クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の愛を知る(6)キリストの愛の大きさ

主イエスは十字架にかかる前の夜、弟子たちに教えられました。

ヨハネ 15:13
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

 友のために自分の命を捨てることが大きな愛であることは理解できます。なかなか実践できるものではありませんが。主イエスがおっしゃるのですから、これ以上に大きな愛はないと考えます。

 使徒パウロはこう語ります。

ローマ 5:6~8
実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 キリストは友のために死んだのではありません。正しい人のために死んだのでもなく、善人のために死んだのでもありません。不信心な者、神に逆らい罪を犯す罪人のために死なれました。キリストはこのような人たちのためにも十字架で死なれました。彼らが神に立ち帰り、信仰に生きることを願ってです。

 友のために命を捨てることほど大きな愛はないと主イエスは教えられました。不信心な者罪人のために命を捨てるキリストの愛はどれほど大きいのでしょうか。人間の愛は、友のために命を捨てるとき最大限の愛となります。神の愛は、罪人のために命を捨てる愛です。この愛は、どれほど深く、大きいのか、想像できません。友のために命を捨てる愛よりも、はるかに大きな愛であると思います。

エフェソ 3:18~19
また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

 キリストの深い愛で自分は愛されているんだよと自分の心に語ります。

ナズナ 散歩道

 

神の愛を知る(5)十字架の叫びから知る愛

マルコ 15:33~34
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 神であられた方が人となり、救い主としての活動を始めました。しかし宗教的権威者から疎(うと)まれ、ついには十字架で処刑されることとなりました。救い主として世に来られたのに、人々は「十字架につけよ」と叫び、御子を十字架に追いやりました。さらに御子イエスは弟子たちにも見捨てられました。そして最後には神にも、父なる神にも見捨てられました。

 御子が十字架で処刑されることは御父の計画でした。十字架で処刑されたことは御子の活動の失敗、挫折ではありません。御父の計画が完全に実行されたのです。その結果は思いもよらないものでした。救い主である御子は十字架の上で、大変なことを体験したのです。それは叫びとなって現れずにはおれませんでした。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。

 御子の十字架の死は神の計画でした。なぜ十字架の死なのでしょうか。

 神は人間を愛し、人を創造しました。人は神との交わりに生きるように造られました。しかし人は神に背き、自分の思いと自分の考えによって生きるようになりました。偽物の神を造ってはこれを崇め、まことの神を見捨てました。その結果、人は罪を犯し、人間の世界は混乱に満ちるようになりました。それは現代も同じです。神は義なる神であり、罪を放置することはできません。罪に対する裁きを行います。この裁きから救われる人は一人もおりません。

 愛の神は、罪を犯す人間をなお愛し、ご自身との交わりに招かれます。神は義なる神、正しい神ですから、罪を犯し続ける人間を交わりの相手にすることはできません。そこで神は御子を十字架に送り、そこで人間の罪に対する裁きを実施しました。人間の罪に対する神の裁きを御子は十字架の上で一身に負ったのです。御子が人間に代わり、神の裁きを受けました。

 十字架において、罪人を招くという神の愛が全うされ、罪を裁くという神の義が全うされました。御子を信じる人を神は御自分との交わりに招かれます。
 御子は人類の罪を背負い、神の裁きを受けました。つまり御子は神に見捨てられました。神に見捨てられるという事態がどのようなものか想像できませんが、御子は神に見捨てられる体験をしたのです。この宇宙において、絶望の極みとなるものは神に見捨てられることだと私は考えます。

 神である御子が神であることにこだわらずに人となりました。救い主として世においでになったのに、人々から疎まれ、十字架の処刑に追い込まれました。挙げ句の果てに神に見捨てられました。なぜ、このような歩みを御子はされたのでしょうか。答えはただ一つ。御子も人間を愛し、人間の救いを願ったからです。さらに言えば、御子も人間との交わりを願われたからです。

エフェソ 1:4~5
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

 御父なる神さまの計画は、私たち人間を御自分の前で聖なる者、汚れのない者にすることでした。イエス・キリストを信じる私たちを、神は神の子としてくださいました。キリスト者は神を天の父と仰ぎ、神との交わりに生きるように招かれた存在です。このために御子は御自分の命を犠牲にされ、十字架の上でとてつもない絶望を味わいました。ひとえに私たちに対する愛のゆえです。

