クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

義兄の葬儀に参加して

 今日は、妻の長兄の葬儀に名古屋まで行ってきました。義兄は大手企業で企業戦士として働かれたと私は理解しています。棺に、故人を記念するものがいくつか入れられました。会社社長からの感謝状が入れられました。意義ある人生をおくったことの証しなのでしょうか。身内なので火葬場にも行き、骨揚げもしました。火葬が終わり、骨だけが残され、兄の物理的な存在は消えました。

 火葬に先立ち、葬儀会館で「お別れ」の時を持ちました。無宗教で行われました。無宗教でどのように行われるのか、興味を感じました。葬儀社の方が進行の役目をしてくれました。まず葬儀社の方が棺の蓋を開け、祭壇とわきに飾られていた花束から小さな花束をいくつも作りました。BGMが流れるなか、10分ほど時間をかけました。よく聞く曲だなあ、何の曲かなと思い出しながら聞いて、思い出しました。一曲目は "TIME to SAY GOOD BYE"。もう一曲は、ラフマニノフのヴォカリーズでした。参列者が音楽の流れる中、花を飾り、個人の形見を棺に入れ、別れの時を持ちました。儀式めいたことは何もなく、時間をかけて棺に花を飾るだけでした。無宗教だから、なるほどと思いました。

 参列者が花を飾る間私は遺影を見ていました。働き盛りの時のいい写真でした。義兄は生涯を終えたのだなと思いながら見ていました。

 牧師として何度も火葬場に行き、骨揚げをしてきましたが、牧会を離れ久しぶりの火葬場でした。今回の感想は、「明日は我が身」でした。そして聖書の言葉が聞こえてきました。

ヨハネ 11:25~26
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。

 「このことを信じるか」。この言葉が心に刺さります。

葬儀会館に向かう途上で

 

 

信じる心と疑う心(2)恵みの高き嶺へ

 疑う心はあるけど、それにもかかわらず信じる、それが自分の信仰だと私は考えてきました。最近、それでいいのかと考えるようになりました。

 きっかけは youtube で「恵みの高き嶺(ね)」という聖歌を聞いたことです。 youtube で賛美を聞くのは、今は私の習慣です。ディボーション(聖書黙想)をする前に画面を見ながら賛美します。「恵みの高き嶺」を何回か聞いているうちに心に残る讃美歌となりました。そしてある時、その歌詞が目につきました。

2番
恐れのある地に などかは留まらん
疑惑の雲をば 早く下に踏まん
光ときよきと平和に満ちたる
恵みの高き嶺 我に踏ましめよ

 私は若い頃、よく山に登りました。槍ヶ岳や穂高にも登りました。山を登っていると、見える景色が違ってきます。勿論、高く登れば登るほど見晴らしがよくなります。
頂上からは素晴らしい景色が一望できます。頂上に着いたときは達成感に満たされます。信仰の高き嶺からはどのような景色を見ることができるのでしょうか。どんな達成感に満たされるのでしょうか。楽しみとなりました。

 恵みの高き嶺に達し、疑惑の雲を下に見る、是非、経験してみたいと思いました。まずは祈りから始めることにしました。

タンポポ

 

信じる心と疑う心(1)

 先日ヨハネ福音書を読んでいて、自分がトマスについて誤解していたと気づかされました。イエスが復活したと弟子たちが告げたとき、トマスは信じようとしませんでした。そこからトマスは「疑い深い」と言われるようになりました。

 讃美歌243番「ああ、主のひとみ」の3番に歌詞にトマスが登場します。

ああ主のひとみ まなざしよ
うたがいまどう トマスにも
・・・

 この讃美歌にも「疑い」という言葉があり、トマスは疑い深い弟子だと私は思ってしまいました。しかし聖書を読んでみると、トマスは疑い深いのではなく、信じることに用心深いというべきだと思いました。

20:25
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。

 トマスは他の弟子たちの語ったことを疑ったと解釈できますが、ほかの弟子たちの言葉を聞いて信じないのは、自分は納得して信じたいと考えていたと理解します。トマスは信じたいのです。自分なりに納得して信じたいのです。疑い深いのではなく、用心深いのだと理解します。

 イエスは彼に「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。信じない者と信じる者との対比があり、信じる者になりなさいとイエスは言われました。「疑わず、信じなさい」と言ったのではありません。

 私には疑い深い面があるので、トマスは私だと思ってきましたが、トマスと私が違うことを思いました。私は信じている事柄に対しても、それは本当か、と自分に問うことがあります。

 光に向かって歩むとき、後ろを見ると影があります。信じて真っ直ぐに歩んでいても、後ろを見ると影、信じる心には疑う心が伴うと思います。疑う心はあるけど、それにもかかわらず信じる、それが自分の信仰だと私は考えてきました。疑いがあるけど、それにもかかわらず信じる、とても人間的で正直で嘘がなくいいと思ってきました。私のような信仰者もいるだろうし、そのような人たちの模範となればよいのではないかとも考えてきました。

