鏡におぼろに映ったものを見るように神を見ており、神について一部を知っています。しかし「いまだ」顔と顔を合わせるように神をはっきりとは見ておらず、神をはっきりとは知りません。しかし「そのとき」、つまり神の国が到来するとき、顔と顔を合わせるように神を見、神のことをはっきり知るようになるというのです。

 神と私たちの結びつきがはっきりするので、私たちは栄光に輝く神を見、神のことをはっきり知って、神をたたえるようになります。神の国で永遠の命に生きるとは、神の栄光を仰ぎ、、神をたたえることと言ってよいと思います。そして私たちも罪のないキリストの似姿に変えられ、神との永遠の交わりの中に生きることとなります。

 だから今、ぼんやりとしか見ていなくとも、神さまのすばらしさを仰ぎ見て、神さまをたたえて生きていきたい。

春日大社萬葉植物園