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神の愛を知る(4)神の身分を捨てる御子の愛

フィリピ 2:6~7
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 

 御子は御父の提案を受け入れ、人となり地上の歩みをすることを受け入れます。神であるのに神の身分に固執せず、人となるのです。

 もし私がアリになってアリの世界に行き、アリの救い主となるためにアリとして死ぬように神から提案されたら、私は即座に断ります。第一に人間としてのプライドがアリになることを許しません。第二にアリのために自分の命を捨てる理由を見出せません。私にとってアリが本当に大切な存在なら、アリのために自分を犠牲にすることができるかもしれませんが、私にとってアリは、ただの虫に過ぎません。アリのために自分を犠牲にするなんて考えられません。真っ平御免です。

 御子は、神であるのに人となります。神としてのプライドを捨てました。神にプライドがあるのかという問いがありますが、旧約聖書ではイスラエルの民が神の御名を汚すことを神は嫌っています。イスラエルの民が神の名を崇めること、神の栄光を現すことを神は求められます。神にもプライドはあると考えてよいと思います。人々から崇められてこそ、神なのです。

 御子が人となることは、人々から自分が神と認められることを求めないことを意味します。人々から尊敬されず、嫌われ、嘲(あざけ)られ、侮辱される可能性を認めることを意味します。さらに殺されるのです。

 それをも受け入れて御子が人となるということは、御子が人間を愛していることを意味しています。人間の救いを願っていることを意味します。ですからそのために自分を犠牲にしてもよいとさえ考えていることを意味します。さらに御子は御父を愛し、御父に従順です。

 人となったイエスは、捕らえられて裁判を受けるときから十字架の死に至るまで、人々から嘲られ侮辱されても、怒ることなくされるがままでした。御子はプライドはこだわりません。そこまで自分を低くしました。神である方が人間に侮辱され、けなされ、殺されるところまで自分を低くしました。それはなぜかと言えば、御子は人間を愛しているからです。そして人間の救いを願っているからです。

使徒パウロは興味深いことを書いています。

エフェソ 3:18~19
また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

 キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解するようにとパウロは祈っています。キリストの愛の途方もない豊かさを理解するようにと祈っています。私も理解したいと思って、思いめぐらしています。

黄梅(オウバイ) 散歩道

 

神の愛を知る(3)御父と御子の対話

ヨハネ一 4:10
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

ヨハネ 3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 上の二つの聖句は、神が御子をこの世に遣わしたことに神の愛が示されていると語ります。御子は御父によって世に遣わされることをどのように受けとめたのかと私は考えます。御父は御子に、「わたしはあなたを世に遣わしたいが、どう思うか」と御子の気持ちを聞いたと思います。そして御子は御父の意向を受け入れ世に遣わされたと考えます。御父は御子にどのように語ったのかと想像します。

御父:「御子よ、わたしは人間を救うためにあなたを世に遣わしたいと考えている。どう思うか」
御子:「救い主として世に遣わされることには何も問題はありません」
御父:「わたしがあなたを世に遣わすとき、あなたは人間として世に生まれる。人間として育つ。人間として活動する。人々を教え、神の力を現す。でも最後にあなたは人々によって殺されることになる」
御子:「わたしは神であるのに、人間になるというのですか。人間として活動し最後に殺されるというのですか。神であるわたしが救い主として世に遣わされ、人々から歓迎されるのではなく、殺されてしまうと言うのですか」
御父:「そうなのだ。御子が死ぬことを通して救いの出来事が起きるのだ」
御子:「人間を救うために、神である私は人間となり、救い主として歓迎され受け入れられるのではなく、殺されるけど、そこに救いの出来事が起きるというのですか」
御父:「そうなのだ、御子よ」
御子:「何で神であるわたしが人間にならねばならないのか。さらには殺されるなんて」

 これは私の勝手な想像です。私はさらに想像します。神さまが私に語られます。

神:「わたしはあなたを蟻(アリ)の国に遣わしたいと考えている。アリたちを救いたいのだ。私はアリたちを愛しているので、彼らを救いたい。そのためにあなたはアリとなってアリの国に行って欲しい。アリの救い主となって欲しい。そしてわかりにくいことだが、あなたが死ぬことによってアリの救いが実現するのだ」
私:「お言葉ですが、私はいやです。アリの救いのために私の命を犠牲にするなんて承服できません。アリの命と私の命どちらが大切なのですか。人間としての私のプライドがアリになることを許しませし、アリのために命を捨てるなんて、考えられません」
神:「考え直してもらえないか。私はアリたちを愛しているのだ」
私:「私はアリを愛していないので、自分の命を犠牲にすることはできません」