 最近、それでいいのかと考えるようになりました。

フユアオイ 萬葉植物園



 

受難節黙想 23:44~49 私の霊を御手にゆだねます

 ルカ福音書では、十字架につけられたイエスは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って、息を引き取られました。

 マルコ、マタイによる福音書の「なぜ私をお見捨てになったのですか」という叫びとは違い、ルカが描くイエスは「御手にゆだねます」と穏やかに死んでいきます。

 死に際し、自分の霊を神にゆだねるのは、すべてのクリスチャンに共通の思い、願いであると思います。キリスト者は自分の死に際し、イエスに倣い自分の霊を神にゆだねて死にます。神にゆだねた後、終わりの時に復活し、神の審判の後、神の国に迎えられると信じて命を終えます。神にゆだねるとは自分の死後のことについて、自分では何もできないということです。しかしゆだねることができます。ここにキリスト者の希望があります。

 信仰を持たない世の人々は、死を宿命として受けとめ、自分の死を受け入れます。生まれてきたからには宿命として死があると考えます。キリスト者は神にゆだねることができます。

コリント一 8:6
わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。

 信仰者は、神のもとに帰ります。神に自分の霊をゆだねて死んでいきます。

 かつて私は、生涯の最後に神にゆだねるなら、ゆだねる訓練をしようと思いました。つまり地上の生涯を神にゆだねて歩むことにしました。

 人生の大きな流れとしては、福音を宣べ伝える働きに召されたと信じ、神にゆだねて、牧師として生きる道を選びました。神の召しに応えての応答ですが、どのような歩みをするのかまったく予想もつきませんでした。牧師として、三重県、静岡県、石川県の教会で働きました。そして今奈良県に住んでいます。自分で選択した結果ではなく、神にゆだねた結果です。

 日々の生活でも、自分なりの計画や思いで歩みますが、それ以上に聖書を読み、神の導きを得て、その神の導きに身をゆだねて歩んできました。そして今思うことは、神の導きにゆだねてよかったということです。

 年を重ね、いつ地上の生を終えてもおかしくない身となりました。神にゆだねて生を終えることが大きなそして最後の課題になります。

わが行くみち いついかに
なるべきかは つゆ知らねど
主はみこころ なしたまわん

そなえたもう 主のみちを
ふみてゆかん ひとすじに
(讃美歌494)

寒アヤメ 萬葉植物園

 

 

複雑な心

 朝、テレビを見ていたら、大谷翔平選手の会見が開かれました。通訳の水原一平氏の賭博に関わる会見です。大谷選手は、自分の立場を明確に語りました。

  • 自分は賭博をしたことはない。
  • 賭博で負けたお金を送金したこともない。
  • 水原氏がギャンブル依存で、借金があること、自分の口座から水原氏が借金返済のための送金をしたことも知らなかった。
  • そして水原氏の行為について悲しく衝撃を覚えていること、自分の気持ちを言葉で表すことがむずかしいと語っていました。

 大谷選手と水原氏はビジネスパートナーとして、互いに信頼し合う関係でしたし、水原氏の支えは、大谷選手にとって欠かせないものだったと思います。水原氏の支えがなくて、同じような活躍ができるのかどうか、不安に思う気持ちも大谷選手にはあったのではないかと推測しました。

 絶大な信頼関係を築いてきた人が自分を裏切ったことを知ったときの気持ち。この気持ちを言葉でどう表現したらよいのか分からない、その通りだと思います。

 信頼関係を失った悲しみ、裏切られたことに対する怒り、今後のことへの不安、なぜこんなことになったのかやり場のない憤り、水原氏の今後の歩みへの思い、・・・。

 会見を見ていて、私の心の中にも何とも言えない思いが湧いてきました。そして思いました。人間が罪を犯し、神を裏切ったときの神の気持ちってどんなものなのか。これと似ているかも知れない、と。

ショカツサイ 萬葉植物園



 

受難節黙想 ルカ 23:39~43 憐れみに富むイエス

 23:39~43
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。
すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 イエスと共に十字架につけられた犯罪人が二人いた。イエスをののしった犯罪人A。彼をたしなめた犯罪人B。これを読む時、いくつか疑問が湧いてくる。

  • 犯罪人Bは犯罪人Aに「お前は神を畏れないのか」とたしなめた。犯罪人B自身は神を畏れる人だったのか、否か。神を畏れる人ならなぜ、死刑になるようなことをしたのか。神を畏れていないなら、なぜ「お前は神を畏れないのか」との言葉がその口から出てきたのか。
  • イエスについて、犯罪人Bは「この方は何も悪いことをしていない」とどうして言えたのか。イエスのことをどれほど知っていたのか。十字架に共につけられた時、初めてイエスと出会ったとして、どうしてこのようなことが言えたのか。
  • 犯罪人Bは「イエスよ、あなたの御国においでになる時は」という発言をどうして言えたのか。イエスが御国に行くとどうして知っていたのか。
  • そもそも十字架上のこのようなやりとりが、なぜ伝えられたのか。二人とも十字架で処刑されて死ぬ。誰がこのやりとりを聞いて伝えたのか。復活したイエスが弟子たちに伝えたのか。それとも十字架のそばにいたローマ兵士がこのやりとりを聞いて、伝えたのか。

 聖書を読むと疑問を感じることがある。でもそこから黙想が始まる。

 犯罪人Bは、自分と一緒に十字架につけられたイエスを周りにいる人たちが侮辱するのを聞いた。一体、この人は何者なのか、との疑問を持ったはずである。しかも「メシア」という言葉を聞く。さらに人々が「自分を救ってみろ」とイエスを侮辱しているのを聞く。そしてイエスを見る。

 犯罪人Bには、イエスが死刑に値する犯罪を犯したとは思えなかった。また神を語り人々を惑わした人物にも見えなかった。むしろ人々が「メシアなら自分を救ってみろ」とあざけるのを聞いて、イエスがメシアに思えたのではないか。

 犯罪人Bはなぜ、御国について語ることができたのか、分からない。彼は自分が死刑でまもなく死ぬことを知っている。思わずイエスに救いを求めた。「わたしを思い出してください」。彼の精一杯の救いを求める言葉と考える。イエスはそれに応えた。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」。

 イエスはこの犯罪人Bの言葉の中に悔い改めを見たと言える。イエスは彼の救いを求める言葉に応えられた。憐れみと慈しみに富むイエスを見ることができる。救いを求める気持をイエスは軽んじない。イエスは私を救いに招かれる。死の床にあって「あなたはわたしと共に神の国にいる」とのイエスの声を聞けたらと願う。

ネモフィラ 馬見丘陵公園

 

受難節黙想 ルカ 23:32~43 イエスの従順

 十字架の場面のひとつの特徴は、イエスが人々から侮辱されたことである。最高法院の議員たちは

「他人は救ったのだ。神からのメシアなら、自分を救うがよい」

と言って、イエスをあざ笑った。主イエスを十字架につけたローマの兵士たちは

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」

と侮辱した。十字架につけられた犯罪人の一人は

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」

とイエスをののしったとある。

 人間というのは自分に対するこのような嘲り、ののしり、侮辱に対しては憤りを覚えるものである。そして敵意、憎しみを抱く。しかしイエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈っている。

 ここに登場する人間は自己中心という立場に立っている。そこからイエスをののしり、あざ笑い、侮辱する。しかしイエスは、愛という立場に立つ。自己中心の立場に立つ者たちの罪に怒り、これを責めることをしない。むしろ罪の中にある者への憐れみから、父なる神に赦しを祈っている。

 ゲッセマネの園で、この杯を取りのけてくださいと祈られたイエスは神に御心を行ってくださいと祈り、その御心に従うことにした。イエスは神と心を一つにする。つまり罪を犯した人間を救うという神と心を一つにし、人間を救うために自分が果たすべきことを果たす。この場面では、人々のなすがままに身をゆだね、死ぬことを神の御心として受け入れている。

 このようなひどい仕打ちに遭うことを神の御心としてイエスは受けとめる。イエスは活動に先立ち、荒野で悪魔の誘惑を受けた。悪魔はイエスに世界のすべての国々を見せ言った、「この国々の一切の権力と繁栄を与えよう」。イエスは今、一切の権力と繁栄とは、全く反対のところにいる。全く無力であり人々の侮辱を受けている。

 悪魔の声に従っていれば、こんな目に遭わないで済んだのにとは、イエスは勿論考えない。神の御心を果たす中で、今の自分があること、今の状況のあることをイエスは受けとめる。それは人類の救いのため、そして私の救いのためである。

 死に至るまで、十字架の死に至るまで、神に従順に生きるイエスを見る。十字架の死に至るまで、そこには人々からの侮辱を受けるという状況もあるのにイエスはなお神に従順に歩まれた。人々の侮辱・ののしり・嘲りは、イエスにとって神に従順に生きることの妨げにはならなかった。神に対してイエスは徹底して従順に歩んだ。僕にもこの徹底さが必要なのかも知れない。信仰に生きることを徹底すること。パウロはロマ書を書いた時その出だしで、自分が福音を伝えるのは信仰の従順に導くためであったと書いている。

 人間を救うために徹底して神に対して従順に生きるイエスの従順。このイエスの従順は、当たり前のものではなく、真実なものであると受けとめる。そしてこの真実に目を留めるなら、信仰者がひそかに抱く不信仰は砕かれ、神への従順に導かれるのではないかと思う。

ボケ 馬見丘陵公園