 アリと人間は違います。人間は神にかたどって造られました。アリは虫です。人間にかたどって造られたわけではありません。

フィリピ 2:6~7
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

 私は人間の身分でありながら、人間であることに固執します。アリにはなりません。しかし御子は神の身分でありながら、神であることに固執せず、人間になってくださいました。なぜでしょうか。

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神の愛を知る(2)神の愛による人間の創造

 神の愛を知る手がかりは神が御子キリストを世に遣わし、御子を十字架の死に渡したことにあります。このことを考えるために目を向けたい聖書の箇所があります。創世記に書かれた人間の創造物語です。

創世記の1章に神が人間を創造されたことが書かれています。

創世記 1:26
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」。

 ここには人間に対する神の愛が暗黙の内に示されています。神は人間の存在を欲したのです。そしてご自身にかたどり、人間を創造されました。子供が親に似ていることは、親にとってうれしいものです。ご自身にかたどって人間を造られたことは、神にとって人間が特別な存在、好ましい存在であることを物語っています。言い換えると神は人間を愛しているということです。

創世記 1:27
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

 神がご自身にかたどって人間を造られたとき、そこには男と女がいたというのです。男と女がいたことは何を意味しているのでしょうか。人は他者との関係に生きるということです。神に創造された男と女は、夫婦となり、共に生きる者となりました。夫婦としての交わりに生きる者となりました。このことは示唆的です。つまり人が神にかたどって造られたことは人間が神との交わり、神との関係に生きることが神のご意志であることを示しています。そして他者との関係性、交わりに生きるとき大切なものが愛です。互いに愛し合うことによってよい関係を保つことができます。

 神は人間を愛し、ご自身にかたどって人間を創造されました。私たち一人ひとりが存在するようになったのは、私たちの存在を欲したもう神の愛があるからです。私たち一人ひとりの存在は、神が私たち一人ひとりを愛し、私たちが神との交わりに生きることを神が願っていることを示しています。

 私たちの存在は、私たちを愛し、私たちの存在を願う神の愛のご意志によります。私たちは神のご意志によって、この世に誕生しました。

 あなたは神に愛されている、これは創造物語のメッセージです。

梅の香り 馬見丘陵公園



 

神の愛を知る(1)手がかりの聖句

 エフェソ書に次の祈りがあります。

3:18~19
また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

 愛の広さ、長さ、高さ、深さという表現があります。これはキリストの愛がとてつもなく豊かであることを表現しています。そのことが人の知識をはるかに超えるこの愛と書かれています。

 人の知識をはるかに超える愛を私たちが知ることができるのかという疑問はあります。しかし知ることができるようにと祈られています。
 イザヤ書にはこんな言葉があります。

55:8~9
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。
天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。

 神が考える人の生き方や神の思いは、人間のそれを越えてはるかに高いと言われます。しかし聖書には神の思い、神が示される私たちの道は書かれています。私たちは神ではないので、神の思いをすべて知ることはできませんし、神の愛の豊かさ、大きさがどれほどのものかは知りませんが、しかし聖書を通して知ることができるものは知りたいと思います。

ローマ 5:8
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

ヨハネ一 4:10
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

 神の愛を知る手がかりは神が御子キリストを世に遣わし、御子を十字架の死に渡したことにあるというのです。神の愛はどのように示されているのでしょうか。

ロウバイ 馬見丘陵公園

 

人生航路の第三段階(17)神を見る

 使徒パウロは、フィリピ書でこう書いています。

フィリピ 1:21~24
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。
この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。
だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。

 パウロは、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望して」いると語ります。そこで死ぬことは益であるとも語ります。「死ぬことは益」と語るのは驚きです。パウロは死を越える希望について、キリストと共にあることを熱望しています。私はパウロの信仰の境地に達していないので、彼のような告白ができるようになったらうれしいと願っていますが、まだ途上です。私の希望は、神を見ることです。

コリント一 13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。

 神は霊ですから肉眼で見ることはできません。神の国に迎えられたとき、顔と顔を合わせて見ると聖書にあります。どんな風に神を見るのか、今はそれは分かりませんが、そのときには見るとの聖書の言葉が実現することを信じます。神を見る希望にワクワクしながら、息を引きとることができることが地上生活の最後の望みです。神の国ではどんな賛美がされているのか、その賛美に加わることも楽しみです。

 パウロのように「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望」するようになることはいつも祈っている願いです。

 人生行路の諸段階は今回が最後です。

馬見丘陵公園 2023.2.22 梅満開